■土浦梁太郎の決意【4】
1週間のオフを半分残し、香穂子はウィーンのアパートへ帰ってきていた。
実家にいても落ち着かなかったのだ。
確かに久しぶりの家族との時間は懐かしさを感じこそすれ、自分の生活の痕跡がすっかり薄らいだ家は他人のような顔で香穂子を迎えた。
『実家』ではあるが、もう『自宅』ではないのかもしれない。
それに、胸に広がり始めたモヤモヤが香穂子を急き立てた。とにかくウィーンへ戻ろう。
手早く荷物をまとめ、タクシーを呼ぶ。
あと数日は娘の世話ができると意気込んでいた母にはずいぶん引き止められたが、『そのうちまた日本での仕事が入ったらね』と振り切って。
空港についてみれば1日1本しかないウィーン直行便はすでに離陸した後。ちょうど搭乗手続中だったパリ便にたまたま空席があって飛び乗った。パリまで帰ればあとはどうにでもなる。
そんなこんなでようやく辿り着いた自宅アパート。荷解きもせずソファに身体を投げ出して。
不在の彼は見習いとはいえ師と同じ音楽事務所に所属する身。プロデビューまではスタッフ待遇だから、先週公演が終わった今は何かしら雑用をさせられているのだろう。
思わずくすりと笑う。
ソファに寝そべっているとじわじわと睡魔が襲ってきた。
── 荷解きしてお洗濯しなきゃ。ああ、それよりもまず一足先にこっちに戻っているマネージャーに自分も戻ったことを伝えておかなくては。
だが落ちてくるまぶたには逆らえず、香穂子は眠りの淵に引きずりこまれていった。
ふわり、と身体が温かくなった。
完全に開ききらない目で腕時計を見ると、帰ってきてから1時間ほど経っていた。
気がつけば身体の上にブランケットがかけてある。それで身体が温かくなったように感じたのだ。
寝室のほうでごそごそ物音が聞こえる。香穂子はソファを降りて寝室へ向かった。
「……梁?」
「うおっ !?」
クロゼットの扉を全開にしたまま、バッグに衣類を詰め込んでいた梁太郎がビクリとして振り返る。
「わ、悪い、起こしちまったか?」
「ううん……ブランケットありがと」
「ああ── よく寝てたな。疲れてたんだろ」
衣類をバッグに詰める作業を再開させる梁太郎。
「どこか、行くの?」
世界的指揮者である師が世界ツアーに行けば、彼もそれについて行く。だが先週のウィーン公演でツアーは終わり、しばらく何もないと聞いていたはずなのだが。
「ああ、しばらく先生ん家に泊まり込みなんだ。その── 資料の整理、頼まれちまってさ。ったく、人使い荒くてまいっちまうぜ」
手を休めることなく、梁太郎はそう言って小さく笑う。
「……ふぅん」
「それよりお前、あと3日は日本じゃなかったのか?」
「え、あ、うん……なんか落ち着かなくて」
「ははっ、そりゃ家族が残念がっただろ? たまに帰った時くらい、しっかり親孝行してくりゃいいのに」
部屋の入り口に持たれかかってぼんやりと彼の背中を見ているうちに、どうして実家で寛げなかったのか、結論がふいに降ってきた。実に簡単なことだ。
「そっか……うん、そうなんだ」
「はぁ?」
振り返らぬままの怪訝な声。
「私ね、早く梁に会いたかったの」
言い終えた瞬間、すぅっと身体が冷えていくような感覚に襲われた。
一瞬、彼が身体をこわばらせたように見えたのだ。
「な……なーんちゃってっ! 須弥ってばあんまり幸せオーラ撒き散らしてるもんだから、誰かに愚痴らなきゃやってられないっていうか!
そ、そうだ、二次会の後で月森くんのお家に招待されてね、ちょうど日本に帰ってきてた月森くんのお母さんからお土産までもらっちゃったの!」
慌てて言い繕った香穂子はリビングに駆け戻り、スーツケースを開いて中の荷物を掻き回し始めた。
「── 俺、時間ないからもう行く。悪いな、愚痴聞いてやれなくて」
頭をポンと叩かれて、床に座り込んでいた香穂子はハッと顔を上げた。
その時、梁太郎はすでに玄関の扉を開けようとしているところだった。ガチャと音がして、すぅっと部屋の空気が微かに流れ、ガチャンと音を立てて扉が閉まる。
いくら時間がないとはいえ、ハグもなく、キスもなく、それどころかまともに顔を見ることもなく。
もしかしたらさっきの一言に友人の結婚を羨む気持ちが現れてしまっていたのかもしれない。
だが、世に出ようと日々努力している彼が今、結婚なんて考えているわけがない。
少しでも結婚を強いるように聞こえてしまったなら、それは彼にとっては負担にしかなりえないのだ。
友人の結婚を彼に告げた時、彼はどんな顔をしていただろう?
