■Confidential Message【12】 土浦

【Side R】
 ピアニストの到着が遅れると聞いて、香穂は床にへたりこんでしまった。
 無理もないだろう、世界で活躍するピアニストとの共演に神経を張り詰めさせてところに肩透かしを食らったのだから。
 まあ、これで肩の力が抜けて、いい演奏ができればいいんだがな。
「ほら、音出してようぜ」
 俺は香穂に向けて手を差し伸べる。
「……そ……そうだよね、指慣らし、しとかなくちゃ…」
 香穂はぶつぶつ呟きながら、まるで犬がお手をするように素直に俺の手の上に手を乗せた。
 ぐっと引っ張って立たせてやると、香穂はありがと、と小さく呟いてへらりと笑った。

 録音本番の演奏に支障のないよう、休憩をたっぷり取る。どちらかといえば、休憩の合間に演奏する、と言った方が正しいかもしれない。
 何度目かの休憩の時、俺たちは差し入れの置かれたテーブルのところにいた。
 香穂が注いでくれたジュースを受け取り、いつものように音楽の話や他愛無い話をする。
 大きな填め殺しのガラス窓の向こうの調整室にも、このスタジオ内にも誰も戻ってくる気配はなかった。
 ここに来た時の緊張はどこへ行ったのやら、完全にいつものペースに戻っている香穂の手はバスケットに伸び、 中から取り出した小袋をピッと破って、摘み出した一口サイズのチョコレートを口の中に放り込む。
「あ……おいしいっ♪」
 両手を頬に当て、口の中で溶けていくチョコと同化するようにとろんと溶け出しそうな幸せいっぱいの顔をする香穂。
 ……こいつ、チョコレート好きだもんな。
 コンビニやスーパーで新発売のチョコを見つけると必ず試している。
 今まで見た傾向だと、ホワイトチョコよりもカカオが効いているヤツが好きで、イチゴ味などよりも柑橘系の方が好きらしい。
 そういえば、いつだったかショッピングモールの喫茶店で食べたチョコレートケーキに感動してたよな。
 あれはスポンジに刻んだオレンジピールが混ぜ込んであって、チョコクリームはオレンジリキュールで風味付けされていて、 一部をチョコでコーティングしたオレンジの輪切りがトッピングされていた。 一口もらってみたが、クリームは甘さ控えめ、しっとりしたスポンジはカカオが効いていてほろ苦く、オレンジのおかげで後口もさっぱりしていて食べやすかったと記憶している。
 ……あれくらいなら俺にも作れそうだな。
 目の前にドンと置いてやった時の、目をキラキラさせて幸せそうに笑う顔が目に浮かぶ。
「── 梁、食べないの?」
あ?」
 思考の中から引き戻されて、俺の口から出たのは何ともマヌケな声。
 正面の香穂は小首を傾げ、不思議そうな顔で俺を見ていた。
 最近の俺……こんなことが多いな………気をつけよう。
「── あ、いや、俺はいい」
「ひとつくらい食べればいいのに〜」
 と言いながら、身体を乗り出して俺の前に一握りのチョコを置く。
 ツヤのあるメタリックレッドのパッケージに、流れるような書体の『Precious Kiss』の文字。天井の灯りを反射してキラリと光る。
 見れば香穂の前のテーブルの上には、同じパッケージの残骸で作られた小さな山。
「おい、そんなに食ったら鼻血出してぶっ倒れるぞ」
「大丈夫だよ、このチョコあんまり甘くないし」
「……そういう問題じゃないだろ」
 香穂の手はさらにチョコへと伸びていく。
 ……見てるこっちが胸焼けしそうだ。口直しにオレンジジュースを喉に流し込む。
「あー、チョコ食べてたらケーキ食べたくなってきちゃった。ほら、モールの喫茶店のオレンジチョコケーキ」
 ぶっ。
 考えを読まれてしまったようで、思わずむせそうになった。
 まぁ、チョコ食いながらオレンジジュース飲んでりゃ、そういう発想になってもおかしくはないが。
 ……って、それだけチョコ食っておいて、まだケーキ食う気かよ。
「梁さ、あのケーキ食べたとき、材料の分析してたよね? オレンジピールがどうの、とか」
「そ、そうだったか…?」
 ……記憶にないんだがな。
「あれ、手作りしたら、もっとたくさん食べられるよね?」
 ちらりと見ると、香穂は祈りを捧げるように手を握り合わせ、期待に目を輝かせていた。
 マ、マジでこいつはエスパーかっ !?
「……来週にでも食いに行きゃいいだろ」
 ついさっきケーキを作ることを考えていたくせに、俺はわざと興味なさげに言い放つ。
 香穂はスツールから立ち上がると俺の背後に回り込み、子供が親にゴマをするように肩を揉み始めた。
「梁太郎センセー、お願いします〜、ケーキ作ってくださ〜い♪」
 肩なんて凝っていないから、ほとんど力を入れていない香穂の手が動くたび、くすぐったさに肌が粟立つ。 制止するのはもったいない── いや、申し訳ない気がして、腕を組んでグッと力を入れ、必死に堪えた。
「お前なぁ……、自分で作るっていう選択はないのか?」
「だって梁の方がお料理上手だもん」
「それは否定しない。が、やらなきゃいつまで経っても──」
 突然、肩にあった香穂の手がすっと前に滑ってきて、細い腕が俺の胸元でふわりと交差する。
 一瞬後に頬に感じる、柔らかな感触。
 俺の首に腕を回したまま少し離れていく香穂の動きに引っ張られるように、首を捻って香穂を見上げた。
 たった今俺の頬に触れた、無色の薬用リップしかつけていないはずの唇が、やけに赤く色づいて見える。
 その間から茶目っ気たっぷりにぺろっと舌を出して、
「えへ、お駄賃先払い♪」
 とニコリ。
 ……なんつー可愛いことをしてくれるんだ、こいつは。
 んなことされたら、ケーキだろうが飯だろうが何だって作ってやるって気になっちまうだろうが。
 しかし、心の声とは裏腹に、俺の口から滑り出るのは天邪鬼な言葉。
「へぇ……その程度の駄賃で俺に手作りケーキを要求するとは、いい根性だな、香穂」
 首に回された腕をやんわりと掴み、僅かに首を傾げて俺の反応を窺っていた香穂の顔を見上げたまま、口の端に不敵な笑みを浮かべてやった。
 どうせ香穂は『えーっ、いいじゃないっ! 初仕事のご褒美に作ってよー!』とかなんとか言って騒ぐだろうから── そうしたら降参した振りをしてケーキ作りを了承してやろう。
 香穂は宙に視線を泳がせて、うーん、と唸ると、
「じゃあ……」
 すぅっと身体を寄せてくる。
 ふわりと鼻をくすぐるのは香穂愛用の薬用リップのオレンジの香りと甘いチョコの匂い。
 しっとりと感じる柔らかさは、今度は頬ではなく唇に。
 そして数秒の後、俺が目を瞑る間もなく再び身体を離した香穂は少し赤く染まった顔にはにかんだ笑みを浮かべて、
「……ダメ?」
 こくんと小首を傾げた香穂の長い髪がさらりと揺れた。
 今の出来事をやっと俺の頭が理解する。途端に跳ね回る俺の心臓。
 普段滅多とない香穂からのキスも、はにかんだ笑みも、俺にとっては破壊力抜群な会心の一撃。
 多分、今の俺の顔は赤いペンキをべったり塗ったかのように真っ赤になっているに違いない。
 くそっ、してやられた── 完全降伏だ。
「……しょうがねぇな……作ってやるよ」
「ほんと?」
「……おう」
「やったー♪」
 肩にかかっていた重みがふっと消え、マフラーを巻いているかのように温かかった首周りがすぅっと寒くなる。
 重さと温かさを作っていた香穂の手は頭上に振り上げられ、喜びのバンザイとなっていた。
 今の香穂の頭の中は『甘い雰囲気』よりも『甘いケーキ』でいっぱいだということは想像に難くない。
 俺の最大のライバルは食い物ってことか……。
 ── そう思えば俺の心の中は複雑な思いでいっぱいになるのだった。

