■Confidential Message【19】
【Side R】
学院から香穂の家までのさして長くもない距離を全力疾走した。
部活をやってる頃なら何と言うこともないこの距離が、サッカーを辞めてしばらく経つ俺にはさすがに少々キツく感じられていた。
昼サッカー、昼バスケ程度じゃ体力の維持は無理だったか、と歯噛みする。
辿り着いた香穂の家の前で、膝に手をつき息を整える。
こめかみがドクンドクンと大きく脈打っている。その上を汗がすぅっと流れ落ちていった。
香穂が入院している病院なんて知らないから、とりあえず家に来てみたが……次の行動を起こすのが怖かった。出てきた家族に『今は面会謝絶だ』とか言われでもしたら……
いや、それどころか無言で泣き崩れでもされたらどうすればいいのだろうか── 思考は最悪の状況に向かっていき、早鐘のように打つ心臓はいつまで経ってもおとなしくなってくれなかった。
いつまでもこうしているわけにもいかず、意を決し震える手をチャイムに伸ばしたところで── 思いがけず開いた玄関の扉から姿を現したのは香穂のお袋さんだった。
心臓が痛い気がして、伸ばしかけていた手でジャケットの胸をぐしゃりと掴む。
「── あら、梁太郎くん、いらっしゃい」
……へ?
香穂によく似た面差しに笑顔を浮かべ、普段と変わらぬのんびりとした声。
……娘が入院してるってのに、のん気すぎないか…?
「こ、こんにちは。あの……」
「どうぞどうぞ、上がって上がって〜」
招き入れられるまま玄関に入ると、香穂のお袋さんは俺と入れ替わるように外へ出て行く。
「えっ、あ、あのっ!」
「あの子、病院から帰ってからずっとリビングでゴロゴロしてるから、少し話し相手してやってくれるかしら?」
……なんだ、退院してたのか。たいしたことなかったんだろう、お袋さんが明るいのも頷けた。
ほっとして、吐いた息と同時に身体からも力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
「…はぁ」
お留守番よろしくね、と笑顔を残し、玄関の扉が閉まる。ガチャリとカギがかけられた。
…………って、ちょっと待てっ!
病み上がりの娘ひとりの家に、俺を入れていいのかっ !?
……まあ、信用されてるって考えりゃ、それはそれでありがたいことかもしれないが。
外からカギをかけられちまったから、このまま帰るわけにもいかないし。
……しょうがねぇ、ここは覚悟を決めるか。
「……香穂?」
奥に向かって声をかける。
リビングは玄関を上がってすぐの部屋だが…、聞こえないのか?
「香穂!」
返事はない。耳を澄ませば、話し声── いや、あれはテレビの音か。
「……お邪魔します」
一応ひと言断ってから、靴を脱いで上がりこんだ。
「香穂?」
リビングに入ると、部屋の奥に置かれたテレビがつけっぱなしになっていた。
人影は、な── いや、あった。3人掛けのソファの上、暖かそうなオレンジ色の毛布にすっぽりと包まって眠っている香穂。
寝顔なんてそうそう見られるものじゃない── 俺の目は吸い寄せられるように香穂の寝顔に釘付けになっていた。
しかし、香穂の寝顔は安らかとは言えないものだった。
辛そうに眉を寄せ、熱でもあるのか頬が少し赤い。呼吸が浅く早いのが、毛布を被った身体の動きで見て取れた。
俺はゆっくりとソファに近づき、その前に跪く。
CM撮影なんて慣れないことをして、たまっていた疲れが出たんだろうか。
ふと、昨日のことを思い出せば、胸に感じるのは刺されるような痛みとやり場のない怒り。
だが、辛そうな香穂を見るのは、俺としても辛かった。
俺は伸ばした手で香穂の頬にそっと触れた。柔らかな頬は、やはり熱い。
「………ん…」
香穂は小さく身じろぎして、すぅっと息を吸い込んだ。ゆっくりと瞼が開き……俺の顔に焦点が合った途端、大きな目をぱっちりと開けて、がばっと跳ね起き、
「ぅわっ、りょ、梁っ !? ななななんでここにっ !?」
パニックになった香穂は大慌てで乱れた髪に手櫛を入れている。
なんだ、結構元気そうじゃないか── っておい……パ、パジャマかよっ !?
