■夏の思ひ出【1日目 4:勉強後】 土浦

 初めての合宿で浮かれている1年生ヴァイオリニストふたりが、合宿所となっている保養施設の中を探検していた。
 一通り見終えて、『学習室』と書かれた紙が貼られている扉の前に差し掛かった時、
「う……ん」
 扉の中から何とも艶かしい声が聞こえ、思わず足を止めた。
「や……梁、重い……」
「全体重かけてるわけじゃないんだ、潰れりゃしないって」
 こ、この声はっ!
 声の主は間違いなく日野香穂子と土浦梁太郎である。
 この春に入学してきた1年生ふたりは、昨年あった出来事について先輩たちからいろいろと聞いていた。 聞くうちに事実に尾ひれがついて、彼らの頭の中では香穂子と梁太郎は苦難に立ち向かう女勇者とそれに付き従う騎士のような存在として尊敬と畏敬の対象となっているのである。
 合宿に参加して初めて間近で見たふたりはまさしく美男美女のカップルだった。梁太郎は元サッカー部だけあって体格もよく、少々近づきがたい雰囲気を持っていたが、 香穂子の方は学院を救ったことを鼻にかけることもなく気さくで朗らか、傍にいて安らげる人物だったのに驚いた。そして何より、彼らは圧倒的な音楽の才能を持ち合わせていた。
 そのふたりが、この扉の向こうにいる。
 1年生ふたりは顔を見合わせ、同時にゴクリと生唾を飲み込むと、扉に張り付いて耳を押し当てた。
「次、お前が上な」
「え……梁ってば大きいんだもん、地に足着かなくてフワフワして怖いよ」
「それが気持ちいいんだろうが」
 もしかして── 扉1枚隔てた向こうで繰り広げられるめくるめく官能の世界 !?
 聞こえてくる会話に想像力を総動員して妄想を膨らませながら、1年生たちはもっとよく聞こうと耳を更に強く扉に押し付けた。

 そろそろ消灯時間。
 火原和樹はOBとして、現役部長と手分けして館内を見回っていた。
 食堂や練習場所である会議室のある1階の廊下に辿り着いた時、目に入ったのは『学習室』の扉に張り付くふたりの1年生部員。後ろからそっと近づいて声をかけてみた。
「こんなとこで何やってるの?」
 ぴくりと肩を震わせ勢いよく振り返り、口に人差し指を当てて『しーっ!』と牽制する。彼らの動きはその顔の赤さまでが見事にシンクロしていた。
 火原は無言で手招きする彼らに合わせて、同じように扉に耳を当てた。
「── や…っ、そ、そんなに揺らしちゃダメだってばっ」
「でも気持ちいいだろ?」
「んっ……そうだけど……ちょっと痛い…」
 中から聞こえてくる悩ましげな声。声の主は火原がよく知る人物のものだとすぐに気づいた。
 ロマンティストとして知られる彼ではあったが、さすがに大学生にもなって『そういう』知識が皆無であるわけでもなく。 付き合っている男女がその親密度の高低によってどんな行為をするのかくらいのことは当然知っている。
 ぼふん、と一気に顔を沸騰させ、
「(だだだだだめだって! 立ち聞きなんてしてないで、早く部屋に戻りなよっ!)」
 小声でたしなめながら1年生たちを必死に扉から引き剥がす。
「(先輩、硬いこと言わないで!)」
「(これからがいいところなんっすよ〜!)」
「(だめだめだめ、だめだってば!)── うわっ!」
 3人は激しい攻防の末にバランスを崩し、思いがけず開いてしまった扉の中へもつれ合いながら倒れこんでしまった。
「ごごごごごごめんね邪魔しちゃってっ! す、すぐに出てくからっ!」
 床の上で身体を起こしながら、人の気配のある方から必死になって真っ赤になった顔を逸らし、しどろもどろになって謝る火原。
「いや、俺たちもそろそろ引き上げるところですから、かまわないっすよ」
 聞こえて来た声はやけに穏やかだった。
「え……?」
 そむけていた顔を声のした方へとおずおずと向けてみる。
 確かにそこには重なり合っている香穂子と梁太郎の姿があった── 背中合わせで。
 両腕を組み、馬飛びの馬のように身体を折り曲げた梁太郎の背中の上で香穂子が海老反りになって床から離れた足をぷらぷらさせている。
 体育の時間や運動部の準備運動でよくやる、いわゆる『シーソー』という運動をやっていたらしい。
 梁太郎が身体を起こすと、香穂子がストンと床に着地して、彼らは組んでいた腕を解いて背中を離した。
「もう、あんなに揺らしたら背骨が折れちゃうじゃない」
「折れるわけないだろ、背筋が伸びて気持ちよかっただろうが。ったく、ヴァイオリン弾いてる時は見事にいい姿勢なのに、机に向かうとなんであんな猫背になるんだよ」
「しょうがないでしょ、ヴァイオリンの演奏と勉強は別物なんだから!」
「あー、はいはい。けど、お前、身体硬すぎ。ちっとはストレッチくらいやれよ」
「わかったわよ」
 梁太郎はまだぶつぶつ言っている香穂子を促し、机の上に纏めてあった勉強道具を抱え上げると、お先に、とふたりして部屋を出て行った。
 パタン、と扉が閉まり。
「あ……あ、あははははっ」
 気まずい空気の流れる中、3人はまだ赤いままの顔を見合わせ、頭を掻き掻き苦笑するしかなかったのだった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!
 悠那ちゃん、脳ミソが膿んでますっ(汗)
 年齢制限ものだと思って期待しちゃった方、ごめんなさい。
 えと、こういうのでも制限かけたほうがいいのかな…?

【2008/05/01 up】