■夏の思ひ出【2日目 1:プールにて】
午前中の練習を終え、自分の部屋に戻ってきた梁太郎。
ベッドに腰を下ろし、ジーンズのポケットから携帯を取り出し、ぱかっと開く。
合宿中、香穂子とは夜の自由時間の勉強以外、何の約束もしていない。練習の時もオケメンバーの一員である香穂子とソリストである梁太郎は全体練習で顔を合わせるだけ。
物足りなさを感じつつ、携帯を睨みつけた。
昼メシでも一緒に食うか、と電話をかけようとして──
ガチャッ
「おーい、土浦ぁ、いる〜?」
勢いよく入ってきたのは同室の火原。昨夜、遅れて部屋に戻ってきた火原は妙にそわそわしていて、梁太郎と目を合わせることがなかった。
梁太郎には理由はわからなかったが、やけによそよそしくて少々気まずい雰囲気になっていたのだが、今朝になるとそんな雰囲気は消えていた。
相も変わらずひとりになりがちな土浦のことを何かと気にかけてくれている。
「あ、はい」
「ね、土浦、プール行こ、プール! 水着持ってきただろ?」
火原は自分の荷物のところにしゃがみこみ、がさがさと中を漁り始める。
「ええ、まあ……」
「25メートル、どっちが早いか競争しよ!」
どこかのショップのものか、巾着になったビニール袋を抱えた火原は、待ちきれないとばかりに扉の前で駆け足をして土浦が動くのを待っていた。
「……わかりました、受けて立ちますよ」
梁太郎はこっそり小さな溜息を吐き、ぱかんと畳んだ携帯をジーンズのポケットに捻じ込んで、自分の荷物に手をかける。
中から水着の入った袋とタオルを取り出し、部屋を飛び出していった火原の後に続いた。
梁太郎は先日香穂子と買い物に行って新調した膝上丈のトランクス型の黒い水着に着替え、綿シャツを羽織って別棟の屋内プールにやって来ると、いきなりの歓声に出迎えられた。
一瞬たじろぐものの、それは自分へ向けられたものではないとすぐに理解する。
プールサイドは黒山の人だかり、とまではいかないが、結構な人数がプールの方を眺めていた。そのほとんどが男── 男子部員の半分以上はいるだろうか。
プールの上を行き交うビーチボール。プールサイドから聞こえる野太い歓声とは別にキャーキャーと黄色い声がするのは、プールの中で遊んでいるのが女子だということに他ならない。
女子が水着ではしゃぐ姿を見たいという気持ちがわからないと言えば嘘になるが、せっかくプールにいるんだから泳げばいいのに、と呆れつつ。
水面が見える位置まで移動して、梁太郎はギクリとして足を止めた。
プールの奥の一画には10人ほどの女子。半々に分かれてビーチボールでバレーのようなゲームを楽しんでいる。
その中に見つけた見慣れた姿── 髪を頭のてっぺんあたりでポニーテールにし、鮮やかなライムグリーンのビキニ姿でボールと戯れている香穂子である。
いやらしさを感じさせないシンプルなデザインのビキニは確かに香穂子に似合っていた。試着室の中で、どう?、とポーズをとる彼女に言葉もなく見惚れてしまったくらいに。しかし──
んな目で香穂を見るな!、とギャラリーの男子部員たちにガンを飛ばしてみるも、誰も梁太郎の存在に気づく者はなく、効果はゼロ。
と、おおーっ!、と一層大きな歓声が湧いた。
身を乗り出す男子たちに釣られるようにプールへと目を移した時、梁太郎は再びギクリとした。
飛び散る水しぶきの中、高くジャンプしてボールを打つ香穂子の背中。
梁太郎はプールサイドを駆け出し、ギャラリーの前辺りでダンッと踏み切り、綺麗な放物線を描いて水の中へ飛び込む。
潜ったまま香穂子の背後に到達すると、ザブンと大きな音を立てて水から顔を出し、いきなり彼女の背中の紐をガシリと掴んだ。
「うひゃぁっ !?」
身体を竦ませ悲鳴を上げる香穂子。
梁太郎は水が滴る髪を掻き上げ、ほっとしたように大きく肩で息をする。
突然の出来事にギャラリーの男子たちは固まったように動かなくなり、いきなりの乱入に女子たちは興味津々の視線を投げかけた。
恐る恐る背後を振り返った香穂子が、訝しげにぴくりと片方の眉を上げる。
「……なに、してるの…?」
「やだぁ、もしかして土浦くんってば日野ちゃんのビキニ姿にムラムラしちゃったの〜?」
きゃあ〜♥と女子たちが黄色い声を上げる。プールサイドから降ってくる冷やかしの口笛。梁太郎の顔は一気に茹で上がった。
「ばっ、ち、違うって! ひ、紐が解けかけてたんだよっ!」
「えっ、うそっ !? 早く結び直してっ!」
自分を抱きしめるようにして慌てて胸元をカバーした香穂子は梁太郎に背中を向けたまま。
………俺に結び直せと? ……この衆人環視の中で…?
