■夏の思ひ出【3日目 1:個人練習中】 土浦

「つ、土浦先輩っ! 大変ですっ!」
 翌日の午前中、梁太郎がピアノを弾いているところに2年生の男子部員が駆け込んできた。
「どうしたんだ?」
「ひ、日野先輩が、倒れてますっ!」

 知らせに来てくれた男子部員に先導されて到着したのは中庭。
 個人練習時間中に第1ヴァイオリンのパート練習をしようということになり全館放送で集合をかけたところ、姿を現さなかった香穂子を探していてここで倒れている彼女を見つけたらしい。
 樹の梢は昨日の雨が嘘のように朝から燦々と降り注ぐ日差しを遮って大きな陰を作っていて。
 元々水捌けのいい土地なのか、地面はすっかり乾き上がっている。
 木陰を囲むように立ち尽くす数人の部員の足元、その足の隙間から見える横たわる人影。
 慌てて駆け寄り、部員たちを掻き分ければ、そこに横たわっていたのはまさしく香穂子だった。
 樹の根元に腰を下ろし背中を預けたものの力尽きてそのままずるずると倒れてしまったように見えるその姿は、なんとなく不吉な感じがした。 横向きになって背中を丸め、力なく投げ出された細い手足、地面には長い髪が扇のように広がっている。顔色は樹の陰でよくはわからないが、少し青ざめているように見えた。
 ドクン、と心臓が悲鳴を上げた。
 すぅっと身体から血が引いていく。
 手足の末端からギチギチと音を立てて身体が凍りついていくような嫌な感覚。
 朝食の時に見かけた彼女はぼんやりしているようには見えたが、同室のヤツに叩き起こされて、ちゃんと目覚める前に食堂に引っ張って来られたのだろう、くらいにしか思っていなかった。 もしかして、体調が悪かったのだろうか?
 傍に膝をつき、口元に震える手をかざす── 大丈夫、呼吸はちゃんとある。
 次に顕になっている首筋にそっと触れてみた── 規則正しい脈。
 少し持ち上げた頭をくまなく撫でてみるが瘤(こぶ)らしきものはない── 頭を打ってはいないようだ。
 梁太郎はゆっくりと香穂子を抱き起こして自分に凭れさせ、華奢な身体を包み込むようにして上から覗き込みながらそっと彼女の頬を叩いた。
「……香穂? 香穂?」
 頬への刺激に、香穂子の瞼がぴくりと反応した。ん、と小さなうめき声を漏らしてゆるゆると瞼を上げ、梁太郎の顔を見つけてパチリと大きく目を開く。
 そして、次に彼女の口から発せられた言葉に、この場にいる者すべてが唖然となった。

