■土浦梁太郎の決意【6】
テレビ局でディレクターをしている大学時代の友人の企画に便乗したこの取材。
たまたま一緒に食事をした時に彼女がポロリと漏らしたのを問い詰め吐かせ、それ以来胸の奥底で温め続けた取材計画を一晩で企画書の形に纏め上げて。
それを所属する女性誌の編集長ではなく、月刊ムジークの編集長の元に持ち込んだのは、イチかバチかの大きな賭けだった。
ムジーク編集長から提示された条件は決して魅力的なものではなかった。
誌面への掲載は記事の出来を見て判断すること。
経費は採用決定ならば支払われること。
ボツとなれば取材したものは活字になることなく葬られ、そうなればすべての経費は自腹となるのだ。
だが、神崎は一も二もなく了承した。採用されるもボツになるも、すべては自分の腕次第。
当然の如くカメラマンがつくわけもなく、写真撮影も自ら行わねばならない。
けれどレフ板持ちを用意しなくて済むのはラッキーだ、とほくそえむ。テレビ局のカメラクルーをうまく利用させてもらおう──
ファインダーを覗き込んでいた神崎は漏れそうになる溜息を必死に飲み込み、ゆっくりとカメラを下ろした。
凄い。ただその一言に尽きる。
指導計画立案なんてものではなく、ふたりのヴァイオリニストの演奏会のようだった。
すべてがヴァイオリンで構成されたオーケストラなんて、ふたりにとっても初めてのことだろうし、第一学生たちがどこまで弾き込んでくるかは集まって演奏してみなければわからない。
指導するにしたって自分たちが弾けなければ指導のしようがない。
渡された指揮者用のスコアにざっと目を通した後、とにかく弾いてみよう、ということになった。
パートを入れ替えながら曲を把握していくふたり。
残念ながら彼らが一度に演奏できるのは当然2つのパート。彼らが何人もいれば全パートの完成された曲を聞けるのに、と決して叶わぬことを考えてしまう。
最初は気にしていたカメラも眼中にないほど真剣に曲に向き合っている彼らを見ていると、なんだか申し訳なくなってきた。
結婚式場で偶然彼らと遭遇して、なんとしても彼らを取材したいと思った。音楽誌の記者として、彼らの音楽を活字に変換して伝えたいと。
だが本来の所属である女性誌記者としての好奇心が少なからずあったことは間違いなかった。
聞こえて来た親密そうな会話。お互いの家を行き来しているらしいふたりの関係。
頭の中で『人気ヴァイオリニスト熱愛!』の大きな見出しが誌面に踊る光景を思い浮かべた。音楽誌と女性誌、2本の記事を書くことができるかも。皮算用はどんどん膨らんでいく。
しかし実際のふたりを見ていると、確かに気安い仲ではあるのだろうが、そこには決して恋愛絡みの甘い雰囲気は感じられなかった。
失礼な憶測をしていたことを心の中で詫びて、彼らの音楽を世に伝えるための記事を精一杯書かせてもらおう、と意気込みを新たにした。
テレビカメラの邪魔をしないようにカメラを構え直すと、初見の楽譜だからだろう、香穂子がミスをした。次第に張り詰めてきていた緊張感がふと緩んだ。
「もうっ、いつも思うけど、総譜ってなんでこんなに音符が小さいのっ」
「……新聞ほどの大きさで辞書ほどの厚さのものを持ち歩く指揮者は、さぞ大変だろうな」
「そ……そうだよね、普通の大きさの音符じゃ、それくらいになっちゃうよね……それは大変だ」
あはは、と小指に弓をひっかけた右手の人差し指でポリポリと頬を掻く香穂子。
真剣な音楽家の顔から、お茶目な可愛らしい女性の顔が覗く。
1Fのカフェから移動してきた時もそうだった。
