■Confidential Message【15】
【Side K】
── ついにこの日がやってきてしまった。
私の目の前には、つい2週間ほど前に『ただの見学』で訪れた撮影スタジオがデーンとそびえ立っている。
気を抜けばカクンと崩折れてしまいそうなほどに震える足。
リリにヴァイオリンを押し付けられて、初めてステージに立った時よりも緊張しているかもしれない。
なぜなら、私は今から世の中の誰も彼もが経験するわけではない『CM撮影』という未知の出来事に挑むことになっているから── だけなワケないでしょぉーーーっ!
隣に立つ梁太郎をおずおずと見上げれば、彼は私の視線に気づいたのか、ニッと笑って『入らないのか?』と訊いてくる。
入らない、んじゃなくて、入れないんだってばー!
……だって、結局言えなかったんだもの。
その……だから……き…『キスシーン』があるっていうことをよ!
そりゃあ、本当にするわけじゃないって星野くんが言ってたけど、でも、ある程度のところまでは近づくわけでしょ?
そういう場面を梁太郎に見られたいわけがないじゃない!
撮影を見られてなければ、いくらCMがテレビで流れたとしても『ああ、あれは合成よ』とか誤魔化せたかもしれないのにっ!
だから今日はひとりで来るって言ったのにぃ……。
絶対怒るに決まってるもん……。
でもその反面、そんな場面を見た梁太郎はどんな反応するのかな、とか、『俺の香穂に触るな!』とか言ってキスされそうになる私を攫ってくれるかも、
なんて考えてる私は相当不謹慎かもしれない。
「ほら」
「…え…?」
私の前に差し出された、梁太郎の手。
時に繊細で情熱的な音色を奏で、時に私の頭を優しく撫で、時に私を包むように抱きしめてくれる、梁太郎の大きな手。
今は足元がおぼつかない私を支えるために出されているのはわかっている。
けれど、今はその手を掴んではいけないような気がした。
それは結果的に隠し事をしているという罪悪感と、不謹慎なことを考えてしまったバツの悪さ。
「…だい……じょうぶ…」
それだけ口から搾り出すと、私は手の中にある小さなバッグを両手でぎゅっと握りしめ、必死の思いで足を前に踏み出した。
スタジオの中は、異世界だった。
前に見学に来た時は、可愛らしい部屋がそこにあった。
今は、広いスタジオの一部分だけが赤く切り取られているように見える。
目を凝らしてよく見ると、その『赤』は光沢のある赤い布と真っ赤な薔薇の花で作られていた。
なだらかに波打つ人工的な丘は薔薇で埋め尽くされ、背後の壁はベルベットのような艶のある布が天井からの強いライトに照らされて光っている。
うわぁ……綺麗…。
そういえばチョコのパッケージ、赤かったよね。だから、赤、なのか──。
……って、ま、まさか私があそこに立つの !?
とんでもないことに私は足を突っ込んでしまったのではないのか── 今になって背筋を凍らせているところに、背後からぽんと肩を叩かれた。
「─── っ !?」
「おはよう、香穂子ちゃん。今日もよろしくね」
跳ねるように振り向いた私の前にいたのは、松下さんだった。
はぁー……心臓に悪いよ、もう…。
「よ、よろしく、おねがい、し、ます…」
「あらー、ガチガチに緊張しちゃってるじゃない。ほら、リラックスリラックス!」
ぱんぱんっ、と叩かれる肩が痛いです、松下さんっ。
リラックス、って言われてすぐにリラックスできたら、こんなに苦労しませんってば。
「早速だけど支度してきてね」
ええぇぇぇっ! いきなり撮影っ !?
いや、そのためにここに来てるのはわかってるんだけど……ま、まだ心の準備がぁ!
