■Confidential Message【18】 土浦

【Side R】
 今朝はふたりで歩いた道を、帰りはひとりで戻る── 混乱ととまどいと、怒りを胸に抱きながら。
 ── なんだったんだ、あの会話は…。

 スタジオの裏手は迷路のように入り組んでいて、なかなか目的の場所に辿り着けなかった。
 同じようなドアがいくつも並んでいて、どこが香穂のいる控え室なのか見当もつかない。
 そんなに広い建物でもないはずなのに、まるで俺が香穂に会うのを阻止しようと見えざる力が働いているようで、無性に苛立った。
 しばらくして廊下の角に差し掛かった時、俺の目に飛び込んで来た鮮やかな赤。
 ── やっと見つけた。
 辛そうな顔をしてドアに凭れている香穂だった。
 どうした? 何かあったのか?
「か──」
 名前を呼ぼうとして、声を飲み込んだ。
 手前のドアが開いて、香穂の姿を隠してしまったのだ。
「あ……」
「おっ♪ 日野香穂子!」
 軽薄そうな男の声。
 ……フルネーム呼びかよ。どこぞの羽つきじゃあるまいし。
 ドアが閉まり、ワインレッドのタキシードを着た男の姿が現れる。
 男は香穂の前を通り過ぎ、奥にある自販機に向かっていった。
 そして、自販機からカップを取り出した男がこちらに── 正確には香穂の方に── 向く。
 その瞬間、俺は咄嗟に身を隠していた。
 あいつは── 星野 瞬 !?
 どうして今まで気がつかなかったのか── テレビをつければ1日1回は必ずお目にかかるような、芸能界なんて興味のない俺でも知ってるほどの有名人だってのに。
 深くかぶったキャップの下から練習室を覗き込んだ顔、古臭いスーツを着て講堂に現れた顔、そしてタキシードに身を包んだ男の顔が一瞬にして重なった。
 立ち聞きなんて俺の趣味じゃないが、ふたりの会話に思わず聞き耳を立ててしまう。
 結果、今までバラバラの点だと思っていたものが一本の線で結ばれていった。
 ── ストーカーなんて存在していなかったのだ。
 それに、映像の方にも共演者がいるなんて、俺は一言も聞いてない。
 練習室で香穂がいきなり抱きついてくる前も、ジャージのまま姿を消した時も、ふたりは会っていたらしい。 着メロの『魔法使いの弟子』── 電話でのやり取りをしていたことも俺は知らなかった。
 そっと角から様子を窺った時、顔を寄せて小声で話しかけられて、顔を赤く染める香穂。
 一体何がどうなってるっていうんだ !?
 ── そして、飛び出した『キスシーン』という言葉に、俺は完全に言葉を失った。

 翌朝、俺はいつもより少し早めに家を出て、香穂の家の前を通らないルートで学校に向かう。
 こんな気持ちを抱えたまま、香穂を迎えになんて行けるものか。
 家を出る前に『悪い、先に学校に行く』と短いメールを送ってある。
 『何かあったの?』と答えが返ってきたら何と言おうかと考えながら歩いていたが、結局、電話もメールも返ってこないまま学校に着いてしまった。
 言い訳をせずに済んでほっとした反面、気にもされないのかと泣きそうになっている自分が可笑しかった。
 授業中、見ている黒板の向こう、壁1枚隔てた隣の教室がこれほど遠かったのかとつくづく感じた── 放課後になるまで一度も香穂と顔を合わせなかったのだ。
 結局、俺はどうしたいんだろう。
 もちろん、こんなモヤモヤしたままは嫌だ。
 香穂を問い詰める? それとも香穂が話を切り出してくるのを待つ?
 これから練習室で嫌でも顔を合わせるだろう。その時の香穂の態度を見て判断するか。
 そう決めて教室を出る。
「や! 土浦くんっ!」
 くそっ、こんな時にっ!
「どうしたの? んな怖い顔しちゃって〜」
 『怖い顔』と言いながら怖がりもせず俺の顔を覗き込んでくる天羽。
 逸らした目を向けたA組の教室は、まだ扉が閉まっている。微かに聞こえてくる担任の声。
「……うるせぇ、元々こういう顔なんだからしょうがねぇだろ」
「あはは、ごめんごめん。それよりさ、例の話なんだけど」
「…例の話?」
「香穂のストーカーに決まってんじゃん」
 さすがに大声で話せる内容ではないと思ったのか、天羽の声のトーンが低くなった。
「……ああ」
「どうやらそのストーカー、アイドルの星野 瞬そっくりのイケメンらしいんだよね」
 ……ストーカーなんていやしないし、『そっくり』じゃなくて本人なんだよ!
 ぶちまけたらどんなに楽だろう、と思いながらも俺は口を閉ざす。
「それから、香穂とストーカー、面識があるみたいでさ。ちょっと言いにくいんだけど……」
 珍しく天羽が言葉を濁す── 言いたいことは容易に想像できた。
「……お前と森がコソコソ逃げた時のことだろ…?」
「えっ、土浦くん知ってたの !?」
 張り上げた声に自分で驚いたのか、天羽は口を押さえてキョロキョロと辺りを見回す。
「……なぁんだ、土浦くんには報告済みかぁ。私、てっきり香穂が浮気してるのかと思ってヒヤヒヤしてたよ。そんなわけないのにねぇ、あははっ」
 そんなわけない、か……そう断言できたらどんなにいいか。
 第一、俺は香穂から報告なんて受けてないんだぜ? 『浮気』どころか、俺から離れた気持ちはあっちに傾いているのかもしれないんだ──
「── 天羽、用事はそれだけなら、俺は行くぜ」
 踵を返すと同時にガラガラとA組の扉が開き、ガヤガヤと生徒たちが出てくる。
「あ、天羽ちゃん、今日も取材? あっ、土浦くん!」
 名前を呼ばれ、足を止める。パタパタと駆け寄ってきたのは森だった。
「日野ちゃんの具合、どう?」
 同じクラスのお前が知らないことを、違うクラスの俺が知ってるとでも? ……って、具合 !?
「具合、って……香穂、今日お休み?」
 俺の疑問を代弁するかのように、天羽が森に問いかけた。
「うん、昨日の夜、入院したらしいのよ。お見舞いに行こうと思うんだけど、どこの病院か知らないし、土浦くんに聞いたらわかるかなって── つ、土浦くんっ !?」
 その時、俺はすでに廊下を全速力で駆け抜けていた。