*  *  *  *  *

【Side K】
 チョコケーキっ♪ チョコケーキっ♪
 うふふふふっ、あのオレンジチョコケーキ、ほんっとにおいしかったんだ〜♥
 梁太郎のお料理の腕前なら、もーっとおいしく作ってくれそうだよね♪
 ……って、私、今……………
 何をしたかなんてわかってる。
 や、やだっ、私ってば超大胆っ !?
 今頃になってものすごい照れが襲ってきた。顔がすごく熱い。
 ほっぺにキスはちょっとしたイタズラ心でしてみたんだけど、梁太郎ってば平然としてるし。
 逆に挑発してくるから、『悔しさ紛れにその場のノリで唇奪っちゃいました〜♪』なんて言ったら怒るかな?
 でも、いつもはキスの後も余裕たっぷりな梁太郎が顔を真っ赤にしちゃって。
 この手は意外と使えるな、なんて思ってる私は腹黒いのかな?
 たまには私からキスしたっていいじゃない、と思うけど、なんか恥ずかしいから最終兵器に取っておこうっと。
 カッカと燃えるような頬をぺちぺちと両手で叩いて、気持ちを切り替える。
「さ、練習、練習!」
「お、おうっ」
 私はヴァイオリンのところへ、梁太郎はピアノへ。
 そして奏でた『愛の喜び』は、ちょっぴり浮かれていたけれど、とても華やかな演奏になった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 香穂子さん、完全に餌付けされてますな(笑)
 それから、うちの香穂子さんはチョコ好きがデフォルトとなっております。
 そしてオレンジ系が好きなのはあたしの嗜好(笑)
 ホワイトチョコはノーサンキューなのもあたし。
 今回は『バカップル』がテーマ(笑)
 無糖状態が続いたので、ちょっとイチャコラさせてみました。
 え゛、足りない?

【2008/01/18 up】