■Confidential Message【11】
練習開始から1時間ほど経った頃だろうか。
一度丁寧に弾いておきたい、という香穂のリクエストで(もちろん普段の演奏がぞんざいだということではないが)少しテンポを落としての演奏中のことだった。
香穂は耳を研ぎ澄ませるかのように視界を閉ざし、一音一音を確実に鳴らしていく。
ゆったりとした香穂の音色に、俺のピアノを一番いい響きで重ね合わせて。
と、香穂の背後遥か遠く、正面入口からの扉が細く開いたのに気がついた。
理事長から話を聞いた金やんあたりが様子見にでも来たのだろうかと思ったが、意外にも扉の隙間から見えたのは理事長本人。同行者がいるのか、僅かに動く口元。
隙間から理事長がすっと身を退くと、続いて姿を現したのは若い男だった。
スーツの上にジャンバーを羽織り、色の薄い髪はオールバックに撫で付けている。
よく見ればスーツは古臭い形のもので、全体の印象は少し昔── 明治か大正の時代から抜け出してきたように見えた。まるでコスプレだ。
その上に某トランペットの先輩が好みそうなジャンバーを着ているのだから、アンバランスなことこの上ない。
どこかで会ったことがあるような気がするが、思い出せなかった。
……最近、こんなことばっかりだ。大丈夫なのか、俺の記憶力は?
男は最後部の座席に腰を降ろした。
気がつくと曲は終わり、俺の指は最後の音を押さえたまま止まっていた。
ペダルから足を下ろし、鍵盤から手を上げる。
コツコツ、と近づいてくる足音に顔を上げれば、香穂が真横で俺を見下ろしていた。
「後半、ちょっと上の空じゃなかった? もしかして体調悪かったりする?」
心配そうに眉根を寄せ、俺の顔を覗き込んでくる香穂。
「あ……いや、なんともない── 悪い、ちょっと考えごとしてた」
「それならいいんだけど……ごめんね、毎日練習につき合わせて」
「気にすんなって。お前には最高の演奏をしてほしいからな。そのための協力ならいくらでもするさ」
香穂はありがと、と呟いて、はにかんだような笑みを浮かべた。
「── そうだ! ね、別の曲、弾いてもいいかな? ちょっと気分転換に」
「お前なぁ……気遣うのか、こき使うのか、はっきりしろよ、ったく」
ぶっきらぼうに言って、わざと大袈裟に溜息を吐いてやる。
が、もちろん断るつもりはない。ここ最近合わせるのは『愛の喜び』ばかりだったから、確かにいい気分転換になりそうだ。
「……で、何弾きたいんだ?」
「えっとね……ベートーヴェンのヴァイコン」
「は? なんでまたその曲なんだ?」
「んー、これといって理由はないんだけど……なんとなくパワーもらえそうな気がして」
「はぁ?」
「あ、バカにしてる! この曲はベートーヴェンの恋心がいっぱい詰まった曲なんだよ? 恋する気持ちには大きなパワーがあるんだから! 真澄さんもそう言ってたもの」
ふと音楽祭で出会った人物が脳裏を過ぎる。調子の出ない香穂を叱咤激励した人物── くねくねとしなを作り、チョビ髭を蓄えたオネエ言葉のアフロヘア。
思わずぷっと吹き出して、
「そういう説もある、って言われてるだけだろ」
「説があるんだからそう思っててもいいじゃない。それに、その方が身近な感じがするっていうか、あーベートーヴェンも人間なんだなーって思えるっていうか……
仲良くなれそうな気がしない?」
「今のお前はクライスラーと仲良くしたほうがいいと思うがな」
「もうっ……梁ってば夢がなーい」
香穂は拗ねたように唇を尖らせて見せる。が、すぐににこりと笑って、
「ね、第3楽章だけでいいからさ、弾かせてよ」
「……しょうがねえな」
鍵盤に手を乗せ、香穂へと視線を送る。
香穂は嬉しそうに笑ってヴァイオリンを構えた。
呼吸を合わせ── 流れ始める軽やかなロンド。
夏の音楽祭の時よりもさらに艶やかで深みを増した音色。
その音に身を任せるように、目を閉じ、口元に柔らかな笑みを浮かべて弾いている香穂。
確かに── ベートーヴェンがこの曲にある未亡人への恋心をこめたという謂れが真実だとすれば、香穂の音はそれを見事に再現しているのかもしれない。
『恋する気持ちにはパワーがある』── こっ恥ずかしくて自分じゃ言えないが、香穂が言えば納得してしまいそうだ。
俺だって、香穂と出会い、音楽に戻り、香穂を好きになって、本格的に音楽の道に進むパワーが生まれた── いや、香穂からパワーをもらったんだ。
……口には出せないが、頭の中で言葉にしてみると気恥ずかしさに顔が熱くなった。
そんな俺の心を知ってか知らずか、香穂は気持ち良さそうにヴァイオリンを奏でている。
さっきは『なんで』と尋ねたが、香穂がこの曲を選んだのもわかる気がする。
周りの環境がガラリと変わってスランプに陥った香穂が、その壁を乗り越えた時に共にあった曲。
大方、大仕事本番の前に気合いを入れなおそうとでもいうことだろう。
なにげなく、俺の目が香穂から客席に移った。
さっき入ってきた時代錯誤な格好の男は、身体を乗り出して前の席の背凭れに凭れかかり、俺たちの演奏を聞いているようだった。
俺が見ていることに気づいたのか、男の口元にふっと笑みが浮かんだ。
その口の端を上げる笑い方はどこかで見た── この前、練習室を覗き込んでいたキャップの男だ!