心の中でじたばたしている間に、私は松下さんが呼んだスタッフさんに控え室に連行されたのだった。
そして1時間ほどが過ぎた後。
私は目の前にいる人物をぼんやりと見つめていた。
ぴったりと身体にフィットした真っ赤なベアトップのワンピース、腿の付け根辺りの位置から幾重にも重ねられたチュールがふわりと膝上までを覆っている。
足元はシンプルで大人っぽいピンヒール。色はもちろん赤。
視線を戻した首元にはドレスと同じ生地のチョーカー、右側に小さな薔薇の造花がちょこんとつけられている。
アップにした髪は丁寧にアイロンでカールされ、動くたびにふわふわと揺れて。
きりりと引かれた眉、ローズピンクの目元、そしてくっきりと赤く彩られた唇。
思わず『どちら様ですか?』と尋ねたくなるような目の前の人物は、同じような怪訝な表情で私を見つめ返していた。
うああああぁぁぁぁっ……。
眩暈を感じた私は、着替えとヘアメイクを済ませた私の姿が映っている姿見の縁をぎゅっと掴んで、倒れることだけは何とか阻止した。
そりゃあ、ドレスは何度か着たけど……肩のストラップがないだけで、こんなにも心許ないなんて。
メイクだって何度かしたけど、こんなくっきりはっきりメイクなんて初めてで、鏡に映るのは別人のようで。
はぁ……。
思わず溜息をこぼすと、後ろからふわりと温かいものに包まれた。
「そのままじゃ寒いでしょ?」
と、さっきここに連れて来てくれたスタッフさんがニッコリ。
肩には大きめの黒いショールがかけられていた。
「じゃ、スタジオに戻りましょうか」
私にとっては死刑宣告にも等しいその一言。
目を瞑り、何度か大きく深呼吸して。
── こうなったら、うじうじ考えててもしょうがない。なるようにしかならないんだから。
私はかき合せたショールを胸元でぎゅっと握り締め、真っ直ぐ前を向いて控え室を出た。
* * * * *
【Side R】
緊張のあまり金属のように身体を硬くした香穂が引きずられるようにして連れて行かれてから1時間。
忙しく動き回っているスタッフの邪魔をしないよう、休憩スペースに陣取ってぼんやりと時間を過ごしていた俺の耳に聞こえて来たざわめき。
やがて姿を現したざわめきの中心に、俺の心臓は痛いほどに高鳴った。
── アレハダレダ…?
ふわふわと頭の上で踊るカールされた髪。
意志の強そうな眉、くっきりと描かれた赤い唇が白い肌に映えて艶やかに光っている。
肩に羽織った真っ黒なショールから見える薄い生地が重なった赤いドレスの裾。
そこから伸びるすんなりとした足の先を飾る真っ赤なハイヒールがゆっくりと動いてこちらに近づいてくる。
それはまるで──。
「まぁ! 香穂子ちゃん、大人っぽーい!」
「あ、あはは……」
すぐ近くにいた松下の大声に、困ったような笑みを浮かべるのは確かに香穂だった。
ふと目が合って、マヌケなことに俺は、よう、と声をかけることしかできなかった。
「変…かな?」
「いや……いいんじゃないか…?」
「なんか…自分が自分じゃないみたいで、落ち着かなくって」
「まあ……よくそこまで化けたよな」
「あ…ひっどーい!」
頬をぷぅっと膨らませ、唇を尖らせるのは、間違いようもなく香穂だ。
ただ、尖らせた唇の赤さが依然俺を困惑させている。
綺麗だ── そう一言言えればいいのに、照れ臭さが勝ってしまって口に出せなかった。
肩にかけたショールを身体に巻きつけ、身体を後ろに捻ってひょいと片方を上げた足元を眺める香穂の動きは何かの踊りの振り付けの一部のような。
やはりその姿は、まるで──
「── カルメン、みたいだと思わない?」
「……え」
……マジでこいつ、人の心を読む能力を持ってるんじゃないだろうな……。
香穂の口から出た言葉は、まさしく俺が考えていたことだった。
「え、じゃなくてー。赤いドレスに薔薇の花、って言えば、カルメンでしょ」
「あ、ああ、まあな……」
俺はテーブルに頬杖をついて、緩んでいるであろう口元を隠すようにして視線を逸らす。
「梁……どうかした? あ、やっぱり似合ってない?」
ひょい、と俺の顔を覗き込んでくる香穂。
わーーーーっ! 覗き込んでくるな!
