■夏の思ひ出【1日目 2:練習中】 土浦

 高原の避暑地にある合宿地は、自然に囲まれたのどかな場所だった。
 逆に色濃い緑の中に佇む近代的なホテルのような建物がそこにあることのほうが異質であり、それでいて建物が風景に溶け込んでいるのが不思議に思えた。
 到着してすぐ各自あてがわれた部屋に荷物を置き、集合したのは広い食堂。 部長により注意事項の伝達とスケジュールの確認がされた後、『いただきます』の唱和で昼食が始まった。
 食事は何の変哲もない和食だった。
 それが済めば、しばしの休憩の後、それぞれ施設内に散らばって練習を始める。
 木陰の多い屋外で練習する者も多くいて、静かな高原は一気に賑やかになった。

 ピアノが置かれているのは1階にあるラウンジ。
 カウンターに6席、4人掛けの席が5つばかりある小さなラウンジだ。
 今、この建物は未成年ばかりの貸切状態だが、そうでない時は夜になればここには避暑に訪れた大人たちが酒を楽しむべく集まるのだろう。
「……なんか妙な気分だな」
 居心地の悪さを振り払うように足早にピアノの元へ。
 望むらくもないが、そこにあるのはごく普通のアップライトピアノだった。 オケ部はこの数年ここで合宿をしているらしいが、これまでピアニストが同行したことはないのだから仕方がないだろう。
「まぁ……ないよりマシか」
 蓋を開け、鍵盤のひとつに指を乗せる。
 音の響きは悪くなかった。
 埃を被っているわけでもなく、一応きっちり手入れはされているらしい。
 椅子の位置を調節し、鍵盤に手を乗せる。
 ── そうだな……後半のCon moto。
 なんとなくこの場の雰囲気に合っているような気がして。
 激しいシンコペーションに入る前で手を止める。
 と、背後からパチパチとまばらな拍手が聞こえて、思わず振り返った。
「お見事お見事」
「……どうも」
 ゆっくりとピアノの方へ歩いてくるのはオケ部顧問の教師・渡辺だった。
 さして背は高くないが、がっちりとした体格。まるで運動部の顧問のように白いTシャツに青いジャージを履いた姿そのままにさっぱりした体育会系の人物で、 普段はスーツ姿で音楽理論の授業で教鞭を取り、梁太郎もその授業を受けている。
「いやぁ、すまんかったなー、お前さんも忙しかろうに」
 どことなく馴染みの深いズボラ教師と似た口調。しかし目の前の教師はもっとキビキビしていて、年齢も少し上だ。
「いえ……少しでも得るものがあれば儲けもんだ、くらいには楽しみにして来ましたよ」
「はははっ、正直だな土浦。まあ、何事も経験さ。俺も一応付属の指揮科の出なんでな、盗めるもんがありゃ盗んでっていいぞー」
「え゛……」
 梁太郎はあくまでピアノ専攻の生徒であり、指揮者を目指していることなど公言した覚えはない。 なんで知ってるんだ、という疑問が顔に表れてしまったのか、渡辺は口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「お、違ったか? 確か春の音楽祭の前だったか、『土浦は指揮者志望だから都築の尻を追っかけ回してる』って話を聞いたんだがな」
「……なんですか、その身も蓋もない言い方は……」
 思わず顔を赤らめ、がしがしと頭を掻く。
 付属大学指揮科の都築茉莉。香穂子がコンミスを務めたオーケストラで指揮者を務めた人物。
 自分が目指す道を先に進んでいる先輩の出現に梁太郎は浮かれた。知識を求めるあまり、一時期彼女と行動を共にすることが多くなったのは事実だった。
 そのせいで香穂子との仲がこじれた。解決したとはいえ、いまだに苦い出来事だ。やましいことなど全くなかったのだが、教師の間でもそんな話がされていたとなると、 生徒の間ではどんなに口さがない噂が流れたことだろう。きっと香穂子の耳にも届いていたに違いない。
 ムカムカする胸を掻きむしりたい衝動に襲われる。
 できることなら、あの頃の自分を一発ぶん殴ってやりたい気分だった。
「── それにしても、お前さんの相方は大変だなぁ」
「は…?」
「日野だよ、日野。まー次から次へと何やかや巻き込まれてさ」
「……俺もそれにことごとく巻き込まれてるんですがね」
 思わず溜息混じりにそう呟いて。
 それにしても『相方』って……そこらのバカップルのように人目のあるところでイチャついていたわけではないはずなのだが、教師からもそう認識されるような態度を取っていただろうか?
 梁太郎と香穂子はクラスは違えど、授業中以外はほとんどふたりセットで行動している、ということに気づいていないのは本人だけである。
「今もちらっと見かけたが、あっちこっちからアンサンブルに誘われてたな。合宿中、ちゃんと練習できりゃいいんだが」
「……だったら注意してくださいよ」
「アンサンブルも立派な練習だしなぁ。意欲的になってるヤツらの腰をわざわざ折るのも気が引けてな」
「はぁ……」
 ウチの学校の教師はみんなズボラなのか?、といらぬ心配をしつつ。
 渡辺は身体の前で腕を組み、難しい顔をして瞑目する。
「まあ、日野のことが心配なのもわかるが、一時の激情に身を任せるようなことだけは慎めよ」
「は? それはどういう……」
 香穂子に言い寄る男子生徒を腕力で牽制するな、という意味だろうか?
「土浦、お前さんももちろん学院の有望株だが、日野は理事たちも一目置く超有望株だ。若い身空で子育てに明け暮れる、なんてことにならんようにな」
「なっ !?」
 そっちかよっ!
 思わず沸騰した顔を片手で半分覆い、がはは、と馬鹿笑いをする渡辺から視線を逸らす。
「ま、ほどほどにな〜」
 ── ったく、このおっさんは……
 ひらひらと手を振ってラウンジを出て行くセクハラ教師の背中を睨みつけ、彼を罵倒する言葉を心の中で吐き続ける梁太郎であった。

