■土浦梁太郎の決意【5】
午前10時。待ち合わせに指定されていたのはホテルの中にあるカフェコーナーだった。予約が入れてあるからと言われ昨夜1泊したホテルの1F。
おそらく先に来ているであろうマネージャーの姿を探してぐるりと見回してみるが、それらしき姿はなかった。
リザという名の彼女のマネージャーはモデルとして通用しそうな長身美人なので、どこにいても目を引く存在なのだが。
しかしその代わりに、別の知った顔を見つけた。窓際のテーブルでティーカップを傾けている月森だった。
入り口で呆然としている香穂子に気がついてカップを下ろし、小さく手を上げる。
「ちょっ、な、なんで月森くんがここに !?」
駆け寄って月森の向かいの席に腰を下ろす。
「……聞いてないのか?」
「な、何を !?」
怪訝そうに眉根を寄せた月森は、再び湯気の立つカップを手に取った。
「今回の仕事は君と俺、ふたりに来たものだ。俺も詳細は知らされていないから君に何か聞けるかと思って、ゆうべ君の携帯にメールしたんだが……読んでいないのか?」
「あ……携帯……えと、アパートに忘れてきちゃった」
「アパート? ウィーンのか?」
「……うん」
「……帰っていたのか」
「うん……なんとなく、ね」
「そうか」
月森は彼には珍しく意味ありげな笑みを浮かべた。
1週間実家で過ごすと言っていた香穂子が『なんとなく』でウィーンに戻る理由を一番よく知っているのは月森かもしれない。
今でこそ顔を合わせることは少なくなったが、学生の頃はそれこそ毎日のように彼女らの様子を目にさせられていたのだから。
「── けど、どんな番組なんだろうね? あ、リザ」
自分も何か飲み物を、と視線を巡らせた先にマネージャーの姿が見えた。後ろにふたり、見知らぬ女性を従えている。いや、ひとりはどこかで会ったことがあるような気がした。
「よかったカホコ、ちゃんと来てたわね」
「うぅ……ごめんね、飛行機代無駄遣いしちゃって」
「もういいわよ、それは。たまたま日本での仕事が続いただけなんだから」
リザはくすくす笑いながら、香穂子に月森の隣に移動するように手振りで示した。空いた席を従えてきたふたりに勧め、彼女自身は香穂子の横に立ったまま待機する。
ベージュ色のパンツスーツがよく似合っている女性が席につくなり懐から名刺入れを取り出し、香穂子と月森、それぞれに名刺を差し出した。
「はじめまして。わたくし、○×テレビ番組制作局の中川と申します。この度は出演依頼を請けていただき、ありがとうございます」
「はぁ……」
よくわからないまま名刺を受け取り、テーブルの上に置く。
もうひとりの紺色のスーツの女性が名刺を出した。まるで昨日買ってきたリクルートスーツに初めて袖を通した就職活動中の大学生のようなぎこちない着こなしだ。
「ひ、ひまわり出版の神崎と申します。よろしくお願いします」
少々上ずった声の女性から名刺を受け取り、聞いたことのあるような気がする出版社名の印刷された名刺と見たことがあるような気がする女性の顔を交互に見比べる。
「─── あーっ! ほらほらほら、月森くんっ! 結婚式場の!」
「………ああ」
月森が不機嫌そうに顔を歪めた。
そう、神崎と名乗った女性は先日の結婚式場でいきなり取材を申し出んできた不躾なゴシップ記者だったのだ。道理でどこかで会ったことがあると思ったはずだ。
その節は大変失礼しました、と神崎は額をテーブルにこすり付けるように頭を下げた。
「でもどうして雑誌の人が──」
ちょん、と肩に触れられて、香穂子は横に立つマネージャーを見上げた。彼女はたしなめるように小さく首を振る。香穂子は慌てて居ずまいを正した。
「それでは彼らに趣旨説明をお願いします」
リザが流暢な日本語で女性ふたりを促した。彼女は数ヶ国語を操る才女なのだ。普段の香穂子たちとのコミュニケーションはもっぱらドイツ語で行っているのだが。
はい、と頷いた中川がバッグから数枚の紙を綴じたレジュメを出してテーブルに置いた。
ぴらりとページをめくりながら、
「── 今回のテーマは『ヴァイオリンの魅力に迫る』ということで、目玉として『オール・ヴァイオリン・オーケストラ』を企画しました。
ヴァイオリニストを目指す高校生、大学生によるパーカッション以外のすべてをヴァイオリンで編成したオケで1曲演奏しようという実験企画です」
香穂子がぷっと吹き出した。
「どうした?」
「あ、ううん……『なんだよそれ』とか言いながら、すっごく興味示しそうだなと思って」
「ああ……そうかもしれないな」
ふ、と月森も笑みを浮かべながら何気なく隣を見て、微かに眉を顰める。
香穂子の横顔に一瞬、痛みを感じたような表情が見て取れたからだ。
コホン、とリザの咳払いが聞こえ、ふたりは慌ててレジュメに視線を戻した。
「── それで、おふたりには学生たちの指導をしていただき、学生たちがプロの指導のもと、発表の場に向けて練習に打ち込む姿をドキュメンタリーとして構成していきます」
レジュメに書かれた箇条書きを示しながらの中川の説明はまだまだ続く。
香穂子たちの仕事は学生の指導の他、ゲスト演奏者として1曲披露すること。日本の有名なオケのコンマスを交えた座談会。それから──
「あの……この『素顔のヴァイオリニスト密着』って、何ですか?」
「ああ、それはおふたりに所縁のある場所で思い出なんかを語っていただこうかと」
「ええっ !?」
「あとは現在ホームにしていらっしゃるウィーンでのロケです。ああ、ご自宅拝見なんてことはしませんのでご安心を」
香穂子と月森は思わず顔を見合わせ、同時に横に控えているマネージャーを見上げる。
ニッコリと妖艶な笑みを浮かべている彼女に、ふたりは何も言えなかった。
「それから、今回の企画はひまわり出版さんの『月刊ムジーク』との連動企画になっていまして、撮影中は彼女が取材に入りますので私共々よろしくお願いします」
中川が神崎の肩にぽん、と手を乗せる。神崎はそれに合わせるように頭を下げた。
香穂子は思わずテーブルの上の名刺を覗き込んだ。隣の月森も身体を乗り出している。
確かにその名刺の神崎の肩書きは、以前聞いた女性誌ではなく『月刊ムジーク編集部記者』となっていた。月刊ムジークといえば、そこそこ名の知れたクラシック音楽誌だ。
身体を起こして腕を組み、訝しげな視線を投げかける月森に、神崎が少し身体をすくませたように見えた。
「オケの練習日は来週の月曜から1週間。平日は夕方から、土曜日は終日で日曜日が本番です。時間等の詳細はそのレジュメでご確認ください。
それから、本日から本番までのおふたりの様子も取材させていただきますので」
「へっ?」
リザから厚みのある大きな封筒が差し出された。
「オケ曲のスコアよ。譜読みしながらふたりで指導計画を立ててちょうだい。それからレンにはこれも」
月森にもう1通の封筒が渡される。
「この間伝えた次の仕事の楽譜。平行して練習しておいて」
「……はい」
「じゃあ始めましょうか」
パンッとリザが気合いを入れるかのように手を叩いた。
【プチあとがき】
ああ、また土浦さんが出てこない(汗)
いろいろと頭膿んでるな、あたし……
というより、自分を見失ってるっていうか。
ありえねぇ、というツッコミはなしの方向で。
【2009/10/16 up】