■夏の思ひ出【Prologue】 土浦

 夏休みも間近に迫ったある日の放課後。
 星奏学院音楽科3年B組の土浦梁太郎は、隣のクラスの日野香穂子を誘って練習室へ向かおうと教室を出たところで、A組の入口に群がる人だかりに何事かと息を飲んだ。
「── そういうことですので、ご検討を!」
「ぜひともお願いしますっ!」
「いいお返事、期待してまっす!」
 やたら元気な音楽科生徒はタイの色からして1年と2年。10人ほどの男子の中に女子も何人か混じっている。
 わらわらと彼らがはけた後には、数枚の紙を綴じたものを手にして呆然としている香穂子の姿があった。
「……なんだ、今の?」
 梁太郎の姿に気づいた香穂子は、はふぅ、と溜息を吐き、手元の紙の束を差し出した。
「んと、今の、オケ部の子たちなんだけどね」
 紙を受け取り、表紙に視線を落とす梁太郎。
「……『星奏学院オーケストラ部・夏季合宿のしおり』…?」

*  *  *  *  *

 練習室へ向かいながらの香穂子の話によると、彼らは香穂子をオケ部へ勧誘しに来たらしい。
 秋の定期演奏会でコンミスを務めてほしいこと、それに向けて一致団結すべく夏季合宿に参加してほしいこと。
 もし参加するにしても、コンミスを請ける気はさらさらない。 これまでずっとオケ部で活動してきたヴァイオリニストはたくさんいるのだし、その人たちを差し置いてコンミスの席に座るなんてできない。
 香穂子がそう言うと、彼らは1ヴァイオリニストとしてでいいから参加してほしいと食い下がった。
 オケ部の中には、香穂子がコンミスを務めた春の音楽祭のオーケストラに参加していたものが数人いる。 その時の演奏に感動した彼らが事あるごとに『あのオケはよかったよね〜』と話しているうちに、『日野香穂子がコンミスを務めるオケを再び!』と盛り上がっていったらしい。
 それはあっという間に周りを巻き込み、特に男子を中心に『日野さん(先輩)と同じステージで演奏したい!』『日野さん(先輩)とお近づきになりたい!』、 果ては『日野さん(先輩)とひと夏の思い出を!』と発展していったのだ。
 まあ、その辺りのことに関しては香穂子には伏せられているのだが。
 ともかく、彼女は定演に向けてオケ部に加わってくれと勧誘されたのである。
 到着した練習室のピアノ椅子に座り、梁太郎は深い溜息を吐きながらパラリとプリントをめくってみる。
 合宿の意義をまとめた部長の言葉に持っていく物の一覧。
 次のページには合宿地の地図と施設案内。合宿地はある避暑地にある某企業の保養施設らしく、設備は充実しているようだ。屋外コートや屋内プール、フィットネスジムもある。
 部屋割りの一覧表を見ると、1室につき2人の名前。2人部屋、ということか。
 そして、さらに1枚紙をめくると表れたのが──
  日程表
「なんだ、これ……練習時間もそこそこあるが、やたら自由時間が多いんだな」
「わぁ、肝試しとか花火大会とかやるんだ〜」
 同じ椅子に座り、顔を寄せ合って同じ紙を覗き込んでいる香穂子にちらりと目をやれば、その顔には『おもしろそう!』と書いてあるように見えた。
 まあわからなくもないが、と小さな溜息を吐く。
 合宿というものは、ただいつもより長い時間練習ができて技量の向上につながるから、ということだけではなく、寝食を共にしてお互いを深く知り、 チームワークを築き上げるという意味合いが強い。梁太郎が以前所属していたサッカー部がそうであったように、オーケストラもまたチームプレイを要求されるのだから、 コミュニケーションを図るための自由時間が多くとられていても不思議はない。
 しかし。
「……お前、自分から巻き込まれに行くなよ? 俺たちのこの夏休みは正念場だってこと、忘れるな」
「むぅ」
 香穂子は少々不満げに唇を尖らせるが、梁太郎の意見が正論だとわかっているので、それ以上何も言わなかった。 3年生になると同時に音楽科に編入した彼らにとって、勉強する時間はいくらあっても足りない状況なのだ。彼女自身、日々の授業や試験の時にそれを痛感している。
 これからやってくる大学受験のことも考えれば、今になってこれまで関わりのなかったオケ部に足を突っこんで自分の負担を増やすなど、愚の骨頂としか言いようがない。