*  *  *  *  *

 2時間ほどの個人練習の後、この建物の中で最も広い部屋『大会議室』での全体練習が始まる。
 企業の持ち物であるこの建物には、他に小会議室もある。そこは夜の自由時間に勉強する部員のための『学習室』に当てられていた。
 学校から運んできた指揮台を中心に弧を描くように並べられたたくさんの椅子。
 指揮台の後ろにはもちろんピアノがある。
 ついさっき、梁太郎が数人の男子生徒と一緒にラウンジから運んできたアップライトピアノである。 普通ならグランドピアノがでんと鎮座しているはずの場所にアップライトが置かれると、あまりにちんまりしていてどうにも様にならない。滑稽ですらあった。
 開始時間が近づき、ホールには直前まで思い思いの場所で練習していた部員たちが楽器とケースを抱えてぞろぞろと集まってきていた。
 ヴァイオリニストたちの席側にある出入口を何気なく振り返ると、そこに一際賑やかな一団が入ってきた。パート練習でもしていたのか、第1ヴァイオリンの面々である。 男子と女子が半々、その中に香穂子もいた。
 目が合うと香穂子がふわりと笑った。その笑顔に笑みを返そうとしたのだが、ふとさっきの渡辺の言葉が頭を過ぎって、急に気恥ずかしさがこみ上げてきた。
 顔がカッと熱くなり、視線が泳ぐ。口元は笑みの代わりに歪んで強張った。
 と、訝しげに眉を寄せた香穂子がつかつかとピアノの傍に寄ってきて、持っていたケースを床に降ろすとその手を梁太郎の額にぺたりと当てた。
「風邪でもひいた? 顔、赤いよ?」
「なっ、なんでもねぇよ」
 冷房の効いた場所にいたのか、ひんやりと冷たい香穂子の手をやんわりと払いのけ、椅子に座り直してピアノに向かう。艶のあるピアノの表面に、心配そうな顔の香穂子の姿が映っていた。
「そう…? ……無理しちゃだめだよ?」
「……ああ」
 黒い鏡面に映る彼女の姿を目で追う。心配させた上に、不器用な言い方しかできない自分に無性に腹が立った。
 本当に風邪ならどんなにいいか。『夏風邪は馬鹿がひく』って言うしな。
 俺ってほんと馬鹿だな、と心の中で自分を罵って。
 まるでドラマによくあるシーンのようなふたりのやり取りを集まっていた部員たちが羨望の眼差しで見つめていたのを、彼らは気づいてはいなかった。