*  *  *  *  *

【Side K】
 ゆっくりと目を開けると、見慣れたリビングの天井が見えた。
 少し身じろぎすると、ソファの肘掛けを枕にして寝ちゃってたせいか、首が痛かった。
 つけっ放しのテレビには、日頃見ることのない夕方の情報番組が流れている。
 そう、私は今、パジャマ姿で自宅のリビングのソファの上にいるのである。
 …………はぁ。
 あーもうっ、これを『大失態』と言わずして何と呼べばいいのやらっ!
 昨日の午後のこと。
 松下さんから梁太郎が帰宅したことを伝え聞いたものの、それは単なる時間稼ぎの応急処置でしかないことを私は十分わかっていた。
 頭の中は梁太郎への『言い訳』を考えることでいっぱいで、撮影に集中できるはずもなく。
 撮影は『星野くんが差し出した手に私が手を乗せるシーン』、『乗せた手を引っ張られるシーン』とこま切れに進められ、そしてラストは問題の『キスシーン』── いや、『キス一歩手前シーン』の撮影となった。
 私は星野くんの胸に手を添え、笑みを浮かべて目を閉じる。後は私の両肩をそっと掴んで顔を近づけてくる星野くん任せ、だったんだけど。
 あ、ほんとにキスなんてしてませんからね! たぶん、5センチ以上は離れたままなんだから……目を瞑ってるからよくわからないけど。
 監督さんから『笑って』『もっと幸せそうに』なんて言われても、心の中に反する表情ができるほど私はオトナでもないし芸達者でもないし。 おまけに、身長合わせのために10センチほどの台に上がらされていて、目を瞑ると台の僅かなガタつきがダイレクトに伝わってくるせいで、だんだん気分が悪くなってきて。
 いちいち下に降りるのが面倒になっていたし、すぐに撮影再開できるようにと台の上に立ったまま監督さんのモニターチェックを待っていた私は、 チェックを終えた監督さんが張り上げた撮影終了の声を聞いた途端、意識を失ってしまったのだ。
 そして次に目が覚めたのは、病院のベッドの上。
 腕に点滴の針が刺さっていて。
 全身がだるくて、右足がズキズキと痛む。
 後で聞いた話だと、倒れた私の身体はまだ近くにいた星野くんが受け止めてくれたらしいんだけど、いかんせん私の足元はピンヒール+10センチの台── 倒れた拍子に右足を挫いてしまった、と。
 大事をとって一晩を病院のベッドで過ごし、念のために検査をして、右足以外に異常なしと診断され、ずっと付き添ってくれていた松下さんに送ってもらったのが今日のお昼前のこと。
 平身低頭の松下さんに、うちのお母さんの方が恐縮しちゃって。
 …一番恐縮してるのは私……あともう少し持ちこたえてれば、みんなに迷惑かけることもなかったのに。
 そんなわけで、数日は松葉杖生活を強いられることになった私は、食事やトイレなんかの度に階段を昇り降りするのが面倒くさいということで、 2階の自分の部屋のベッドではなく、1階のリビングのソファを占領していたのである。

 右足をかばいながら、身体の納まりがいいようにソファの上でごそごそしつつ。
 いつの間にか床に落ちてしまっていたブランケットを引っ張り上げ、身体に被せてもそもそと潜り込む。
 梁太郎、心配してるかな…。
 朝、いつも迎えに来てくれるから、お母さんが学校を休むことは伝えてくれたと思うけど。
 メールを送ろうと思ったら、バッグの中には携帯がなくて。
 昨日の夜、荷物と一緒に病院に運んでくれた松下さんの車の中に落ちていたらしく、夜には届けてくれるとさっき連絡があった。
 梁太郎の携帯に電話しようと思ったけど、去年の秋にアンサンブルをすることになった時に番号交換をして以来、電話するときはメモリ呼び出しするから番号なんて覚えてなくて。
 今は3時過ぎ……6時半くらいには家に帰ってるだろうから、その頃自宅に電話することにした。
 転がっているうちにまたうとうとし始め──
「── 香穂子、ちょっとお買い物に行ってくるわね」
「……ふぁい、行ってらっしゃーい……」
 ぼんやりした頭になんとか届いてきたお母さんの声に返事をして、私は再び眠りに落ちていく。

 ──── あれ?
 ふいに頬にひんやりとしたものが触れる。
 挫いた足のせいで顔まで熱を持っているのか、その冷たさがとっても気持ちいい。
 …お母さん、もう買い物から帰ってきたのかな…?
 すぅっと大きく息を吸って、ゆっくりと目を開けると── 私の頬に手を伸ばしている、今一番会いたくて、今一番会うのが気まずい顔がそこにあった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 おおぅ、急展開 !?
 いいえ、人はこれを『お約束展開』と呼ぶのデス(笑)

【2008/02/16 up】