■夏の思ひ出【2日目 2:学習室にて】 土浦

 夕方、突然降り出した雨は夏特有の通り雨かと思われたが、梅雨の長雨のように夜になってもしとしとと降り続けていた。
 そのため計画されていた肝試しは中止となり、残念がる部員たちをよそに梁太郎と香穂子はその分勉強に時間が回せる、と内心喜んでいた。
 ふたりが勉強道具を抱えて学習室へ行くと、先客がいたのか中から賑やかな声が聞こえて来た。
「今日はみんな勉強してるのかな?」
「それにしちゃ賑やかすぎるがな」
 扉を開くと、そこは宴会場になっていた。
 試験会場のように整然と並べられていたはずの会議机のいくつかが寄せられて大きなかたまりにされ、その上は大量のお菓子の袋とジュースの缶で埋め尽くされている。 それをぐるりと取り囲んで談笑する、1年から3年まで取り混ぜた部員たち。
「あっ、土浦と日野ちゃん!」
 声を上げたのは火原だった。彼はふたりが手に持っている勉強道具を見ると、
「うわっ、もしかして勉強 !? ご、ごめんっ、すぐ片付ける!」
「いや、俺たちの方が場所替えますよ」
「えっ、でも、この部屋は勉強するための部屋だし、誰もいなかったから使っちゃってただけだから!」
 バリバリと耳障りな音を立てながらスナック菓子の袋を掻き集め始めた火原が、ふと手を止めた。
「そうだ! 勉強の前に、ちょっとだけ仲間に入っていかない?」
「「え…?」」
 思わず顔を見合わせる梁太郎と香穂子。
「勉強も大事なことだけど、少しは羽伸ばそうよ! せっかくの合宿なんだし!」
 何が『せっかく』なのかわからなかったし、羽を伸ばすために合宿に参加したわけでもない。
 しかし目の前で目をキラキラさせて誘ってくれている先輩の無邪気な強引さは今に始まったことではなく、ふたりはもう一度顔を見合わせてから、 溜息混じりに『じゃあ、ちょっとだけ』と後輩が引いてくれた椅子に腰を下ろすことにした。
「誰か電気お願い!」
「はーい」
 火原の号令に扉側に座っていた1年生が席を立ち、入口脇の照明のスイッチに手をかける。
 パチン
 無機質な音を合図に辺りが一瞬にして闇に飲み込まれた。
 カチッ
 かすかな音と共に闇の中に生まれる僅かな光。いつからそこにあったのか、ランタン型の懐中電灯が机の中央にお菓子の袋に埋もれるようにして頼りなく光っていた。
「じゃあ、誰から行く?」
「あ、オレ行きます! 『それは、ある夏の暑い夜のことでした──』」
 こうして、雨で中止となった肝試し大会の代わりに、夏の夜の定番『怖い話大会』が始まったのだった。

*  *  *  *  *

 ガサガサとビニールの擦れる音、ボリボリとスナック菓子を噛み砕く音、ジュースを飲み下す音が断続的に聞こえる中、『怖い話』は延々と続けられた。
 昔話から都市伝説、いつだったかテレビで芸能人が大袈裟な身振り手振りで披露していた話のパクリや『それ絶対作ってるだろ!』とツッコミたくなる話まで。
 梁太郎はちらりと右隣の様子を窺った。
 もちろん座っているのは香穂子。愛らしい横顔は辛そうに歪んでいる。眉をひそめ、唇を噛んでいた。
 実は彼女、こういう話は得意ではない。洋風モンスターはあくまで作り話であって恐怖の対象にはならないが、和風幽霊は現実的な恐怖を感じるらしい。
 怖い話大会が始まってすぐに外に連れ出してやろうかとは思ったのだが、梁太郎はそうしなかった。
 当然、『昼間プールで足蹴にされた腹いせ』である。
 まあ、自分が水着の紐を引きちぎってしまったことが原因ではあることだし、何が何でも仕返しを、というほどまで怒っていたわけではないのだが、 あれだけの人前で自分に蹴りを入れてくれたのだ、これくらいのお灸くらいは甘んじて受けてもらわねば、というちょっとした悪戯心。
 ついさっき先輩の言葉を否定したばかりだというのに、『せっかくの合宿だし、少しは羽伸ばすか』と考えている梁太郎だった。

