■夏の思ひ出【1日目 1:バスの中で】
8時半。
星奏学院の正門前には大荷物を抱えたオーケストラ部の部員たちが集まっていた。
これから始まる合宿に、皆それぞれが浮かれているように見える。
その中に梁太郎と香穂子の姿もあった。
ふたりは正式なオケ部員ではない。いわば客演と言ったところか。
部長が点呼を取り、正門前の道路に横付けされたバス2台に分乗する。
打楽器を含め、チェロ以上の大きな楽器は別便のトラックに積まれ、人間より先に既に目的地に向かっている。30分は早く合宿地に着くだろう。
梁太郎は乗り込んだバスの一番後ろの座席の窓際に香穂子を追いやると、その隣に腰を下ろした。
「ふわぁ……」
席に着くなりあくびをして、目に涙を浮かべる香穂子。
「なんだ、眠いのか?」
「えへへ、なんかわくわくしちゃって、昨日の夜あんまり眠れなかったんだ〜」
「ぷっ…遠足前の小学生かよ」
「しょうがないでしょ、楽しみだったのは本当なんだから」
むくれる香穂子の膨らんだ頬を、片手で両側から挟んで潰してやる。
ぷっ、と唇が破裂音を立てて頬がしぼんだ。
「もうっ! 着いたら起こしてよね!」
「わかったって」
香穂子は窓の方へ頭を預け、目を閉じた。
車中のオケ部員はやたらとハイテンションだった。
出発した直後からカラオケで大盛り上がり。
梁太郎は、こんな賑やかな中でよく眠れるもんだ、と隣を見下ろした。
ぐっすり眠ってしまった香穂子は、バスの揺れのせいか、いつの間にか梁太郎の肩に凭れていた。
「── 次は、日野先輩、1曲お願いしますっ!」
司会進行を務めていた2年生のトランペッターの元気な声がスピーカーを通して車中に響く。
文化祭のバンドでヴォーカルを務めた香穂子の歌声に期待する顔が一斉に彼女に注がれた。しかし、当の本人はそんなことにも気づかぬまま、すやすやと夢の中。
「ほわあ……」
誰かが妙な声を上げた。
気がつけば男子部員たちが香穂子の寝顔をうっとりと見つめていたのだ。
くるくるとよく動く大きな瞳も魅力的だが、うっすらと唇を開いた無防備な寝顔もとても愛らしいことを梁太郎はよく知っている。
「わー、日野先輩の寝顔、可愛い〜」
── くそっ、ジロジロ見んなっ!
梁太郎はなんとか香穂子を覚醒させようと懸命に肩を揺する。
「おい、起きろって。1曲歌えだとよ」
「んー……」
香穂子は口をむにゃむにゃと動かして、またすぅーっと眠りに落ちる。
こうなったら── 梁太郎は彼女が凭れているのと反対側の手で、彼女の額をぺちりと叩いた。
「おら、起きろっ」
「んーーーーっ」
叩かれた額は痛かったけれど目覚めるには至らなかったのか、顔をしかめた香穂子は梁太郎の腕と座席の背凭れの間にグリグリと顔を埋め、また動かなくなった。
この状態なら、前の座席から覗き込んでいる部員たちに香穂子の寝顔は見えないだろう。
── 一応、寝顔隠し成功、か?
「あー、悪い、こいつ今日寝不足なんだ。このまま寝かしといてやってくれるか?」
「「「え……」」」
数人の声がハモった。
何をどう勘違いしたのか、部員たちはぽっと顔を赤く染め、それなら仕方ないですね、としどろもどろになって香穂子の歌を諦めた。
「………なんだ?」
気を取り直して次に指名された部員の歌が始まった。
音楽科の生徒にしては少々音程の外れた歌を聞きながら、相変わらず眠り続ける香穂子を見下ろし、梁太郎は首をかしげることしかできなかった。
【プチあとがき】
香穂子さんの寝不足は土浦さんが原因だと思われたようで(笑)
たぶん、土浦さんが『寝不足らしい』と推測の形で言ってたら、
こんなことにはならなかったかと(笑)
まあ、そんなお年頃ですから(笑)
こんなゆるーい雰囲気で次も続きます、たぶん。
【2008/04/22 up】