だから、その、『男を誘惑するカルメン』の匂い立つような色気っていうか……。
── とにかく、直視できねぇんだよっ!
これ以上、俺を誘惑してどーすんだっ !?
悶々としている俺の頭上から、くすくすと笑い声が聞こえて来た。
……っ、しまった、こいつがいた…。
横にいた松下が苦笑しながら横長のトランク── いや、ヴァイオリンケースをテーブルの上にそっと置く。
「これ、撮影用のヴァイオリンね」
今日、香穂はいつも使っているヴァイオリンを持ってきていない。
尋ねると、『楽器は用意してあるから、自分のは持ってこなくていい』と言われていたらしい。
「あ、開けてみていいですか?」
「もちろん♪」
パチン、と金具を外す音がして、ゆっくり蓋を持ち上げると同時に香穂の口から、わぁ、と感嘆の声が漏れた。
ケースの中に納まっていたのは、赤いヴァイオリンだった。
鮮やかな赤、ではなく、濃い紅。上品で深い色合いは、一目でいいものだとわかる。
「特注品なのよ〜」
「本物、ですか?」
「当ったり前じゃない。音は別録りだけど、弾き真似じゃ伝わるものも伝わらないからね。ちゃんと工房で作ってもらった正真正銘本物よ」
香穂はそっとヴァイオリンを取り上げると、表面に穿たれたF字形の穴から中を覗き込んだ。
内部に張られたラベルを見ているんだろう。
ちなみに香穂のヴァイオリンにはラベルはない。人ならざる者の手によるものだから。
ま、『リリ』とか『ファータ』とか書かれたラベルが貼ってあっても無名の職人が作ったものとしか見られないだろうが。
「あ……駅前の工房の…」
「そっかぁ、香穂子ちゃんの家の近くだったわね、あの工房」
「はい、私のヴァイオリンも時々メンテナンスしてもらうんですよ」
話す間にも、香穂の手は顔の高さに持ち上げていたヴァイオリンを下ろし、糸巻きを締めて演奏の準備を始めている。
「だったら丁度いいわ。撮影が終わったら、それ、あなたにあげる」
ヴァイオリンを置いて、弓を締めようとした香穂の手がピタリと止まり。
「え……えええええぇぇぇっ! と、特注品ですよねっ !? 高いんですよねっ !?」
「まあ、有名なヴァイオリニストが使ってるストラディなんとかとは比べ物にならないけど、使い捨てにするほど安くはないわね」
「そそそそんな高価なもの、私、いただけませんっ!」
そんなに必死になって辞退しなくても、くれるってもんは素直に貰っときゃいいのに。
俺なら── やっぱ断るか。俺の場合はピアノってことになるから、貰ったとしても置き場がないし。
「そう言わずに〜。このCMのために作ったんですもの、撮影が終わったら倉庫で埃かぶる運命なのよ。だったら使ってもらったほうがいいでしょ?」
「で、でもっ!」
「出演料の一部だと思って貰ってやってよ」
「えっ、出演料って出るんですかっ !?」
「当然よ、こっちがオファーしたんだもの。まあ、有名芸能人並みの金額、ってのは無理だけど……その件については、ちゃんと吉羅さんと話をしてあるから安心して」
「う…うわぁ……」
現実的な部分を突きつけられて混乱しているのか、呆然としている香穂に、苦笑いの松下がそろそろ始めるわよ、と準備を急かした。
「は、はいっ!」
香穂はわたわたしながらケースの中をごそごそと掻き回し、取り出した松脂を弓に滑らせ。
再びケースを掻き回し始め──
ガタンッ!
