■夏の思ひ出【1日目 3:勉強中】
梁太郎のピアノに感動した部員たちのやたら前向きな姿勢のせいで30分も伸びた全体練習も終わり、夕食が終わると待ちに待った自由時間になる。
各部屋には身体を休めるためだけの設備しかないため、わざわざ『学習室』が設けられているのだが── 勉強道具を手にここにやってきたのは梁太郎と香穂子、ふたりだけだった。
他の部員たちは完全に骨休めの時間に当てているらしい。
いくつも並べられた会議机のひとつに並んで腰を下ろし、教科書を広げる。
「あ、そうだ」
筆箱をごそごそと漁っていた香穂子がふと手を止めた。
「ね、体調、大丈夫?」
「ああ、なんともない。心配すんなって」
時間が経って落ち着いたのか、昼間のような妙な意識をせずに香穂子の顔を見られるようになっていた。
よかった、と香穂子が微笑む。
そういえば、ここに着いてからほとんどまともに話をしていなかったことに気がついた。
バスの中では香穂子は到着するまでずっと眠っていたし、昼食の時は無理矢理合宿に参加させたことを気に病んでのことか、同席した火原がひとりでしゃべっていた。
練習の時はもちろんしゃべっている暇なんてないし、夕食の時は香穂子は同じ第1ヴァイオリンにいるクラスメイトを含めた女子の一団と一緒で、
梁太郎は同じく管楽器のクラスメイトたちと男ばかりで食事をしたのだ。
「今日の練習、楽しかったね」
「まあな」
「オケの子たち、梁の演奏にうっとりだったよ」
「へぇ」
「……なによ、もう少し喜びなさいよ」
あまりに淡白な返事に機嫌を損ねたのか、香穂子がぷぅっと頬を膨らませた。
梁太郎は立てた人差し指で、膨らんだ頬をぶしゅっと潰す。
「お前は? お前はどう思った?」
「え、私? んー、そうねぇ……」
香穂子は頬に触れていた梁太郎の人差し指を掴むと自分の方へ引き寄せ、もう片方の手で人差し指以外の折り曲げた3本の指を包み込んだ。
「後ろ姿が新鮮だった、かな?」
「はぁ?」
「だって、アンサンブルの時はピアノは後ろだったでしょ。そうじゃない時は大抵顔の見えるところにいるし……
そういえばピアノ弾いてる梁の後ろ姿ってあんまり見たことなかったなー、と思って」
梁太郎の手を包んだ手に顎を乗せ、クスクスと笑っている香穂子。
「私の座ってる場所からだとね、時々梁の横顔がちらっと見えるの。そのたんびに心の中できゃーっとか叫んじゃったりして」
きゃっきゃとはしゃいでいる香穂子に掴まれたままの手がじんと熱くなってくるのを梁太郎は感じていた。
今日の練習の時には思わなかったが、後ろから香穂子にそういう風に見られていると思えば明日からの練習は大丈夫だろうかと心配になってきたりもする。
反面、嬉しいようなくすぐったい気持ちにもなるのだから不思議なものだ。
「そういやお前、ソロやるんだな。あの席でソロってのも変な感じだよな、普通コンマスの仕事だろ」
「あー、ソロはねぇ……『コンミスやるか、ソロやるか、どっちがいい?』って迫られたから、ソロって答えたの。席は最初はコンマスの隣だったんだけどね、
『日野さんに譜めくりなんてさせられません!』とか言って気を遣ってくれちゃって。で、その隣の3番目」
「……なるほど」
楽しそうに話す香穂子の様子からして、彼女はすっかりオケのメンバーに溶け込んでいるようだ。
それは彼女の大らかな性格からして当然のことであり、そうでなければオーケストラという団体戦をこなすことはできないのだが、なぜか梁太郎の胸には正体不明の靄がかかっていた。
ふと、香穂子に掴まれている手をゆっくりと引き寄せてみる。
彼女は、あ、ごめん、と呟いて、ぱっと手を放した。
握り込まれていた手から温もりが消えて、すぅっと冷たい空気が纏わりつく。
ああ、そうか── この手と一緒に、彼女ごと引き寄せたかったのだ。
靄の正体が見えた── オケに彼女を奪われてしまったような寂しさ。要するに独占欲。
そのくせ彼女のことでからかわれると、ムキになって動揺する。
「……俺って相当ガキだよな」
「え?」
「……いや、なんでも。勉強、始めようぜ」
きょとんとしている香穂子の頭をくしゃりと撫でて、梁太郎は机の上の教科書を開いた。
【プチあとがき】
悶々とする土浦さん(笑)
【2008/04/28 up】