■土浦梁太郎の決意【7】 土浦

 師の自宅に来て数日後、梁太郎は事務所のスタッフから1通の封書を手渡された。
 事務所の住所の自分宛に届いた封筒の裏にはコンクール事務局の名が。
 ペーパーナイフを借りて封を切り、中身を取り出す緊張の瞬間。
「お、ついに来たな。さーて、音楽の神様からのラブレターか、それとも絶縁状か── それは神のみぞ知るってな」
 後ろからガシッと肩をつかまれ、ひょいと手元を覗き込んできたのは彼の師であるマエストロ。
 1ヶ月ほど前、公演の合間にオケで振る機会を与えてもらった。
 もちろん指揮台に立つからには真剣に取り組んだ。
 その時の様子をスタッフのひとりが撮影し、それを師がコンクールの事前審査に応募してくれていたのだ。
 ここまでお膳立てしてもらえるなんて、本当にありがたい。足を向けて寝られないとはこのことだ。
 震える指で中身を取り出す。
 不合格ならここで終わり。せっかくの特訓合宿も意味のないものになる。
「── おおおっ! やったな、リョウ! まあ、いい感じに肩の力が抜けてたから受かるとは思ってたけどな」
 がしがしと頭を掻き回されながら、プリントされた文字から目が離せなかった。
 ── 『合格』の文字。
 同封されていたのは予選から本選までの日程などの詳細が記された薄い冊子。
 じわじわと喜びがこみ上げてくる。
 前に出たコンクールでもセミファイナルまでは行ったのだし、事前審査には通る自信はあった。
 けれど今回のコンクールは彼にとって別の大きな意味を持っている。何が何でも合格しなければならなかった。1つ目の関門クリアだ。
「さあ、本腰入れて特訓するぞー」
「はい! よろしくお願いします!」
 梁太郎は儀式のようにシャツの胸ポケットをぎゅっと握り締め、中の硬い感触を確かめた。

*  *  *  *  *

「── ひどい顔だな」
 ホテル内のレストランでの朝食の席で、かかってきた電話に対応するためリザが中座した後で月森が眉間に皺を寄せてポツリと言った。
「えっ、そんなにひどい? ……って、仮にも女性に向かっていきなり『ひどい顔』はないんじゃない?」
 頬を膨らませる香穂子に、月森は苦笑を浮かべて、すまない、と素直に詫びた。
「……何かあったのか?」
「ん……まぁね〜」
 一晩中泣き明かした目は誰が見てもわかるほど腫れていた。まだ充血も残っている。 こうならないように冷たいタオルで冷やしたが、溢れる涙にタオルはすぐにぬるくなってしまって、意味を成さなかったらしい。
 腫れは仕方ないとして赤みだけでも消そうと、目元はステージに立つ時よりも厚化粧だ。
「昨日といい今日といい── 高校の頃を思い出すな」
「え……」
「君のコンミス就任がかかったアンサンブルを組んでいた頃だ。その頃も一時期、君は同じような顔をしていた」
「……よく見てたね」
「あの頃は家族と過ごす時間より、君たちと一緒に過ごす時間の方が圧倒的に長かったから」
 ふ、と笑みを浮かべながら、月森は上品にナイフとフォークを操って食事を口に運ぶ。
「── 土浦、か?」
「え」
 皿の中のスクランブルエッグをぐちゃぐちゃとかき回していたフォークがぴたりと動きを止めた。
 ちょうどその時電話を終えたリザが戻ってきて、香穂子はほっとした。
 どう誤魔化そうかと困っていたのもあるが、もし話し始めたとしたら、また泣いてしまいそうだったから。
 リザは席に戻るとほとんど料理に手をつけていないプレートを押しのけ、そこに開いたスケジュール帳を置いた。
「予定の変更よ。あなたたちの縁の場所でのロケ、今日になったの」
「えっ、やだ、今日は無理!」
「大丈夫、午後にしてもらったから。午前中はホテル内のフェイシャルエステに予約を入れてきたわ。それで何とかなるでしょ」
「うぅ……」
 そんな顔しないの、とリザは不服そうな香穂子の頬を指の背でスッと撫で、月森の方へ視線を向けた。
「レンは問題ないわね?」
「……はい」
「出発は昼食後。13時に迎えの車が来ます。それまでは各自やるべきことをやるように。じゃ、しっかり食べて、今日も一日頑張りましょう」
 パンッと勢いよくスケジュール帳を閉じ、押しのけたプレートを引き寄せ食事を再開したリザ。
 香穂子もつついていたスクランブルエッグをフォークですくって口に運んだ。
 食欲はなかったけれど、泣くばかりで夕食にありつけなかった身体は養分を欲していたらしく、意外にも普段と変わらない量の食べ物がきっちり胃に収まっていった。

