■土浦梁太郎の決意【2】 土浦

 戻ってきた楽屋。テーブルの上にヴァイオリンを置くと、香穂子は崩れるようにソファに倒れ込んだ。
「つーかーれーたー!」
 投げ出した足からヒールの靴を蹴り飛ばし、ドレスの裾がまくれ上がるのも構わずズルズルとソファに身体を沈めながらアクセサリを外して結い上げた髪を解く。
 演奏している時には忘れていた疲労感がどっと押し寄せてきた。
 ウィーンから日本へ戻ってきた時差ボケも癒えぬまま全国4都市での公演。
 そして今日の懐かしいコンサートホールでのリサイタルでとりあえず一区切り。明日から1週間、久しぶりの実家でのんびりできる。
 急に決まった公演だったが、クオリティを落とすことなどできない。 彼女の実質的なパートナーである梁太郎のピアノの腕を知っている事務所は彼に伴奏を依頼することを提案したが、香穂子は速攻で断った。彼には彼の仕事がある。
 急遽伴奏者に決まった女性ピアニストとはいつも以上に入念に練習を重ねた。音を合わせるごとに息も合っていく実感があった。 公演を無事に終えて、次も必ず一緒にやりましょう、と抱き合って約束したのはステージを降りたついさっきのことだ。
 やり遂げた充実感に顔を緩ませながら睡魔に引きずり込まれそうになっていた香穂子の耳に、カンカンッと小気味よいノックの音が飛び込んで来た。
 誰かはすぐにわかる。これは彼女担当のオーストリア人敏腕マネージャーの鳴らした音だ。
「ja〜」
 日本語でなくドイツ語で答えると、開いた扉から姿を現したのは思った通りの人物。
「お疲れさま、カホコ。あらあら、なんて格好なの。せっかくお友達が会いに来てくれたのに」
「えっ、うそっ!」
 慌ててソファから起き上がり、髪を手櫛で直しながら近くにあったスリッパをつっかける。遠くで転がっていた靴を拾い集めて化粧台の椅子の側へ揃えて置いた。
 苦笑しながら扉の向こうに姿を消したマネージャーと入れ替わりに楽屋に入ってきたのは1組の男女。
「やっほ〜、日野っち! 素敵な演奏だったよ!」
「須弥 !? 聞きに来てくれてたんだ! 内田くんも!」
 香穂子が駆け寄り抱きついたのは上条須弥。高校時代からの親友。
 男性の方は内田守夫。高校の頃に何度かアンサンブルを組んだこともあり、今は国内の有名オケで活躍していると聞いている。
 今回のリサイタルが開催されたきっかけである『友人の結婚式』というのは、このふたりの結婚式なのだ。
 気を遣わせても申し訳ないから、内部事情を明かすつもりはないけれど。
「あさってが結婚式で忙しいんじゃないの?」
「やーねぇ、今頃バタバタしてたら式なんてできないわよ〜。あとは当日、式場へ行くだけ!」
「へぇ……そういうものなんだ……」
「日野っちこそ、忙しいのにごめんね〜」
「ううん、須弥の結婚式だもん、地球の裏側からだって駆けつけるよ」
「おっ、さっすが大人気ヴァイオリニストっ!」
「そんなことないってば……とにかく、おめでとね、須弥」
「ありがと〜」
 感極まって、ひしと抱き合って。
 すっかり涙腺が緩んでしまっているのか、しきりに鼻をすすり上げている友人の背中を優しくポンポンと叩きながら、後ろで柔らかな笑みを浮かべて見守っていた新郎へと視線を向けた。
「内田くん、須弥のこと、お願いね」
「ああ、任せて」
 自信たっぷりに頷く彼に、香穂子は笑みを返す。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「…うん」
 ぴょいと離れた須弥が、内田の元へと小走りで駆け寄った。彼の腕に抱きつくようにして腕を絡ませる。
「え、もう帰っちゃうの?」
「えへへ〜、今から独身最後のデートなんだ♪」
「……ごちそうさま」
 見せ付けるように仲良く腕を組んで楽屋を出ようとした内田が足を止めて振り返った。
「ああそうだ、今日は月森も来てるんだ」
「ぅえっ !? 月森くんも !?」
「席は離れてたんだけど、ロビーでたまたま一緒になってね。ここへも一緒に来てたんだけど、ちょうど電話がかかってきて。もうすぐ来ると思うよ」
「うっわ……ダメ出し覚悟しとかなきゃ」
「その必要はないよ。本当にいい演奏だった」
「…ありがとう」
 幸せいっぱいのふたりが絶妙なタイミングで顔を見合わせ、小さく頷き合う。
「次は日野っちの番だよ。式はウィーンじゃなくて日本でやってよね!」
「あ、あはは……」
 またあさって、とひらひら手を振って出て行く親友に小さく手を振り返し。
 カタン、と扉が閉まると同時に、思わず溜息が零れた。
「結婚式は日本で、か……私たちにはそんな話、全然出てきてないんだよ……」
 幸せそうな顔で笑っていた親友がやけに羨ましく思えた。

