■Confidential Message【13】
ちょうどヴァイオリンを肩から下ろしたところで控えめなノックが聞こえ、開いた扉から姿を現したのは──
「あ……遥さんっ!」
「香穂子ちゃん、お久しぶり〜」
部屋に入ってきたのはピアニストの飯島 遥さん。
花の咲いたような笑みを浮かべる遥さんは── やっぱり美人だぁ。
テーブルの上にヴァイオリンをそっと置いてから駆け寄ると、遥さんにふわりと抱きしめられた。
うわ……いい匂い。
「ごめんなさいね、遅くなっちゃって」
身体を離して、ニコリと笑う遥さん。
こんなすぐ傍で、こんな笑顔を見せられたら、大抵の男の人はメロメロになっちゃうだろうな。
私はちょっと心配になって、ちらりと梁太郎の様子を窺った。
……あ、やっぱり。
頬をほんのり染めちゃって、ぽぉっとした顔で遥さんのことを見てる。
……なんかムカツク。
とりあえず梁太郎には後で問い詰めるとして、私は気を取り直し、
「えと…飛行機が遅れたって聞きましたけど、何かトラブルでもあったんですか?」
「え…?」
遥さんの目が僅かに泳いだ。
………?
私、何か変なこと聞いたっけ?
「……あ、そ、そうなの。パリを発つ時、とってもお天気が悪くて、天候調査が長引いたのよ」
まいっちゃった、と笑う遥さん。
うーん、遥さんの様子、なんとなく変な気がするんだけど……。
「あ、そうだ!」
と、遥さんは床に置かれた大きなバッグの中をゴソゴソと探って、揃えた両手に乗るくらいの大きさの綺麗な紙袋を取り出した。
「はい、これ、香穂子ちゃんにおみやげ」
「え…」
「マカロンなの。甘いもの、平気?」
「え、あ、大好きですっ! ありがとうございますっ!」
うわぁ……わざわざおみやげなんて、感激しちゃう。
ニコリと笑う遥さんから紙袋を受け取って、思わず胸に抱きしめてしまった。
「それから……」
再びバッグの中から取り出した小さめの紙袋を差し出された。
「これはのだめさんから。お揃いのニットキャップと手袋だそうよ。これから寒くなるから使ってください、って」
うそ……の、のだめさんから !?
……あ、パリ……そっか、のだめさん、パリに住んでるんだった。
「あのっ……遥さんはのだめさんとお知り合いなんですか?」
「ええ、以前デュオリサイタルをしたことがあるの。それに、今回のパリでの仕事はピアノコンチェルトだったから── 『指揮・千秋真一』でね」
うわーっ、うわーっ!
続々と出てくる懐かしい名前に、じーんと胸が熱くなってきた。
「コンサートの後に3人で食事したのよ。その時、『可愛らしい高校生ヴァイオリニスト』の話になったんだけど── それが同一人物だってわかったときはびっくりしちゃったわ〜」
その時の光景を思い出したのか、遥さんはくすくすと笑っている。
「パリを発つ時に、のだめさんだけだったんだけど空港まで見送りに来てくれたの。でね、『香穂子ちゃんの演奏ならきっと素敵なCMになるから、楽しんで頑張れ』って、伝言」
ぶわっと涙が溢れてくる。
いっぱい迷惑かけて、あまりいい印象を持たれてないはずなのに、プレゼントに励ましの言葉までもらって。
あの人たちからはもう、素敵なものをたくさんもらってるのに── 私って幸せ者だぁ。