俺が座っていた椅子が大きな音を立てる。椅子から滑り落ちそうになった身体を立て直そうとした結果である。
準備に必死になっている香穂はそんな音を聞きとがめもせず、取り出した音叉を見て少し安心したような顔をして屈めていた身体を起こした。
跳ね回る心臓を抑えるため、香穂に悟られないようにそっと深呼吸をして。
── それまでは赤いヴァイオリンに気を取られて気づかなかったが、ショールを首の辺りで押さえていた香穂の手は俺の目の前に置かれたケースの中に突っ込まれ、
よく探そうと少し前屈みになっていたのだ。俺の目にどんな光景が映っていたのかは……ご想像の通り。
黒で左右を縁取られた白い肌を赤い布が弧を描いて包み込み、その中央には柔らかな陰影が……って思い出してどうするっ!
だが、コンサートなんかでドレス姿の香穂の隣に並ぶと、身長差の関係からいつも今と同じような状況なのは── 実は秘密にしている。
思わず、ごふっ、と咳き込んで。
香穂は音叉をテーブルの上に出しておいて、ヴァイオリンを構え── ようとして、突然動かなくなった。
……どうかしたのか?
眉根を寄せて何かぶつぶつと呟いていたかと思ったら、決心したようにヴァイオリンをテーブルに戻し、肩のショールを取って簡単に畳んでテーブルの上に置く。
そうか、ショールなんてかけてたら演奏の邪魔になるって──
ぬおあっ !?
心の中では叫んだものの、今度は椅子から滑り落ちることもなく、俺は魅入られたようにただ呆然と香穂の姿を見つめていた。
コクリと喉が鳴ったのがやけに大きな音で耳に響く。
黒いショールを取り去った香穂は、まさに白と赤のコントラスト。
むき出しの白い肩にドレスを支える肩紐はなく、赤いドレスは香穂の華奢な身体にピタリと貼り付いて、なだらかな身体のラインを惜しげもなく晒している。
膝上までのフリフリしたスカート部分が可愛らしいと言えなくもないが、今の香穂の姿は『魅力的』を通り越して『蠱惑的』と言ったほうがしっくりくる。
……………って、ちょっと待てっ!
香穂のこの姿が全国のお茶の間に流れるってことかっ !?
「香穂子ちゃーん! セットに上がってー!」
「は、はいっ!」
調弦していた香穂は呼ばれて慌てたのか、持っていた音叉をケースの中に滑り落とす。中にあった金属のものにぶつかったのか、ガヂッ、と嫌な音を立てた。
「じゃ、行ってくるね!」
「……ああ」
にこっと笑って踵を返す香穂。
その腕を掴んで引き止めたいと思った。
スタッフに先導されてセットの裏に回った香穂の姿が俺の視界から消える。
裏に階段があるのか、再び香穂の姿が頭の先から少しずつ見えてきて── 真っ赤なステージに立つ赤いドレスの香穂は、色に紛れ込んでしまうことなく一際輝いて見えた。
スタッフから何か説明を受けていた香穂の視線がゆっくりと動いて、俺の上に止まった。
赤い唇の端が上がり、笑みの形になる。
それと同時に途方もない不安が胸に渦巻き、たった数メートルしかない香穂との間の距離が途轍もなく遠いものに思えてきて仕方なかった。
【プチあとがき】
今回のテーマは『エロ土浦』(笑)
いやぁ、つっちーだって年頃の男の子ですもの、それくらいのことは考えてるはずだしー。
今回、キリが悪かったのでいつもよりちょっと長いっすね。
いつもこれくらいだとボリュームあっていいのかもしんないけどなー。
最後の辺り、2行追加しました。
むぅ、やっぱ書いてすぐUPってのは無謀なのかしらねぇ…。
【2008/01/30 up/2008/01/31 改】