「解けないようにきつめに結んでよ!」
躊躇う彼を香穂子が肩越しに急かす。
「はぁ………わかったって…前、ちゃんと押さえてろよ」
梁太郎はプールサイドの目から香穂子が隠れるような位置に立ち、掴んでいた手を放す。緩んだちょうちょ結びをしゅるりと解きしっかりと結び直し、
再び緩まないようにと最後の仕上げにぎゅっと力を込めて紐を引っ張った。
ぶちんっ
「あっ」
「……え?」
梁太郎の手からダラリと垂れたライムグリーンの細い紐。
香穂子がまだ自分を抱きしめた状態のままだったからよかったものの、そうでなければ今頃どうなっていたことか。
「わっ、悪いっ!」
「な────────────っ !?」
真っ赤になって絶句する香穂子のクロスした腕の前に片腕を回し、完全に無防備になってしまった彼女の背中を人目に晒さないようにしながら、ザブザブと水中をプールの端まで引きずっていく。
人のいない辺りで彼女のウェストを支えて持ち上げ、プールの縁に座らせてやってから梁太郎も急いで水から上がった。
着たままだったシャツを脱いで無造作に丸めて絞り、バサリと広げて彼女の肩にかけてやる。二の腕を掴んで立ち上がらせると、前に回って上から2番目と3番目のボタンを留める。
梁太郎のシャツは香穂子のお尻の下までをすっぽりと覆い、腕を袖に通していないにも関わらず、まだまだゆとりがあった。
そして彼は再び彼女の腕を掴み、更衣室の方へと引っ張っていく。
「……馬鹿力…」
「……ごめん」
「明日、プールに入れないじゃない」
「……だから悪かったって」
「お気に入りの水着だったのに」
「……………」
黙りこくってしまった梁太郎をキッと睨み上げた香穂子は肩をいからせて彼の手を振りほどき、すっと上げた足を後ろに振り上げた。
そして、振り子のように振り下ろされたその足はパシーンッと派手な音を立てて綺麗に梁太郎の膝裏に決まり、不意を突かれた彼の膝がカクンと折れた。
「いっ………てぇっ! いきなり何すんだよっ!」
さすが元サッカー部、床に崩れる前に体勢を立て直した梁太郎が香穂子に食ってかかる。彼の膝裏が赤くなっているのが、離れた場所のギャラリーたちからも見て取れた。
誰かの『痛そ〜』という呟きに、全員が無言でコクコクと頷いた。
「怒りの鉄拳に決まってるでしょっ!」
「今のは拳じゃなくて蹴りだったろうが!」
「しょうがないでしょ、この状態じゃ手なんて出せないんだから! なんならついでに踵落としもお見舞いしてあげましょうかっ!」
「へぇ、やれるもんならやってみろよ!」
ピキン、と香穂子のこめかみに青筋が立ったような気がした。
ぎゅっと口元を引き締め彼女は僅かに腰を落とす。それから伸び上がるように右足を振り上げ──
「ぅきゃっ !?」
香穂子の身体がぐらりと後ろに傾いだ。
立ち止まっての舌戦の間に、濡れたシャツから滴り落ちた水が彼女の足元に溜まっていて、足を振り上げた勢いでツルリと足が滑り、バランスを崩してしまったのだ。
両腕をシャツの中に閉じ込められている彼女には、横に立っている梁太郎に掴まって倒れるのを回避することすらできない。
香穂子はぎゅっと目を瞑って、これから襲ってくるであろう痛みを覚悟した。しかし──
「あ……っぶねぇ……」
ごく近くから聞こえて来た声に、香穂子はおずおずと目を開けた。
見えたのは、至近距離にある少し青ざめた梁太郎の顔だった。
香穂子は右足を高く上げたままほとんど床と並行になった状態で、片膝をついた梁太郎に抱きかかえられるようにして背中と腰を支えられていた。
その光景はまるでラテン系の情熱的なダンスのワンシーンのように見えた。
「あ……ありがと……」
「……おう」
香穂子がゆっくりと右足を下ろすと梁太郎が彼女の身体を引き上げてやり、ふたりはようやく立ち上がる。
「ご…ごめんね…?」
「……いいからさっさと歩け」
「……うん」
そして香穂子は梁太郎に腕を掴まれ、更衣室に連行されていった。
一瞬の後、事のなりゆきを固唾を呑んで見守っていたギャラリーから建物を揺るがすような大爆笑が起こった。 中には単に面白がって笑っていた者もいるだろうが、結局のところラブラブっぷりを見せ付けられただけで、笑わなきゃやってられない、 というのが大半の心の内を占めていたのは仕方のないことだろう。
その後、部員たちの間に『日野香穂子を怒らせるな』という戒厳令が敷かれることになり。
そして、近寄りがたいと思われていた梁太郎に気軽に話しかけてくる者がやたら増えた。そんな彼らの目には決まって同情と憐憫、さらに尊敬の色が浮かんでいたらしい。
【プチあとがき】
題して『猟奇的な彼女』(笑)
悠那さん、完全に頭が崩壊してます、うふっ♪
とにかくつっちーを蹴りたくて(笑)
このシーンを書くためだけに、このお話を始めたようなものでございます(をい)。
どうやって香穂子さんを怒らせるか、と考えてたらこんな流れに(汗)
ビキニの紐のどこがどう千切れたのかは、あんまりツッコまないでぷりーず。
つーか、その身長差じゃ踵落としは決まらないよ、香穂子さん(笑)
【2008/05/04 up】