■夏の思ひ出【最終日 1:練習中】 土浦

 最後の一音が大音量で響き、曲はその幕を閉じた。音響効果のない部屋だから実際の音の余韻はないけれど、耳の奥にはまだ音が賑やかに暴れまわっている。
「10分休憩〜!」
 指揮棒を降ろしたオケ部顧問の教師・渡辺が声を上げると演奏会さながらの緊張感が一瞬にして失せて、休み時間の教室のような賑やかしい雰囲気に変わった。
「はぁ〜……」
 部屋の隅でOBの火原、王崎と並んで椅子に座って練習を見ていた天羽は深い溜息を漏らした。どうやら曲がクライマックスに向かうにつれ、呼吸するのを忘れていたらしい。
「どうしたの、天羽さん?」
「いや、なんか圧倒されちゃって……」
 不思議そうな顔で声をかけてきた王崎は、天羽の返答に納得したように笑顔を浮かべた。
「うん、そうだね。土浦くんのピアノはもう完成してるから。すごい迫力だったと思うよ」
 楽譜を見ながら指揮者と何やら話している同い年のピアニストの背中を見ながら、天羽はもう一度溜息を漏らした。
「やっぱり本格的に音楽を勉強し始めたせいだろうね。日野さんの音も前にも増していい響きになってるし」
 ほんの短いソロパートでの音を思い出し、うんうん、と天羽は深く頷いた。親友が誉められるのは、自分のことのように嬉しい。
「ですよねぇ〜。あー、もっと香穂が活躍する曲やってくれればいいのになぁ」
 クラシックのことはいまだに詳しくはないけれど、香穂子の奏でる音は無条件に好きなのだ。もっと彼女の音が聞きたいと思う天羽にとって、 第1ヴァイオリンというパートに溶け込んでしまっていることが少し残念に思えていた。
「── それなら大丈夫だよ」
「へっ?」
「『名曲メドレー』をやろうっていう話になってるから、日野さんも活躍すると思うよ」
「なんですか? その『名曲メドレー』って」
「最近はテレビ番組とかCMなんかでよくクラシックが使われてるでしょう? そういう耳馴染みのある曲を繋ぎ合わせてメドレーにするんだ。 今回はせっかく日野さんと土浦くんが参加してくれてるから、ふたりがソロを担当する協奏曲を2、3曲ずつは入れようってことになってるって聞いたよ」
「へぇ──」
 それは楽しみ、と続けようとした天羽の言葉は、うわぁ!と叫んだ火原によって中断された。
「しまったっ! メドレーのソロのこと、ふたりに伝えてって頼まれてたのに忘れてたっ!」
 ぶんぶんと頭を振ってふたりの姿を探していた火原は、椅子から立ち上がり── かけた状態でぴたりとその動きを止めた。
 不思議に思った天羽は火原の顔を覗き込んでみる。
 と、彼は顔を真っ赤にして一点を見つめていた。
 その視線の先を追ってみる。
 そこにはたった今話題に上っていたふたりの姿があった。荷物置き用に壁際に寄せて並べられた会議机の傍で向かい合って何か話している。
 おもむろに梁太郎がぐいっとあおったのはペットボトルの飲み物のようだ。保冷のためなのか、タオルが巻きつけられ、輪ゴムで留めてある。 そのタオルには香穂子がいつも愛用している某ゆるキャラがプリントされていた。
 それからペットボトルは香穂子の手に渡り、彼女もまた無造作にペットボトルの飲み物をあおる。
 ── ははーん。
 天羽には火原の硬直の理由が手に取るように理解できた。
 あのふたりと昼食を共にする機会の多い天羽にとってあの程度のことは日常茶飯事。彼らは相手の皿から平気で食べ物を奪っていくし、 ストローを刺した紙パックの飲み物ですら共有する。今さらペットボトルの回し飲みくらい、驚きの対象にもならないのだ。
 しかし、どうやらロマンティストで純情な先輩にとっては、目撃してしまった『間接キス』は相当な衝撃だったらしい。
 大学生にもなってあの程度のことでドギマギしている彼が可愛いやら気の毒やらで、天羽は必死に笑いを噛み殺す。それから、すぅっと息を吸い込んで、
「香穂ー、土浦くーん! 火原先輩が話があるんだって!」
「う、うわぁ、あ、天羽ちゃんっ !?」
 依然真っ赤な顔で慌てる火原をよそに、ペットボトルの蓋を閉めて自分の荷物の中に突っこんだ香穂子と梁太郎が涼しい顔でこちらにやって来る。
 その対比が可笑しすぎて、天羽はひとり大爆笑するのだった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 コミクスの合宿話の時、香穂子さんのペットボトルを間違えて飲んじゃった火原も
 相当慌ててましたよね(笑)
 香穂子さんのタオルの柄は『たれ○んだ』か『リラッ○マ』あたりで。

【2008/05/23 up】