見てはいけないものを見てしまったような気恥ずかしさに、今度は俺が大慌てで香穂から目を逸らす。
「お…お前が入院したって聞いたから……様子見に来たんだよ」
「え…あ…、し、心配かけてごめんねっ。も、もう大丈夫だからっ── わ、私、お茶淹れてくるねっ!」
バサッと毛布をはぐる音がして、香穂が立ち上がる気配。
「── 松葉杖、松葉杖っと」
ずずっ、と何かを引きずる音の後に聞こえて来た小さな呟きにギョッとして、思わず振り返った。
ちょうど、紺地にテディベア柄のパジャマ姿の香穂が、松葉杖に縋りつくようにして立ち上がろうとしているところだった。
「おいっ! その足、どうしたっ !?」
上げたままの香穂の右足は、踝(くるぶし)を中心に包帯でグルグル巻きにされていた。
思わず駆け寄り、ふらふらする身体を後ろから支えてやる。
「えーっと……捻挫…」
へへ、とバツの悪そうな笑みを浮かべる香穂。
「お茶なんていいから座ってろ!」
「……ごめん」
両腕を掴んでゆっくりと腰を下ろさせ、松葉杖を手から取り上げて床に転がした。
「昨日……何があったんだ? 話せよ」
香穂の隣に座り、背凭れに投げ出されていた毛布を膝にかけてやりながら訊くと、香穂はゆっくりと話し始めた。
と言っても話はごく簡単で、撮影終了と同時に意識を失って倒れ、病院で気づいた時には足を痛めていた。一晩病院で過ごし、今日になって検査をしてから家に戻った、と。
なんにせよ、交通事故とか妙な病気なんかじゃなくてよかった。
「── しかし、そこそこ体力あるお前にしちゃ珍しいな、倒れるなんて。まさか、空腹のあまり……とかいうオチじゃないだろうな?」
「う゛……貧血って言われたけど、なきにしもあらず、かも……お昼あんまり食べられなかったし」
「マジかよ……」
「そ、それだけじゃないってば……たぶん、酔ったんだと思う。乗ってた台が少しグラグラしてたから」
「…台?」
「そう、10センチくらいの台に乗ってたの。だから倒れた時に足を挫いたんだと思うんだけど」
「そんなもん、何のために?」
「……身長合わせ」
「……誰と…?」
「え……えと、それは……」
香穂の目が泳いだ。
── まるで誘導尋問だな。
意図して話を振ったわけじゃないが、どうやら俺がはっきりさせたいと思っていた話題へと話が進んでいる。
香穂は俯いて、膝の上の毛布を両手でぎゅっと握り締めていた。
見るからに『隠し事してます』という態度に、かっと頭に血が上った。
「あ、あのね、実は──」
「俺に内緒にしてまでキスシーンがやりたかったのか?」
何か話そうとしていた香穂を遮って発した自分の声が低く、冷たく、耳に響く。
ばっと振り仰いだ香穂の顔には驚愕が張り付いていた。唇が小さく震えている。
「梁……知って…… !?」
「よかったか? 有名芸能人とのキスは。隠し事までして臨んだんだ、満足しただろ」
「ちっ、ちが…っ!」
「こそこそ会って、電話して── すっかり恋人気分か?」
確かに頭には来ているが、こんな言い方で責めるつもりはなかったはずだ。
なのに、口からは皮肉のこもった言葉が溢れ出した。
今にも泣き出しそうな顔の香穂は震える両手で口元を押さえ、小さく横に首を振り続けている。
違うんだ、そうじゃなくて── 。
「俺が邪魔になったんなら、はっきりそう言ってくれてかまわないぜ」
頭では止めたいと思っているのに、口は勝手に動いて、尖った言葉を吐き続ける。
俺は今の状況がいたたまれなくなって、ソファから立ち上がり玄関へ向かった。
「…じゃあな」
「待って梁! 違うの! 待っ── はぅっ!」
苦鳴とほぼ同時に聞こえた、どさっと床に何かが落ちる音。
振り返れば、床に倒れこんでいる香穂。俺を追いかけようとして立ち上がったものの、痛めた足では身体を支えることができずに倒れてしまったのだ。
「お、おいっ、大丈夫かっ !?」
「……う、うん」
身体を起こそうとする香穂に駆け寄り、手を貸して、ふたりして膝立ちのまま向かい合う。
と、香穂の手がすっと俺の胸元に伸び、まるで柔道でもするかのようにブレザーの襟を掴み、ぐいっと引き寄せられた。
「うおっ…!」
あと3センチも近づけば鼻の頭がくっつくほどの距離。
近すぎてぼやけて見える香穂の目から、すぅっと涙が一筋流れ落ちた。
「……このくらいまで近づいたのは認める。でも、キスはしてない……梁以外の人とキスしたいなんて、思うわけないじゃない……」
「え……」
「だから、『キスシーン』じゃなくて、『キス一歩手前シーン』だったんだってば!」
* * * * *
【Side K】
ついにこの時が来た── 事実を知った梁太郎は、やはりこれ以上ないほどに怒っていた。
梁太郎は私を支えてソファに座らせると、隣に腰を下ろして身体の前で腕を組む。その横顔は苦かった。
私はぐちゃぐちゃの頭を精一杯整理して、言葉を探す。
その間の沈黙が、胸に痛い。
「あのね……」
それから私は、昨日までの経緯を話した。
『そういうシーン』があると知ったのは、食事会の後に貰った絵コンテだったこと。
引き受けた以上断れないから、駄々こねてでもカットしてもらおうと思っていたこと。
本当にキスするわけじゃないと聞いて、少し安心したこと。
梁太郎に話さなければいけないと思っていたけれど、機嫌を損ねそうで言い出せなかったこと──。
「……損ねて当然だろ……誰が好きな女と他の男が接近していてニコニコしてられるかよ」
顔をそむけた梁太郎が吐き捨てるようにボソッと呟いた言葉が、なんだか嬉しい。こんな状況の時に不謹慎だけど。
どういう形であれ、話さなきゃと思っていたことを吐き出したことですっきりしたというか、心の中に余裕ができたのかもしれない。
残るのは、申し訳なかったという気持ち。
「……ごめんなさい」
「……あんなヤツと楽しそうにしゃべってるし」
「え…?」
ふてくされた子どもみたいに、ブツブツ呟いて── 怒ってるっていうより……拗ねてる…?