*  *  *  *  *

 香穂子の右隣に座っていたのはヴァイオリンの女子部員。香穂子とはクラスメイトでもある。
 怪談なんて別に怖くもなんともない彼女は目の前のお菓子を腹に溜め込むことに集中していた。
「(あ……今のお菓子、おいしかった!)」
 そのお菓子の袋を自分の方へ引き寄せ、そのおいしさを誰かと分かち合いたいと思った彼女は隣の人物の肩に手を──
「『── 誰もいないはずの部屋で、後ろから肩に手が──』」

 ぽんっ

「いやあああああぁぁぁぁぁっ!」
 耳をつんざくような叫びと椅子が倒れる派手な音に、誰かが慌てて部屋の明かりをつけた。
 さっきまでのおどろおどろしい雰囲気から一転、煌々と照らされる部屋の中、梁太郎の首に抱きついてぶら下がっている香穂子の姿があった。
「かっ……肩っ……て、手がっ!」
「おいおい……今のはありきたりでそこまで怖がるような話じゃないだろ」
 皆の目がある手前、香穂子の身体を引き剥がそうとしながら梁太郎がなだめつつ。
 『ありきたり』とばっさり言われてしまった語り手の男子部員はがっくりと肩を落とし。
 えぐえぐと泣きじゃくっている香穂子の横で倒れた椅子を起こしていた女子部員は『お菓子のおいしさを分かち合いたくてジャストタイミングで彼女の肩に手を乗せちゃいました♪』 なんてことは口が裂けても言えなくて。
 梁太郎はどんなに剥がそうとしてもガチリと腕を巻きつけて離れない香穂子に溜息混じりに、ちゃんと掴まってろよ、と囁いて、立ち上がりながら彼女の膝裏に回した手で軽々と抱き上げる。 空いた手でふたり分の勉強道具を抱え上げると、
「すいません、お先に抜けます」
 気を利かせた部員のひとりが先回りして開けてくれた扉から出て行った。

 ほんのりと赤い頬をした残された者たち。
 『お姫様だっこ』というのはよく聞くが、実際にはそうそうお目にかかれるものではないその光景に放心したように見入っていた部員たちは、 誰かがタクトを振って合図したかのように同時に『ほぅ…』と溜息を吐いて我に返った。
「そ……そろそろお開きにしよっか…?」
 こうして『怖い話大会』は終了したのである。

*  *  *  *  *

 頼むから誰も出てくんなよ、という梁太郎の願いは叶い、香穂子の部屋の前まで来るまでに誰一人として出会うことはなかった。
 さすがに彼女を抱えた状態で誰かに出くわすのは気恥ずかしい。とはいえ学習室で相当な人数に見られているのだから、今さら一人二人目撃者が増えても大したことではないのだが。
 しかし、男子と女子の部屋はフロアが違う。男子は建物の2階、女子は3階にきっちり分けられている。女子しかいないとわかっているフロアにいること自体がなんとも居心地悪かった。
「ほら、着いたぜ」
「ん」
 腰をかがめて香穂子をそっと降ろしてやる。持っていた勉強道具の半分を差し出して。
「んじゃ、また明日な」
 頭をくしゃりと混ぜて立ち去ろうとすると、ぐいっと服を引っ張られた。
 振り返ると、香穂子は片手で勉強道具を胸に抱きしめ、片手で梁太郎のシャツを握り締めていた。
 恐怖に泣き喚いて赤くなり、潤みをまだ残した目は上目遣いに何かを必死に求めているように見えて。
「ばっ、バカ、んな顔するなって」
 梁太郎は辺りの様子を窺うように── 香穂子と同室のヤツがいきなり部屋から出てくるかもしれない、あるいは他の部屋のヤツがひょっこり顔を出すかも── きょろきょろと見回し、人の気配がないのを確認すると、彼女の頬にそっと手を当てた。首を少し傾け、顔を素早く近づけて、彼女の唇に自分のそれで軽く触れる。 近づいた時と同じく素早く離れると、彼女の顔も見ないまま身体を翻して、おやすみ、と一言だけ残して廊下をスタスタと歩き去った。
 なんとなく照れ臭かったのだ。普段なら何気ないコミュニケーションにしか過ぎない小さな行動なのに、姿が見えないとはいえ第三者が大勢いるとわかっているこの場所で、というのが。
 しかしそのせいで、梁太郎は背後に残された香穂子が絶望にも似た色をその顔に浮かべていたことに気付くことができなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ふっふっふ、いちゃつくだけいちゃついてればいいさっ!
 香穂子さんの怖いもの設定は、短編「ホーンテッド・アトラクション」に準じてます。

【2008/05/07 up】