「あらあら」
遥さんは苦笑しながらも私をギュッと抱きしめて、頭を撫でてくれる。その手がとても、優しい。
ひとしきり泣いた後、遥さんが渡してくれたハンカチで顔を拭っていると、遥さんはもう一度バッグから何かを取り出した。
今度は飾り気のないA4サイズの茶封筒だった。
「これは千秋さんからみたい。香穂子ちゃんの素敵なカレシの『千秋2世』くんに渡してくださいって」
「え…っ」
声を上げたのは私じゃない。
振り返ると、梁太郎が目を丸くして立ち尽くしていた。
「……もしかして、あの子が『香穂子ちゃんの素敵なカレシ』?」
「え、えへへへへへ」
脇腹を肘でつつかれて、あまりの照れ臭さに頬をポリポリ。
くすっと笑った遥さんは私の傍を離れると梁太郎の前まで行って、はい、と封筒を差し出す。
ありがとうございます、と緊張気味に受け取った梁太郎は封のされていない封筒を開いて、早速中身を取り出した。
「うぉっ……ヴァイコンの、スコア……」
「えっ、もしかしてベートーヴェン !?」
「ああ、たぶん音楽祭の時のヤツ」
思わず駆け寄って、梁太郎の手元を覗き込んだ。
パラパラとめくるページには、普通の鉛筆や赤い色鉛筆でびっしりと書き込みがされている。
そぉーっと視線を上げると……ふふっ、梁太郎ってば、子供みたいに喜んじゃって。
指揮者を目指す梁太郎にとっては、きっと最高の贈り物だね。
いつか千秋さんに弟子入りしちゃったりして。
それにしても───
「── ねぇ、『千秋2世』ってなに?」
「野田 恵にそう言われたんだよ。ピアノやりながら独学で指揮の勉強してるところが、学生時代の千秋真一に似てるって」
スコアから目を上げずにそう答える梁太郎。
「へぇ……えっ、いつそんなこと言われたっけ?」
「……お前が中華屋で潰れてる時」
「う゛………」
いや〜な記憶が蘇ってきた。なんだか頭の芯がズキズキしてくるような……。
「さ、感動の対面はこれくらいにして、お昼にしましょうか!」
いつの間にか部屋にいた松下さんのよく通る声が部屋に響いた。
この近くにランチのおいしいカフェがあるのよ、と超ご機嫌な様子でみんなを先導していく。
大急ぎでヴァイオリンを片付け、部屋を出る時に振り返って見た壁の時計は12時少し過ぎ── 確かにお昼時だった。
……調子に乗ってチョコ食べ過ぎたかな…?
でも『甘いものは別腹』って言うし、順番が入れ替わっても大丈夫…だよね…?
* * * * *
【Side R】
『女が3人寄れば姦(かしま)しい』── とはよく言ったもんだ。
食事に向かったのは俺を入れて4人。
職業柄か無駄に社交的な松下はともかく、飯島 遥がお嬢様的ルックスに反して意外にフランクなことに驚いた。そしてその2人に完全に溶け込んでいる香穂。
それでなくても『ただの付き添い』の俺は完全に蚊帳の外状態だというのに、『あの店の服が可愛い』とか、『あの店のケーキがおいしい』とか── んな話に俺が加われるかっての。
拷問のような時間はやっと過ぎ去り、おすすめ日替わりランチをペロリと平らげた香穂は至極満足そうだった。
…… 午前中、あれだけチョコ食ってたのに、その細い身体のどこに入るんだ?