「……あー……悪い、立ち聞きするつもりじゃなかったんだが……昨日、スタジオの廊下でお前と星野 瞬が話してるのを聞いちまったんだ」
「あ、そうなんだ」
どこから梁太郎の耳に入ったのかと思っていたけど、なるほど、あの会話を聞いてたんならしょうがないよね、うん。
ひとり納得していると、ふいに視線を感じて隣を見る。
と、梁太郎が驚いたような顔をして私を見つめていた。
あれ? 私、何か変なこと言ったっけ?
そういえばさっき、『こそこそ会って、電話して── 恋人気分か?』って言ってた……ま、まさか !?
「ちょ、ちょっと待って、なんか誤解してない !? 私と星野くんの間に何かあったとか !?」
あぁ、梁太郎が疑わしそうな目で私を見てるっ!
「こそこそなんてしてないし、疚(やま)しいことなんて何もない! それにたった4回しか会ってないもの。
1回目は顔合わせの時に挨拶しただけ。
2回目は森の広場で散々からかわれて、悔しさのあまり梁に抱きついて紛らわせたけど。
3回目は体育が終わって体育館から出たら待ち伏せされてて、無理矢理連れて行かれて、臨海公園で延々と愚痴聞かされて……あ、ジュースおごってもらった。
で、昨日の撮影が4回目。
電話は何度かかかってきたけど、別に用があったわけでもないし……意味不明なんだよね。
もちろん私からはかけてない! 履歴見てくれれば── って、あぁっ! 携帯、松下さんの車だった!」
── やだ、言えば言うほど嘘っぽく聞こえてくるのはなぜ !? 事実なのに!
思わず抱えた頭に、ぽすんと大きな手が乗せられた。
「…………信じるよ」
「え……」
ゆっくりと顔を上げると、視界に入った梁太郎の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「だが、これからはできるだけ先に話してくれよ。後から知ってイラつくのは嫌だからな」
「…うん」
よかった、わかってくれたみたい。今回の件は、しっかりと肝に銘じておきます!
「……明日、学校は?」
「うん、もちろん行くよ」
「じゃあ、俺、明日からしばらく自転車で来るから、乗せてやるよ」
「ほんと !? 助かる!」
くしゃりと髪を撫でた梁太郎の手が、すっと頭の後ろに移動した。
梁太郎の顔が近づいてきて、私は思わず目を閉じる。
私の唇に降って来たキスは、熱のある私にはちょっと冷たかったけど、とても優しかった。
少し顔を離して、梁太郎は私の目を覗き込みながら呟いた。
「── 俺以外とは、キスしたくないんだよな?」
「── うん」
ニヤリと笑う梁太郎に、私はとびっきりの笑みを返す。
そして、もう一度唇が触れ合った後、私は彼の胸に抱き寄せられた。
【プチあとがき】
ぎゃはあっ! ラストは書いてて恥ずかしかった!(笑)
この程度で、なんてのたまうなかれ。
あたしにゃこれが精一杯の糖分投入ざんす。
香穂子さんの言い訳炸裂。
いろんなところで展開ミスしてて、今回の話をまとめるのがちと辛かった。
全然文章が浮かんでこねぇ……ムリヤリ感たっぷりですな。
なんだか『土浦梁太郎』というキャラがわかんなくなりつつあります(泣)
暇を見て、ゲームをおさらいしなきゃ。
【2008/02/22 up】