■土浦梁太郎の決意【1】
「── 結婚、か」
ソファにズシリと身体を沈め、頭の後ろで手を組んで天井をぼんやりと見つめながら、梁太郎はポツリと呟いた。
これまで考えたことがないわけではなかったが、今はまだ早いと封じ込めている。
指揮者として世に出ることができた時に申し込む── 梁太郎はそれが男としてのケジメだと考えていた。
そして彼が結婚を申し込む相手であり、このアパートの同居人でもある香穂子はその頃ちょうど機上の人になっていた。
梁太郎よりも一足先にクラシック界にデビューを果たした彼女は、ソロリサイタル開催のため日本へと向かっているのである。
2週間で5公演、というハードなスケジュールだが、最終公演の会場は高校時代にふたりがステージに立った思い出深い地元のコンサートホール。
それが終われば1週間のオフが待っている。その間に彼女は友人の結婚式に出席することになっていた。
3ヶ月ほど前に式への出席の打診があり、その後『ちょうどその頃は日本にいるから』と快諾の返事をしたのだが、実はリサイタルのスケジュールは後から入れられたものだった。
事情を知った所属事務所が、『ついでにお仕事してらっしゃい』と関係各所に捻じ込んだのである。
急遽決まった上、平日開催だというのに、チケットは全公演でほぼ完売らしい。日本でも彼女の人気は高い。
そんな彼女を誇らしく思いつつも、梁太郎は深い溜息を吐いた。
彼はまだ独り立ちしていないのだ。
数年前に出場したコンクールに失敗した。セミファイナルでのちょっとしたミスがたたって、ファイナリストの席を逃したのだ。
今はそのコンクールの審査員だった某マエストロの元でアシスタントを務めている。要するに『見習い』。
『捨てる神あれば、拾う神あり』とはよく言ったもので、セミファイナルで落胆していた彼を『君を育ててみたい』とマエストロが拾ってくれたのだった。
今日も午後からリハーサル。見習いの自分は早めに会場入りしなければ。
ずっと燻り続けている焦りが少々勢いづいてしまった。深呼吸を数回繰り返し、なんとか心を落ち着けて、早めの昼食を取っておこうとソファから立ち上がった。
* * * * *
夕方、梁太郎はとある店の前にいた。
今日のリハーサルはヴァイオリン協奏曲。ソリストとオケの相性もよく、ほぼ完成と言っていい出来。
おかげで思っていたより早く終わったのだ。
リハの後、上機嫌なマエストロに呼ばれて告げられたのは、次のコンクールへの出場の薦めだった。
「いいんですか !? や…った! ありがとうございますっ!」
ドイツ語と日本語入り混ぜて喜ぶ梁太郎にマエストロは目を細めて、
「この公演が終わったら特訓だからな。覚悟しておけよ」
「はいっ! よろしくお願いしますっ!」
茶目っ気たっぷりにウインクしてみせるマエストロに、梁太郎は深々と頭を下げたのだった。
そしてリハ会場から駅までの帰り道、彼が足を止めたのは1軒のジュエリーショップだった。
浮かれた気分に押されるように、躊躇いなく店のガラス戸を押して中へ入る。
覗き込んだショーケースには、デザインも値段も様々な指輪が並んでいた。
そういえば、何年か前にもこうして指輪を選んだっけ。
あの時の指輪は今でも彼女の指を飾っている。もちろんステージに立つ時以外、ではあるけれど。
安物なんだからつけなくていいのにと言えば、じゃあ梁のプロデビューのお祝いにプレゼントしてよ、とご丁寧にサイズまで指定して要求してきた。
お祝いなら逆だろ、と苦笑しながらも、その時彼女が言ったサイズはしっかりと頭に叩き込んである。
僅かばかりの定期収入からコツコツ貯めた預金残高を思い出しながら、それに納まる範囲のものが置かれた一画で足を止めた。
人生の節目となる贈り物なのだ、それなりに奮発しないと。
「── どういったものをお探しですか?」
ふいに店員に声をかけられドキリとする。営業スマイルを浮かべた彼女は美人と呼ばれる部類に入るのだろうが、少々化粧が濃すぎる気がする。
動くたびに化粧品だか香水だかの匂いが鼻を刺激して、梁太郎は眉を僅かに顰めた。
「あー、シンプルなヤツで」
「石のご指定は?」
「……ダイヤモンド」
店員がニコリと笑った。
「失礼ですが、エンゲージリングですか?」
問われてふと我に返った。
まるで優勝を決めたかのように浮かれていたが、コンクールはまだこれからなのだ。優勝どころか、予備審査に通るかどうかもわからないというのに気が早すぎるだろうか?
一瞬の逡巡の後、梁太郎は『はい』とはっきり答えた。
必ず優勝してみせる。それくらいの気概がなくてどうする。
優勝して彼女に指輪を差し出しプロポーズする。その決意のしるし。
お守りのようなもの、と言い換えてもいいかもしれない。
陳列された指輪の中から、彼女に最も似合う、かつ極力シンプルなデザインのものを選ぶ。
控えめではあるけれど、誇らしげにキラリと輝くダイヤモンド。『永遠』を誓う石。
一点ものの指輪は彼に選ばれるのを待っていたかのように、ちょうど彼女のサイズと同じだった。
カードで支払いを済ませ、店の奥でラッピングされていくそれをじっと見つめながら、梁太郎はいつにも増して心臓の鼓動が早くなっているのを感じていた。
ふいにさっきまでのリハーサルの光景が思い浮かぶ。
ソリストとしてヴァイオリンを奏でる香穂子。
その横で指揮台に立ちタクトを振る自分。
そんなシーンがすぐ目の前、手の届きそうなところにあるように思えた。
「お待たせいたしました」
きつい香水の匂いに現実に引き戻され、店員が差し出す小さな紙袋を受け取った。
この中に自分と彼女が共に歩む人生が入っている。
そう思うと軽いはずの紙袋がずっしりと重く感じられた。
柄じゃないな、と梁太郎は思わず苦笑して、『その時』が来るまで彼女に知られないように、持っていたカバンの中に紙袋をしっかりと仕舞いこみ、店を後にした。
【プチあとがき】
さて、『土日で五十音』【け/ケジメをつける】グレードアップばーぢょんでございます。
そして【ん】に続けようと思ってるわけですが、その間にちょっとした事件が……(笑)
ちなみに香穂子さんは人気若手ヴァイオリニストとして絶賛活動中ですが、
土浦さんはまだ見習いです。『土浦は大器晩成型』という設定があるらしいので。
あ、もしかして香穂子さんの『ヒモ』状態?(笑)
さて、これから起こる事件とは !?
もう少し続きますので、おつきあいのほどよろしくです。
【2009/10/07 up】