「── や、やだ、私、寝ちゃってたっ !?」

*  *  *  *  *

 それからしばらくの間、梁太郎は香穂子に向かって怒鳴り続けた。
 集まっていた数人の部員たちの姿はいつの間にか消えている。梁太郎の剣幕に恐れをなして逃げていった、という方が正しいだろう。
 地面にペタンと座り込んで小さくなっている彼女の前に仁王立ちになり、延々と説教する。
 彼自身、何を口走ったのか、ほとんど記憶にはない。恐らく聞いている香穂子からすれば理不尽なことばかりだったとは思うが、もしも香穂子に何かあったら、 と想像しただけで襲ってくる恐怖が勝手に梁太郎の口を動かしてしまうのだ。
 眠っていただけだったことに安心はした。
 しかし屍(しかばね)のように── といっても実際に梁太郎が本物の屍にお目にかかったことはないのだが── 横たわる香穂子の姿を目にした時のあの身体が凍っていくような感覚は、 安心した今は逆に身体を怒りで沸騰させていた。
「眠いんならこんなとこで寝てないで、部屋で寝てりゃいいだろうがっ!」
「…………だって、怖いんだもん」
 それまで黙って説教を聞いていた香穂子が、ぽつりと呟いた。
「はぁ?」
「……寝てたら、ミシッとか、パキッとか、変な音するし……、何かいそうな感じするし……、おとといの夜はそんなに気にならなかったけど、 昨日怖い話聞いたら気になって眠れなくなって……」
「同室のヤツと話でもしてりゃ気が紛れるだろうが」
「私……ひとりなんだもん」
「……は?」
 オケ部の女子部員は偶数できっちり2人部屋で部屋割りができていたところに香穂子の参加が決まったのと、 できれば同室になりたいと殺到した女子部員たちの間で壮絶なバトルが繰り広げられそうになったために、香穂子はひとりで部屋を使うことが決定したらしい。
「だとしても、あんな作り話に毛が生えたような怪談でそこまで怖がるか?」
「……怖くないと思う人に、怖いと思う人の気持ちはわかんないんだよ」
 俯いたまま、拗ねたように唇を尖らせる香穂子。
 確かに梁太郎は幽霊など怖くない。怖いというなら生きている人間のほうがよほど怖いと思う現実派だ。 だが感性豊かで想像力もたくましい彼女にとって、作り話だとわかっていても怖いものは怖いのだろう。
 しかし、延々と怒鳴り散らした後の梁太郎はすでに引っ込みがつかなくなっていた。
「けどな──」
「つ、土浦くんっ!」
 背後から掛けられた切羽詰った声。振り返るといつの間に来たのか、ひとりの女子部員がおどおどと立っていた。
 確か……昨日、学習室で香穂子の隣に座っていた彼女のクラスメイトだ、と梁太郎が思い出した時、怯えに顔を強張らせた女子部員ががばっと頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ! 私が悪いの!」
「……?」
 いきなり謝られても、謝られる理由がわからなかった。ぽかんとする梁太郎が香穂子の方を見ると、彼女もきょとんとした顔でクラスメイトを見つめていた。
「どういう……ことなんだ?」
 身体を起こしたクラスメイトは、胸の前で握り合わせた手をモジモジさせながら、
「あ、あのね、昨日の怖い話大会の時にね、すごくおいしいお菓子があったの」
 何が言いたいのだろうか、と梁太郎は眉をひそめる。お菓子の話と言えば香穂子の食い意地が張っているのは今に始まったことではないし、それと今の状況は結びつかない。
「……で?」
「日野ちゃんにも食べてもらおうと思って肩をぽんって叩いたら……そ、その時の怖い話がちょうど『誰もいないはずの部屋で、後ろから肩に手が──』ってところで……」
「そうだったの !?」
 素っ頓狂な声を上げる香穂子。
「なんだ〜、幽霊じゃなかったんだ〜。ほら、怪談話してると幽霊が集まってくるって言うじゃない? てっきり幽霊に肩叩かれたのかと思って、怖くて怖くて……」
 ぐったりと後ろの樹に凭れかかった香穂子は、大きな息を吐いてへにゃりと笑った。
「日野ちゃん、ほんとゴメンね! だから土浦くんも日野ちゃんのことあんまり怒らないであげて!」
 パチンと顔の前で手を合わせ、一気に謝罪と擁護の言葉を述べると、クラスメイトはじゃあ!と踵を返して走り去っていった。
「……………もう遅いって」
 元々苦手な怖い話の最中に、その話と同じタイミングで同じシチュエーションに置かれれば、香穂子じゃなくても悲鳴を上げて怯えるだろう。
 部屋に連れて行った時の香穂子の求めるような視線の意味がようやくわかった。彼女が求めていたのはおざなりなキスではなく、あの後ひとりになってしまう恐怖からの救いだったのだ。
 なんともいたたまれなくなって頭をがしがしと掻いていると、パンパンッと軽い音が響き渡り、ふと我に返る。 音の方へ目をやると、立ち上がった香穂子が身体についた泥を払い落としていた。
「香穂……」
「あ、心配かけてごめんね。私、顔洗ってく── ひゃっ !?」
 歩き出そうとした香穂子の腕を掴み、ぐいっと引っ張った。どすん、と胸に響く衝撃を受け止め、強く抱きすくめる。
「りょ、梁 !?」
「── ごめん」
 香穂子の首筋に顔を埋めているせいで、梁太郎の声はくぐもって聞こえた。香穂子がくすぐったそうに身を捩らせる。
「や、やだ、何謝ってるのよ」
「……怒鳴ったりして悪かった」
「う、ううん、それは私がこんなところで寝ちゃってたのが悪いんだし! あ、みんなにも謝らなきゃ!」
「でも……よかった、倒れたとかじゃなくて」
 改めて梁太郎が安堵の溜息を吐いた時──

 パシャッ

 突然聞こえた異質な音に顔を上げた梁太郎が見たのは、年季の入った一眼レフのファインダー越しに自分たちを見つめている、見慣れた報道部員の姿だった。
「げっ……あ、天羽っ !?」
「やっほー、おふたりさん♪」
 梁太郎は香穂子を包んでいた腕をぱっと離す。
 ほぼ同時に振り向いた香穂子が跳ねるように身体を翻して駆け出し、天羽に飛びついた。
「どうしたの、菜美 !? なんでここに?」
「もちろん取材だよ。学院一のヴァイオリニストが彼氏に説教食らってるって聞いて飛んできたのに、まさか熱烈なラブシーンやってるとは思わなかったよ、あははっ」
 あっけらかんと言い放つ天羽のセリフに、梁太郎は思わず顔を赤らめてそっぽを向く。
「そうじゃなくて! 合宿に取材に来るって知らなかったよ」
「そりゃそーよ、あんたを驚かせようと思って内緒にしてたんだから。本当は初日から同行したかったんだけど、どうしても昨日までバイトが抜けらんなくてさ。 で、スケジュールの都合で今日から合流する王崎先輩の車に便乗して来たってわけ」
「最後までいる?」
「もっちろん♪」
 思いがけない親友の登場がよほど嬉しかったのか、香穂子はきゃいきゃいとひとりではしゃぎ回っていた。
「それはそうと、向こうにヴァイオリンの人たち集まってたけど、香穂は行かなくていいの?」
「えっ、そうなのっ !? 行かなくちゃ! じゃ、ふたりとも、またお昼にね!」
 木陰に置き去りにされていたヴァイオリンケースを抱え上げ、すっかり眠気も吹き飛んでしまったのか、香穂子は元気に走っていった。
 思わず溜息を漏らす梁太郎。
「あ、私、今日の夜は香穂の部屋に泊まることになってるから、安心してよね」
 じゃあね、と天羽は手をひらひらと振って去っていった。
 他の部員に話を聞いたのだろう、すっかり事情はわかっているらしい。
 彼女が香穂子の同室になってくれれば、今日の夜はいもしない幽霊に怯えて眠れないということはないだろう。
「……夜通ししゃべってて、明日も寝不足だったりしてな」
 何気なく呟いたことが本当にありえそうで、梁太郎はこみ上げてくる笑いを噛み殺しながらピアノのある部屋へと戻っていった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 人騒がせな人たちだなぁ…(笑)

【2008/05/10 up】