撮影期間中の彼らの宿としてこのホテルにテレビ局が部屋をリザーブしているらしいのだが、
チェックインを済ませた月森を案内するベルボーイを先頭にぞろぞろと列を成して辿り着いた部屋の前であった出来事に思い出し笑いがこみ上げてくる。
昨日到着して1泊したという香穂子の部屋は、月森のために予約された部屋の隣だった。
さてどちらの部屋で、となった時、ガタンと大きな音を立てて香穂子が自室の扉に貼り付いた。
「だ、だめっ! ち、ち、散らかってるから人様には見せられないっ!」
真っ赤な顔で必死になっている香穂子を見て、その場にいた彼女以外の全員が大笑いしたのだ。
たった1泊で人に見せられないほど散らかった部屋、というのに興味がなくもなかったが、結局そのまま月森の部屋が撮影場所となった。
広々としたジュニアスイート。テレビ局も張り込んだものだ。隣の部屋も同じような造りだという。
この待遇はさすが世界を股にかける音楽家。経費が自腹になるかもしれないという死活問題を抱えた自分とは住む世界が違う。神崎は漏れそうになる溜息を噛み殺した。
その後遅れて合流した指揮者を交え、曲想を練りながら学生たちにどう指導していくかを話し合う。
学生の音をまだ聞いていない指揮者も『聞いてみなければわからない』という結論に達し。
結局、初回練習後にまた話し合おうということで、本日の撮影はお開きとなった。
今日録った映像はどれくらい番組で使われるのだろう。1カット? もしくはまったく流されないのかもしれない。
テレビの世界も雑誌の世界も、外から見るよりずっと厳しい世界だ。
機材を片付ける耳障りな音の中、神崎はぼんやりとそんなことを考えていた。
ヴァイオリニストふたりと握手を交わした指揮者が部屋を出て行き。
機材を抱えたスタッフがひとりふたりと部屋を後にする。
人気が少なくなっていく部屋を見回すと、楽器を置いてソファで休んでいるふたりに美人マネージャーがお茶を出していた。
「── リザ、本番は一般公開なのか?」
「ええ、大部分は音楽を学ぶ学生。後はステージに上がる子の家族ってところかしら」
「そうか……なら、俺と日野とで演奏する曲は耳馴染みのある曲のほうがいいだろうな」
「そうね」
「少し考えてみたんだが、よく弾かれるピアノ曲をヴァイオリン2本にアレンジしてみるのはどうだろうか。
同じ曲でも楽器が違うと印象が変わる、というのは今回の企画の趣旨に合っていると思うんだが」
「そうね、ピアノ曲ならカホコもよく聞いてるでしょうし── カホコ、聞いてる?」
含み笑いのマネージャーの顔が急に険しくなる。
会話に参加せず、暖を取るように両手で包んだカップの中をぼんやりと見つめていた香穂子がふるりと身体を震わせた。
「え、な、何?」
はぁ、と大仰にマネージャーが溜息を吐いた。
「ステージでのレンとの演奏、ピアノ曲のアレンジでいいかしら?」
「え……ピアノ…?」
香穂子の眉間に皺が刻まれた。
「……気が乗らなければ、他の曲を考えるが」
日本人ふたりと日本語のできるマネージャー。3人の会話はなぜかドイツ語で、大学時代に少々かじった程度の語学力では彼らの会話の半分ほどしか理解できなかったけれど、
ピアノの曲をヴァイオリンで弾こうと言っているのはなんとなくわかった。
「あ、そ、そういうんじゃないの。うん、いいと思うよ。右手担当と左手担当ってことで、いいんじゃない?」
ぱたぱたと手を振りながらそう言って、香穂子はカップに口を付ける。『熱っ』と顔をしかめる彼女は、何をそんなに動揺しているのだろうか?