 コンコン。
 控えめなノックの音に我に返る。
「は、はい! どうぞ!」
 ゆっくりと扉が開いて姿を現したのは、さっき内田が予告していった月森 蓮だった。
 香穂子は彼のことを『腐れ縁』だと思っている。
 高校2年の春、学内コンクールで出会い、アンサンブルだコンサートだと慌しい1年を過ごし、同じウィーンの音楽院に学び、同じコンクールでプロへの道を掴み、 その流れで今は同じ音楽事務所に所属する同僚である。
 月森からすれば、前半は香穂子に一方的に巻き込まれ、後半は1年遅れで彼女が追いかけてきただけなのだが、 そんな意識を持ち合わせていない香穂子にとっては、やはり『腐れ縁』としか言いようがない。
 とはいえ、お互い演奏活動で忙しくて、顔を合わせるのは久しぶりだった。
「うぅ……ご意見、苦情は謹んで承ります」
「何を言ってるんだ、君らしいいい演奏──」
 香穂子の物言いに苦笑していた月森は、言葉を切って一瞬目を見張り、気遣わしげに眉を顰めた。
「── すまない、疲れている時に」
「えっ、あ、ううん、大丈夫大丈夫!」
 ── ちょっと落ち込んでただけだから。
 心の中でこっそりと付け加える。
「それならいいが…」
 月森は香穂子が勧めたソファに腰を下ろした。
 香穂子は2つの紙コップにポットのコーヒーを注いでローテーブルに置き、化粧台の椅子をソファの側まで引きずってきて、それに腰掛ける。
「あさっての内田の結婚式のことなんだが」
「えっ、もしかして月森くんも出るの !?」
「……何のために俺が今、日本にいると思っているんだ?」
 少し呆れたように、月森が苦笑する。
「あ……そっか、そうだよね、内田くんは月森くんの友達だもんね」
「俺はちょうどこの時期空いていたから新しいスケジュールを入れないようにすればよかったが、君の方は大変だったらしいな」
「まあねー」
 さすが同じ事務所。舞台裏はお見通しらしい。
「それで、招待された高校時代の友人たちで余興をすることになったんだが」
「うん」
「新婦側の友人で君が来ると知って、俺とふたりで1曲演奏してはどうか、という話になって」
「そうなんだ─── ええっ !?」
 口をパクパクさせる香穂子に、月森は苦い笑みを深くして、
「急なことだし、君の都合もあるだろうから、断ってくれてかまわない」
「ううんっ、全然大丈夫っ! あのふたりが喜んでくれるなら、いくらでも弾いちゃう!」
 そうか、と月森は苦みのない純粋な笑みを浮かべた。
「練習は明日1日しかできないが、君となら大丈夫だろう」
「うん、お互い呼吸はわかってるし……あ、お昼から月森くんちにお邪魔してもいいかな? これから打ち上げもあるし、まだ時差ボケ引きずっちゃってるから、 明日は昼まで起きれそうにないんだよね」
「ああ、かまわない。楽譜は適当に見繕っておくから、家を出る時に電話してくれ」
「りょ〜かい」
 コーヒーを飲み干して席を立った月森を廊下まで見送って。
 室内に戻って後ろ手に閉めた扉にドスンと凭れかかる。
 ふぅ、と大きく息を吐き、
「── ガンバレ私っ!」
 両手の拳に力を込める。
 胸の奥底にわだかまるものを改めて自覚させられた今の香穂子には、自分で自分を励ますのが精一杯だった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 第1話のあとがきで書き忘れましたけど、このお話はうぃーんシリーズがベースです。
 ま、前回「同居人」とか書いてるから、お解りいただけてたとは思いますが。
 ……コミクス派の人には何が何やらわかんない話だよなぁ…
 セリフだらけだし。
 あ、月日みたいな展開ですが、もちろん土日話ですよ(笑)
 しつこくまだ続きます。まさかの長編移行か…?

【2009/10/08 up】