■土浦梁太郎の決意【3】 土浦

 その女はロビーのやたらふかふかしたソファで細いメンソールの煙草をふかしながら、化粧室にこもってしまった友人が出てくるのを待っていた。
 同時に化粧室に入った自分は鼻の頭に浮いた皮脂を押さえてほんの少しファンデーションをはたき、食事で落ちてしまった口紅を塗り直しただけだったが、 『そこまで泣くか?』とツッコミたくなるほど号泣した友人は、二次会出席のためにほとんど一からメイクをし直さなければならない状態になっていたのだ。
 まあ、そんなに泣けるほどの何かが彼女たちの間にあったのかもしれない、と深く追及するのはやめておいたけれど。
 女は紫煙を吐いて、だるそうに腕時計を見た。
 ── それにしても遅い。
 もうかれこれ20分は経っている。普段の自分なら朝起きて、化粧も含めた身支度を済ませアパートを出るのに十分な時間。 『あと10分早く起きて朝ご飯を食べなさい!』と学生の頃母親に口煩く言われていたのを思い出して苦笑する。 今ではたまに実家に帰る度『早く孫の顔が見たいわねぇ』とちくちく嫌味を言われることに辟易しているが。
 機動力が物を言う仕事柄、履き慣れないハイヒールで擦れてしまった踵が少しヒリヒリする。二次会へ向かう途中でコンビニにでも寄って絆創膏を買おう。
 そんなことを考えながら灰皿で煙草を揉み消し、むくんだふくらはぎをさすっていた女の耳に廊下の向こうからの喧騒が届いた。 どうやら同じ時間帯に行われていた別の新婚さんの披露宴がたった今お開きになったらしい。
 5、6人のスーツの男たちが、女の座るソファの後ろの円形に並べられたソファセットに引き出物の入った紙袋をガサガサ鳴らしながら陣取った。
「── はぁ、やっぱプロは違うよなぁ」
「俺たちも一応プロ目指してたんだけどなー」
「今じゃしがないサラリーマンってか?」
「ま、『プロを目指す』のは誰にでもできるが、『プロになれる』のはほんの僅かってことだ」
 わはは、と笑いが起きた。何のプロかは知らないが、どんな職種だろうがプロ意識を持って取り組めよ。女はこっそり彼らを軽蔑した。
「けどさ、よく来れたよな、あのふたり」
「日野なんておとといは駅前のホールでリサイタルだろ? 俺、チケット取り損ねてさ」
「あ〜、俺行った! 月森と内田ご夫妻も来てたぜ」
「マジっ !? かーっ、俺も聞きに行きたかったなー」
 女はバクバクと煩く鳴り始めた胸を押さえながら男たちの会話に耳をそばだてていた。
 男たちの言う『おとといリサイタルを開いた日野』と言えば、『クラシック界の妖精』とも謳われるヴァイオリニストの日野香穂子に違いない。
 ちらりと名前の出た『月森』は、もしかして『ヴァイオリンの貴公子』月森 蓮?
 今話題の若手人気ヴァイオリニストがふたり、ここに揃ってる !?
 興奮のあまり上気する頬の熱を冷まそうと両手で頬を包む。
 女は無類のクラシック音楽愛好者だった。
 自身はヴァイオリンはおろかピアノすら習ったことはなく、誰もが必ず学校で手にするリコーダーでさえ今ここで吹けと言われれば吹けるかどうか怪しいものだ。
 自分では足を踏み入れることのできない世界だから憧れ、膨らみすぎた憧れは崇拝に近い。
「── んで、昨日しか練習する時間がなくて、難易度のあんまり高くない『愛のあいさつ』にしたんだと」
「ま、披露宴で弾くには定番中の定番だけどな」
「ふたりとも、ますます音に磨きがかかってたよな」
「技術力をひけらかすような曲じゃない分、際立ってわかるっていうか」
「やっぱすげーよな、あいつら!」
 ひがみやっかみに溢れた会話を、女は微笑ましく思った。彼らの口調の中に、ただのひがみだけじゃない何かを感じたからだ。
 それにしても彼らはあのふたりの生演奏を聞いたのだと思うと激しい羨ましさが湧き上がってきた。自分の方がよほどひがみ根性丸出しだ。
 思わず苦笑が漏れたところではたと気がついた。
 誰の披露宴だったかは知らないが、自分がそうであるように彼らもこれから二次会へとなだれ込むのだろう。 今の会話からして、後ろにいる男たちはヴァイオリニストふたりの旧友らしい。ふたりが合流するのをここで待っているのだとしたら…?
「── ごっめ〜ん、お待たせ〜」
「ごめんっ、荷物見ててっ!」
 ようやく化粧室から出てきた友人の顔も見ず、返事も待たずに女は駆け出した。
 有名人を一目見たいというミーハーな気持ちが女を突き動かしていた。
 それだけじゃなく。
 できれば取材したい! 今日が無理なら、せめて取材のアポだけでも!
 ── 女は某出版社に所属する雑誌記者だった。