「選曲は月森くんにまかせちゃっていいかな? わ、私、ちょっと疲れたから部屋で休むね」
ソファから立ち上がり、そそくさと部屋を出て行く香穂子。
取り残されたふたりは顔を見合わせ、置き去りにされた彼女の大切な商売道具に視線を移し、大きな溜息を吐いた。
今日の取材はこれ以上は無理そうだ。
そう判断した神崎は、ふたりに向かって頭を下げてから急いで部屋を後にした。
* * * * *
部屋に戻った香穂子は、部屋の中の様子に思わず目を瞬いた。
昨日ここに入るなりぶちまけた荷物がすっきりと片付けられていたからだ。
部屋の片隅に見慣れたスーツケース。マネージャーのものだ。
ひとりになれないことが残念だった。同時にひとりにならずにすむことがありがたかった。
結局ウィーンのアパートにいたのは2時間ほど。うち1時間は眠っていたのだから正味1時間。
開いていたスーツケースをそのまま閉じて、逃げるようにアパートを飛び出して。テーブルの上に置いていた携帯は目に入らなかった。
どうしてあの時ピアノを弾こうなんて思ったんだろう。もう何年も触っていなかったのに。
どうして大屋根を開けようなんて思ったんだろう。そんなことを思わなければ見つけることもなかったのに。
よろよろとベッドに向かい、ボスンと倒れ込む。必要以上にふかふかな枕に顔を埋めて、ぎゅっと目を閉じる。
あれは自分の見間違いだったんだと思い込もうとすればするほど、その時の光景がくっきりと再生された。
ピアノの中に見つけたのは、小さな紙袋。厚みのある艶やかな紙で作られた袋はブランドショップかジュエリーショップでよく使われる類のものだ。
ドクン、と心臓が高鳴った。
好奇心に駆られて開いてみたら、中には包装の解かれた小箱が入っていた。
包装を解いて中身を眺めたのだろうか。想像すると思わず頬が緩んでくる。
小箱を開けてみると、思った通り、指輪のケース。
彼はどんな顔をしてこれを買ってきたんだろう。そうだ、見なかったことにしなきゃ。でも顔がニヤケちゃって、隠し切れないかもしれない。
だが、震える手で開いたケースの中に思い描いたものは入っていなかった。ただ細いくぼみがあるだけ。
── 彼は、この中身を誰に渡したのだろう?
戻ってきた彼が目を合わせようとしなかった理由がこれだったのか。
グルグルする頭で必死に元通りにして。
大屋根を閉めようと支える手は別の意味で震えていて、あと少しのところで手から滑り落ちた重い板がダンッと大きな音を立てて着地した。
あまりに大きな音にこれまでの自分を粉々に打ち砕かれてしまったような気がして、香穂子は身をすくませて崩れ落ちそうになる自分を必死に抱き締めた。
カンカンッ。
鋭いノックの音に我に返る。
「Ja」
しばらくしても扉の開く気配がない。
キーを持っているのだから勝手に入ってくればよさそうなものなのに、そうしないのは自分の異変に気づいた彼女の優しさだろう。
香穂子はベッドを降りて、鍵を開けに扉へ向かった。
「── 悪いわね、疲れてるのに。ここにいる間は同じ部屋だから、しばらく我慢してちょうだいね」
「ううん、我慢なんて……私こそ、荷物片付けさせちゃってごめんなさい」
「ふふっ、今日のカホコは私に謝ってばかりね」
広いリビングスペースのテーブルの上に持っていた荷物を静かに置くと、有能なマネージャー・リザは香穂子をふわりと抱き締めた。
「何でもひとりで抱え込んでしまうのはあなたの悪い癖よ。話せるところだけでいいから、話してごらんなさい」
あやすように背中を叩く手があまりに優しすぎて。
香穂子の目から今まで必死に堪えていた涙が溢れ出した。
【プチあとがき】
ああ、またまた土浦さんの出番がっ(汗)
そして大誤解大会(笑)
うぅ、辛い思いさせてごめんよ、香穂子さん。
つか、あたしの書く長編は大抵香穂子さんが可哀想な状況になるな、なぜか。
4話で書き足した部分がここに繋がってます。
一応書いておくけど、百合じゃないからね(笑)
【2009/10/19 up】