懸命に記憶を探っても、その時の彼の表情を思い出せなかった。
香穂子はこみ上げてくるものを押さえつけたくて、スーツケースの中へつんのめるようにして顔を突っ込む。
その時、テーブルの上に置いたバッグの中で、携帯が急かすような耳障りな着信音を奏で始めた。
* * * * *
アパートのエレベータに乗り込んだ梁太郎は壁に凭れ、心臓の辺りをぎゅっと掴んだ。
正確にはシャツの胸ポケットの中身。
20日ほど前から胸ポケットに触れるのが彼の癖になりつつあった。
昔、学内コンクールの頃に彼女がくれたファータ製のお守り。その中に先日買った指輪を入れて、ポケットに忍ばせてあるのだ。
ちなみにケースと紙袋は彼女の目が届かないところに隠してある。
女々しいような気がしないでもないが、触れるたびに覚悟を新たにする。彼女との未来を約束する指輪にコンクール優勝を誓い、それをなんとしても成し遂げる覚悟を。
プロポーズするためにコンクールに出るなんて不純な動機だと言われかねないが、それは違うと梁太郎は思っている。
コンクールはいわば入社試験のようなもので、きっちり独り立ちしていないうちから感情だけで人一人の人生を自分に縛りつけるなんて、それこそ相手に失礼というものだ、と。
そうそう簡単に入社させてくれないのが『音楽界』という会社の厳しい現実ではあるのだが。
だが、せっかく家族と過ごせるオフを早々に切り上げてまで帰ってきて『会いたかった』なんて可愛いことを言う彼女をもう少しで抱き寄せて、
危うく『胸ポケットの秘密』を暴露してしまうところだった。
優勝引っさげ指輪を差し出し、目を真ん丸にして驚く彼女の顔が見たい。だからそれまで絶対に秘密にしておかなければ。
きゅっと力を込めると手のひらに硬い感触。思わず口元が綻んだ。
チン、と到着を告げる音と共にエレベータの扉が開く。
プロへの第一歩ででもあるかのように、梁太郎は光溢れるエントランスへ足を踏み出した。
これからしばらく師の自宅に泊り込み、コンクールへ向けた指導をみっちり受けるのだ。
* * * * *
長く鳴っては切れ、また鳴り始める、を繰り返す携帯。鬱陶しくなって、いっそ電源を切ってやろうと香穂子は這うようにしてテーブルへ向かい、
引き摺り下ろしたバッグの中から鳴り続ける携帯を取り出した。
開いた携帯のディスプレイに表示されているのは連絡しようと思っていたマネージャーの名前だった。慌てて通話ボタンを押す。
「ご、ごめん、出られなくて」
『こちらこそオフ中にごめんなさいね。ちょっと急ぎの用だったものだから』
「え、な、何?」
『来週収録のテレビ番組出演の依頼よ。日本のテレビだから、そのまま日本にいてもらおうと思って』
「えっ、ちょ、ちょっと待って! 私、ウィーンに戻ってるんだけど!」
『そうなのっ !? ……もう、せっかく経費節減になると思ったのに』
「ごめんなさい……」
『……まあいいわ。とにかく打ち合わせに間に合うように日本に戻ってちょうだい。場所と時間は──』
「わっ、ま、待って! メモメモっ」
バッグからはみ出していたスケジュール帳を引っ張り出し、適当なページを開いて書き付ける。
通話の切れた携帯をたたんで、そっとテーブルの上に置いて溜息を吐いた。
ここのところ、こんな風に急に入ってくるスケジュールでてんてこ舞いだ。
世間では『若手人気ヴァイオリニスト』とちやほやされているけれど、プロになって数年の香穂子はこの世界ではまだまだひよっ子。
自分で仕事を選ぶことなど許されないのだから仕方がない。
だが事務所だって商売。抱える『商品』にマイナスになるような仕事は決して請けたりしない。
とにかく今は事務所が請けた仕事をきっちりこなしていれば間違いはない。それはここ数年で香穂子もよく理解していた。
「うぅ……また日本へ逆戻りかぁ……」
オフの残り3日間はこの自宅アパートでゆっくりできるけれど── 寛げる場所であるはずのこの部屋がやけに居心地悪くて、香穂子は途方に暮れて天井を仰いだ。
理由もなくピアノの音が聞きたくなった。ちょっと物悲しい曲がいい。
本当は彼の奏でる音が聞きたい。だが、ここにいない人間が演奏できるはずもなく。
よろよろとピアノに向かい、蓋を空けて鍵盤に指を置く。
ポーンと澄んだ音が響いた。
学生の頃、彼に教わりながら練習した曲、まだ弾けるかな? もうずいぶん弾いてないけれど。
ヘタクソなピアノでも、部屋中に音を響かせれば気分がいいかもしれない、と横に回りこんで大屋根を持ち上げた。
「あれ…?」
弦に触れないように丸めて突っ込まれた異質なものに香穂子はゆっくりと手を伸ばした。
【プチあとがき】
アンコ引継ルートの再現か !?
成長してない土浦さん。
すれ違いって、第三者から見ると楽しいんだよね(笑)
あ、『お守り』は無印コルダのプレゼントです。懐かしい。
(10/16)ラスト数行つけたし。
【2009/10/13 up/2009/10/16 改】