「チューニング始めまーす!」
 部長の鶴の一声に、ざわめいていた人の声が一瞬にして消えた。
「土浦ぁ、Aの音出して」
「おう」
 右手の人差し指で鍵盤をひとつ押さえる。ぽーん、と響いた音に、まずはオーボエが音を寄り添わせ、それからそれぞれの楽器が音を鳴らし始めた。
 そこに総譜とタクトを抱えた渡辺が入ってきた。指揮台に上がり、譜面台の上に総譜を乗せるのを合図に、響いていた音が収束して消えた。
「起立! ── 礼!」
『よろしくお願いします!』
 ザッと一斉に立ち上がり、一礼する。元気のいい声が会議室に響いた。
 意外にも体育会系なノリに、今回が全体練習初参加になる梁太郎と香穂子も慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「はい、お願いされました。集中して実りある練習にしましょう」
 渡辺のおちゃめな返答にふたりだけは思わず吹き出しそうになってしまうが、オケ部員にとってはこれがいつものことなのだろう、特に目立った反応はなかった。
「じゃあ、早速『ラプソディー・イン・ブルー』、始めるぞ」
 タクトが上がり小さく動き始めると、聞こえてくるのはクラリネットの柔らかなトリル。
 吹いているのは香穂子の妹分とも言える冬海笙子である。少しあっさりめではあるが滑らかで美しいグリッサンド。引っ込み思案な彼女にしては堂々とした演奏だった。
 ミュートをつけたトランペットのソロの後にピアノが加わる。
 最初の盛り上がりの後、しばらくの間はピアノの独壇場だ。叙情感たっぷりの梁太郎のピアノに、部員たちは小さな溜息を漏らした。 こんなに近くで彼の音を聞いたのが初めてだったせいだろう。 ニコニコして見守っているのは、彼の音を聞き慣れている香穂子と、トランペットの席にちゃっかり混じっている火原くらいのものだ。
 曲も後半に入り、壮大なAndantino moderatoでピアノが一段落して、梁太郎はほっと息を吐く。
 そして再びピアノが加わる直前のヴァイオリンのソロにドキリとした。
 切なくて胸を締め付けられるような高音の弦の響き。
 この音、この歌わせ方は──
 梁太郎は思わずヴァイオリンの席を振り返っていた。
 普通ならコンマスが弾くこのソロを、コンマスの隣の隣の席── 第1ヴァイオリンの最前列、客席側から3番目の席に腰を下ろした香穂子が奏でていた。
 梁太郎も香穂子も、いわば招待選手のようなもの。ピアノに比べればごく短い見せ場ではあるが、コンマスは彼女にそれを譲ったのだろう。
 たったそれだけのことなのになぜか嬉しくなって、梁太郎は口元に笑みを浮かべ、次の出番に備えて鍵盤に意識を戻した。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 『後半のCon moto』について。
 えー某の○めで言うと、最終話の大川ハグ辺りで流れてた部分(Andantino moderato)の
 少し後、同じメロディのピアノソロの部分です。
 なんとなくバーなんかのBGMっぽくありません?
 えと、すんません、なんかお下品なネタ使っちゃいまして(汗)
 もしかしたら、悠那ちゃん欲求不満なのかもしれません(笑)
 そのくせ、後半はやたら真面目っすね…。

【2008/04/25 up】