 ロビーを突っ切ったところで女は急ブレーキをかける。奥からダークスーツの男性と淡いミントグリーンのドレスを身に纏った女性がこちらへ向かって歩いてきていたのだ。
「う……わ、本物だ……」
 映像やCDジャケットで顔は知ってはいたが、実際に目にすると気圧されるほどのオーラがあった。
 日野香穂子は堂々とした演奏姿とは違う、少し子供っぽいはしゃいだ様子で隣の月森に話しかける。
 と、いつも冷静でクールすぎるほどクールなはずの月森 蓮が、別人かと錯覚するほど柔らかな笑みを浮かべ、それに答えた。
 並び立つ姿はまさに美男美女カップル。
 ヴァイオリンケースは商売道具だからいいとして、そんな結婚式場の紙袋なんて持たないで!、と関係者が聞いたら機嫌を損ねそうなことまで考えて。
 何のために走ってきたのかもすっかり忘れ、女はただ近づいてくるふたりに見惚れていた。
「── 日野、二次会の後の予定は?」
「ん? 別に何も」
「よければうちに来ないか? 今日、母がニューヨークから帰ってくるんだ。君に会いたいらしい」
「え、でも、ご迷惑じゃない? 帰ってきたばっかりじゃお疲れでしょ?」
「いや、昨日電話で話したら、ぜひに、と言っていた。土産も用意してあるそうだ」
「うわ、なんか申し訳ないなぁ……うん、じゃあ喜んで伺わせていただきます♪」
「君も疲れているのはわかっているが……そうしてもらえるとありがたい」
 女の前を通り過ぎる瞬間、月森の笑みが消えて眉間に皺が寄るのが見えた。香穂子は微笑んだまま僅かに会釈をして通り過ぎていく。
「あ、あのっ!」
 はたと目的を思い出し、女は声を張り上げた。
 たった今通り過ぎたふたりが、足を止めて振り返る。不思議そうに小首を傾げる香穂子を見て、なんて可愛い人なんだ、と思った。
 ダッと駆け寄り、
「わ、わたくし、ひまわり出版の── あ、あれっ !?」
 女は自分の身体を慌しくぱたぱたと探る。こんな突発的仕事モード突入時に備えて肌身離さず携帯しているはずの名刺入れは小さなバッグの中。 そのバッグは友人のところに置いてきた引き出物の紙袋に突っ込んだままだ。これでは人に向かって『プロ意識を持て』なんて言えやしない。
「── 取材なら断る。今が完全にプライベートなのは見ればわかるだろう。取材の申し込みなら然るべき手順を踏んでほしい」
 月森は険しい表情でぴしゃりと突っぱねた。相当に機嫌を損ねてしまったようだ。
「す、すみません……」
「まあまあまあ」
 割り込んできたのは香穂子だった。紙袋を床に置き、空いた手で月森の肩をばふばふと叩いている。
「ちなみに何の雑誌ですか?」
 日野、と鋭く制止する月森にも構わず、香穂子は女に向けてニッコリと微笑んだ。
 その笑みの持つ迫力に女は一瞬怯み、迷ったけれど正直に雑誌名を告げる。
 思った通り、香穂子の笑みが困惑に歪んだ。
「えと……私も月森くんも、あなたの雑誌に提供できるようなネタは持ってませんけど?」
 どういう雑誌なんだ、と小声で月森が訊ねた。
 香穂子は少し悩んで『美容院に行った時にたまに読む、かな』とポツリ。
 それで意味が通じたのだろう、月森は思い切り顔をしかめた。
「……相手にするな、日野」
「え、月森くんっ? ……ごめんなさいね」
 ぺこりと頭を下げ、香穂子は先に歩き出した月森を小走りで追いかけていった。
 ソファに陣取っていた男たちが『やっと来たか』『遅いぞ』と口々に言いながら立ち上がり、ふたりに合流してゾロゾロと式場を出て行くのを呆然と眺めつつ。
「ふ……ふふ……ふふふっ」
 気味の悪い笑い声を上げながら、女は俯きがちになっていた顔をキッと上げた。痛む靴擦れもなんのその、大股で荷物のところへ戻り、バッグから携帯を出してどこかに電話をかけ始める。
 どこ行ってたのよ!と喚く友人は無視。自分だって散々待たせたのだからおあいこだ。
「── もしもし、あたし。こないだの企画ってどうなった?
 ── うん、それそれ。オファーの返事は?
 ── ほんと !? らっきぃ♪ ね、それ、追跡ドキュメントってことで密着取材させてくれない?
 ── え? だーいじょうぶよ。このネタに飛びつかないなら、あの編集長の頭は腐ってるってことよ。
 ── あははっ。じゃ、本決まりになったら連絡してよ。打ち合わせしたいし。
 ── うん、じゃあね。よっろしく〜♪」
 パカンと勢いよく携帯をたたんでバッグへ落とし、
「まあまあ、お詫びに荷物持ってあげるからさ♪」
 まだ喚き続けていた友人の分まで紙袋を持ち上げて、元気よく歩き始めた。陶器か何か入ってるらしい袋は結構な重さだったが、負けるもんかと力を振り絞る。
 今はゴシップを追いかける女性誌記者だけど、目指すは名立たる音楽家に取材しまくる音楽誌記者。このチャンスを逃してなるものか!
 音楽誌への異動願いを黙殺し続ける石頭の編集長とのバトルに武者震いしながら、女は意気揚々と結婚式場を後にした。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 もう少し続きそうなので、思い切って長編扱いにしてみました。
 んー、何話まで行くかは未定だけど。
 いきなりオリキャラ視点でごめんなさい。
 タイトルを裏切って土浦さん全然出てこないし。
 ふたりの二つ名はやりすぎでしたかねぇ。自分で書いてて笑っちゃったよ、あたし(笑)
 ナゾの女性記者さんはキーパーソンになる予定。たぶん。
 つか、ここまで描写しといて出番ここだけだったら詐欺だよね(笑)

【2009/10/09 up】