まあ、同じものを食べた俺には少し物足りない量だったのは確かだが。
店を出てスタジオに戻ると、お揃いのスタッフジャンバーを着た男が数人、慌しく働いていた。
なぜかさっきまで部屋の中にあったダンボール箱やドラムセットは跡形もなく姿を消し、中央にピアノがポツンとうずくまっているように見えた。
プロのピアニストの到着に、慌てて片付けでもしたんだろう。
「1時間ほど練習の時間をいただいていいですか?」
部屋の隅に置かれたバッグの中から楽譜を取り出しながら、飯島 遥が松下に聞く。
「ええ、もちろん」
ピアノの傍では、すでに香穂が調弦を始めていた。
舞台度胸はピカイチの香穂のことだ、腹くくったんだろう。見たところ、その顔に緊張の色はない。
逆に俺の方が緊張し始めているかもしれない。
「じゃあ、私たちは調整室の方で待機してましょうか」
松下に促されるまま、俺は調整室に足を踏み入れた。
香穂がいるスタジオ内を見渡せる填め殺しの大きなガラス窓のせいで、室内は意外に広く見えた。
休憩室を兼ねているのか、後ろの壁際は作りつけのソファになっていて、小さなテーブルも置かれている。
ガラス窓の前には、スイッチやらスライドするつまみやらがびっしり配置された大きな機械。
それを操作しているのは中年の男。録音技師、ってやつか。
奥にはもうひとつの扉がある。スタジオ前の廊下が奥に続いていたから、そちら側からも入れるんだろう。
手持ち無沙汰な俺はさっき受け取ったスコアでも見ていよう── いや、一刻も早く見たいと思ったが、香穂の荷物と一緒にスタジオの中に置いてあることに気がついた。
邪魔をするのはやめておこう。
結局、何もすることのない俺はソファに腰を下ろし、ガラス窓の方へ目を向けた。
防音の効いたスタジオ内の音は聞こえてこないが、解釈の確認だろう、2人で楽譜を覗き込み、一言二言話をしてから香穂がワンフレーズほどヴァイオリンを弾き、
飯島 遥が同じようにピアノを弾いてから頷き合って楽譜に書き込みをしていた。
ふいにヴーンと唸るような音が聞こえたかと思ったら、技師のおっさんと話をしていた松下が慌てて上着のポケットを探り始めた。取り出した携帯を耳に当て、
「はい── ええ、今からちょうど始まるところよ」
松下は電話の相手としゃべりながら、手に持っていたシステム手帳を俺の前のテーブルにポンと投げ出し、直接廊下に出る扉から出て行った。
と、今度はスタジオに通じる扉がガチャリと開く。
……たく、こんなに出入りが激しかったら、香穂が落ち着いて練習できねぇだろうが。
睨みつけるように扉に視線を移せば、開いた扉から顔を出しているのは当の香穂本人だった。目を丸くして、口元をヒクつかせている。
「あ…悪い」
いきなり睨まれちゃ、たとえ香穂でも怯むよな。慌てて顔の力を抜いて、どうした?、と訊いた。
「えと……遥さんの譜めくり、お願いしていい?」
「ああ、いいぜ」
笑って答えると、香穂はほっとしたように微笑み、頭を引っ込めた。
それでなくても疎外感を感じていた俺には願ってもない申し出だった。何よりプロの生音が聞けるのが魅力的だ。プロがどうやって曲を仕上げていくのかにも興味がある。
ソファから勢いよく立ち上がると、手が当たってしまった松下のシステム手帳がバサッと音を立てて床に落ちた。
「あ、やべっ」
慌てて拾い上げた手帳は、ちょうど今月のページが開いた状態だった。
決して見るつもりじゃなかったが、たまたま目に入ってしまった文字に俺はゴクリと唾を飲み込む。
それは今日の欄。書いてあった文字は──
CMレコーディング(○×スタジオ)
10:00 日野
12:00 飯島
10時といえば、香穂が指定されたスタジオへの入り時間。
『12:00 飯島』ということは、飯島 遥が遅れて来ることは初めから決まっていたことなのか?
そういえば遅れた理由を聞かれた飯島 遥は少し動揺したように見えた。
飛行機が遅れたというのは…嘘?
じゃあ、なぜ、何のために時間がずらされている?
顔を上げるとガラスの向こうで大きく手招きをする香穂の姿が見えた。俺は慌てて手帳を元の場所に戻し、香穂の待つスタジオへ入った。
【プチあとがき】
さて、スタジオ入り時間のズレの理由は !?
あ、ほんとのスタジオなんてちゃんと見たことナッシングなので、
完全な捏造ですからね。信じないように。
のだめチームが名前だけ登場。本人たちは今後も出てきませんよぉ。
ますます前作を読んでないとワケわかんない状態に(汗)
【2008/01/21 up】