 迎えに来たロケバスで連れて来られたのは懐かしい母校だった。
 経営難で分割、移転までの話が出ていた学校がこうしてここに存在しているということは、あの頃の自分たちがしたことが報われているのだと嬉しくなった。
 そういえばここ数年、音楽科への入学希望者が増えていると聞いたことがある。 世界で活躍するヴァイオリニストを続々と排出した学校となれば、それもわからなくもないけれど。
 自分と同じように魔法の楽器を与えられ、いろんなことに借り出されている気の毒な── いや、幸せな生徒がいるなら、会ってみたい気がした。
 せっかくここまで来たのなら、撮影の後で少しだけ時間を貰って実家に寄ってみようかな、とも考えた。ほんの数日前、あれほど慌しく出て行った実家がやけに恋しかった。
 正門から校舎まで延びる通路の中央に誇らしげに立つ像。
 放課後ここで待ち合わせをして帰る生徒が多かった。自分ももちろんそのひとり。
 思い出すと懐かしいのに、今は胸がチクチクと痛い。
 まだ午後の授業の最中だろう校舎はやけにしんと静まり返っていて。外で体育の授業をしているクラスもないのだろうか、と少し考えて、今日は日曜日だったと思い出した。
『── お、おおおっ !? 日野香穂子ではないか! 久しぶりなのだ!』
「あ」
 キラキラと視界の端を何かが横切ったかと思ったら、ポン、と姿を現す小さな生き物。
 香穂子が今ここにいる発端となった音楽の妖精・リリである。
『なんだなんだ? この騒ぎは。何かのお祭りか?』
── あ、あのね、今からテレビの撮影だから!
 声をひそめて必死に訴える。が、聞こえなかったのか単に気にしないだけなのか、
『おおっ、あそこに見えるのは月森 蓮! 懐かしいのだ!』
だ、だから! お願いだから邪魔しないでってば!
『むぅ、久しぶりに会ったというのに、冷たいのだ日野香穂子!』
……悪かったわね、冷たくて
『そういえば今日は土浦梁太郎は一緒ではないのか? お前と共に海の向こうへ旅立ったのだろう?』
 暢気すぎる声にカチンと来た。握り締めた拳に力が入る。
「── もうっ、ほっといてよ!」
 ずっと街の雑踏のように聞こえていた人の声や機材を準備する音が一瞬にして掻き消えた。
 慌てて振り返ると、その場にいる全員の視線が痛いほど集中している。
「あ、えと……ちょっと嫌なこと思い出しちゃって……お騒がせしてごめんなさいっ」
 ガバッと頭を下げると小さな笑いが起きて、音が戻ってきた。
 ふいに肩に微かな重み。
 香穂子の肩に手を置いたまま、月森が妖精像を見上げていた。
「── 君には今も見えるんだったな」
「……相変わらず余計な一言が多いんだから」
「ここにいる君以外の人間にファータは見えない。気をつけた方がいい」
「……そうだね。といっても、私に怒鳴られて姿消しちゃったけど」
 苦笑を浮かべ、肩に置いた手をトンと弾ませてから離れていく月森。
 少し身体の強張りが抜けて、ほんの少し気分が楽になったような気がした。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ちょっぴり出てきた土浦さん、自分のことしか見えてません(笑)
 そういやマネージャーのリザさんのイメージは、エリーゼよりグレイスかもしれません。
 ここはぜひ香穂子さんに『私のヴァイオリンを聴けぇー!』と叫んでもらいたいものです(笑)
 むむん、わかる人にしかわからない話でごめんなさい。
 そしてリリ登場(笑)

【2009/10/22 up】