 コンコン、とノックの音。
「あっ、いたいた!」
 返事も待たずガチャリと扉が開いて元気いっぱいに飛び込んできたのは、OBの火原和樹。春に卒業し、音楽教師を目指して付属大学に通うトランペッターである。 同じ学内コンクール仲間であり、度重なるコンサートでも共に演奏した馴染みの深い人物。
「どうしたんすか、火原先輩?」
「あ、えーと、日野ちゃんのとこにオケ部の子が来なかった?」
「あはは……ついさっき」
 苦笑気味に答える香穂子の横で、梁太郎が『合宿のしおり』をぴらぴらと振って見せる。
「うわっ、ごめんっ!」
 火原は下げた頭の上でぱちんと両手を合わせた。
 身体を起こして、はぁ、と溜息を吐くと、
「ほんとごめんね〜、強引だったでしょ? おれ、『日野ちゃんはこの1年で3年分の勉強しなきゃいけないんだから誘っちゃだめだよ』って止めたんだけど、なんかみんな盛り上がっちゃってて。 でもね、みんな日野ちゃんとオケやりたい一心なだけで、悪気はないんだ。だから許してやって?」
「やだ、火原先輩がそんな気にしないでくださいよ〜」
「うう、ありがと日野ちゃん」
 でもね、と火原は続ける。
「日野ちゃんとオケやりたいっていうみんなの気持ち、おれもわかるんだ。おれも日野ちゃんとアンサンブルは何曲かやったけど、オケってやってないじゃん?  春の音楽祭の時のオケにも入れなかったし、なんていうか、物足りないっていうか……おれ、OBだから次の定演には出られないけど、練習は一緒にできるし」
「火原先輩?」
 ぶつぶつとひとりしゃべっていた火原は梁太郎の怪訝な呼びかけに応えることなく、何か結論に達したらしく顔を輝かせて、ポン、と手を叩いた。
「そうだ! 土浦も一緒に行こうよ!」
「…は? どこへですか」
「合宿にきまってんじゃん! オケってすごく楽しいんだ! おれさ、柚木とか月森くんとか志水くんとか加地くんとかもみんな一緒にオケやりたいってずっと思ってて!  土浦もやってみたいって思わないっ?」
「……俺、ピアノっすけど」
「ピアノコンチェルトやればいいじゃん! 弦とか管のコンチェルトって部内でもできるけどさ、ピアコンってなかなかできないんだよね〜。そこそこピアノ弾ける人はいるけど、 さすがにソリストまでできる人っていなくてさ。土浦ならバッチシ問題なし!」
 なんでもう参加が決まったような言い方をするんだ、と辟易しつつちらりと香穂子を見れば、胸元で両手を組み、キラキラと期待に目を輝かせて梁太郎をじっと見つめていた。
「うっ……ちょ、ちょっと待ってください!」
「そうだ! ピアコンが堅苦しいって思うなら『ラプソディー・イン・ブルー』なんてどう?  人気ある曲だし、アンサンブルもよかったけど、オケでパーッと派手にやってみたいと思わないっ?」
 香穂子が『乙女の祈り』的なポーズのまま、こくこくと頷いている。
「おい……いつからお前は『そっち側』の人間になったんだ?」
「だって、ラプソディーのピアノかっこいいし── 合宿って楽しそうだし♥」
 はぁぁぁぁぁっ…。
 深い溜息は白旗の代わり。
 どう見ても参加する気満々な香穂子をひとりで行かせて悶々としているより、 自分も一緒に巻き込まれて妙な気を起こして彼女に近づこうとする野郎どもを蹴散らしていたほうがよっぽど精神衛生上よさそうだ。 指揮者を目指す自分にもいい経験になるだろうし──
 そう判断して、降参の印にちょっと肩をすくめて顔の横で両手を上げる。
 やったぁ!と声をハモらせた香穂子と火原が嬉しそうに両手でハイタッチ。
 中途半端に上げた梁太郎の手にもふたりから続けてハイタッチが贈られ、結局香穂子と共にオケ部の夏合宿および秋の定演に参加することが決定してしまったのである。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 あははー、またも懲りずに始めてしまいましたぁ(笑)
 今回のお話は、特に大きな事件も起こらず、のんびりとほのぼのした感じで、
 数年後に『ああ、そんなこともあったっけ。あの時は楽しかったよね』なんて
 思い出話になるような出来事を綴っていきたいと思ってます。
 オケ部合宿は、火原をメインに書いてた頃に書きたいと思ってたネタですが、
 内容は全然違います。土浦と火原とじゃ香穂子に対するスタンスも違うし。
 まあ、漫画によくあるぽやーんとしたラブコメだと思っていただければ(笑)

【2008/04/20 up】