くそっ、ストーカー野郎め、こんなところまで入り込んできやがって!
……いや、待てよ……理事長に案内されて来てたよな……ということはストーカーは別にいる…?
あの男、一体何者だ…?
ひゅん、と何かが視界を横切った気がして、はっと我に返った。
ソロパートがないところで、香穂が俺の前で弓を振ったのだ。
こんなに気を散らしていてはダメだ。せっかく気合いを入れようとしている香穂に申し訳ない。
鍵盤を滑らせる手を止めぬまま、怪訝な顔の香穂にニッと笑って見せた。
安心したように笑みを浮かべ、香穂もヴァイオリンを構え直す。
俺は頭の中でオーケストラをイメージし、ピアノを鳴らした。
そして、10分ほどの曲が終わって客席に目をやった時、そこに男の姿はもうなかった。
終始客席に背を向けていた香穂は、たったひとり聴衆がいたことには気づいていないだろう。
* * * * *
【Side K】
どうしてだろう?
なぜだか急に弾きたくなった、ベートーヴェンのヴァイコン。
……やっぱり昨日、星野くんにこの曲の話をしたせいなんだろうな。
気分転換をしたかったのも理由のひとつではある。CMの出演が決まってからは実技クラスの課題曲もほったらかしで『愛の喜び』ばかり弾いてたし。
でも、やっぱりこの曲を弾くと、気持ちがきゅっと引き締まる感じがする。
私の『愛の喜び』がCMで流れた時、ひとりでも『あ、この曲いいな』って楽しんで聞いてくれるといいなぁ。
── なんて改めて思ったりして。
ヴァイコンを弾いた後、少し休憩してから再びヴァイオリンを手に舞台に立った。
誰もいない客席を前に目を瞑る。
── 座席を埋め尽くした聴衆。
森ちゃんと一緒にここに立ったコンクールの時は、たくさんの人に注目されるのがすごく怖かった。
アンサンブルコンサートの時は、みんなで音を重ね合わせていくのが楽しかったっけ。
オーケストラを従えてのコンチェルト── 思うように弾けない時は辛かった。
でも音楽祭の最後の発表会での演奏は本当に楽しかった──。
目を開けた時に見えた客席にはやっぱり誰もいなかったけれど、建物を揺るがすような拍手に包まれた自分を思い出してブルッと身震いする。
ゆっくりとヴァイオリンを構え、ネックをくいっと上げて梁太郎に合図。
咲き誇る大輪の花のように華やかな曲が滑り出る。
どこまでも冴え渡るような音色に、私は思わず梁太郎を振り返った。
一瞬、驚いたように目を見開いた梁太郎が、ニヤリと笑う。
えへへ、梁太郎にもいい音が出たってわかってもらえたのかな?
うん、気分転換は大成功!
講堂を貸し切りにしてくれた梁太郎にも感謝! だね。
そんなこんなで3日間の講堂ふたりじめ練習はあっという間に幕を閉じ、土曜日になった。
向かうのはこの前撮影を見せてもらったスタジオとは別のレコーディングスタジオ。
極度の方向音痴の私を心配して、梁太郎もついて来てくれた。
到着すると、外で待っていてくれた松下さんに招き入れられ、いざ、スタジオの中へ!
思っていたよりも小さな建物は、ちょっとおしゃれなカラオケボックスって感じ、かな。
でも決定的にカラオケボックスと違うのは、たくさんの機械が並んだ『調整室』とかいう部屋があること。
うわーっ……なんか緊張してきた。
松下さんに『ここでは有名アーティストもレコーディングしてるのよ』、なーんて言われちゃったから、さらに緊張度は上がる一方。
そして連れて行かれたのは、学院の練習室2つ分ほどの広さの部屋。
どーんと置かれたグランドピアノ……はいいんだけど、壁際にはダンボールがいくつも積まれてたり、関係のないドラムセットなんかも置かれている。
いいの……かな?
そして部屋の隅っこには小さなテーブルと、テーブルとお揃いのスツールが並べられ、上にはバスケットに山盛りのお菓子とペットボトルのジュースと紙コップがタワーを作っていた。
『例によってお菓子もジュースもご自由に』と松下さんが笑う。
「そうそう、これ、香穂子ちゃんがやるCMの商品だから。特別にメーカーさんからの差し入れよ」
バスケットの中の『Precious Kiss』と印刷された小袋を摘み上げてウィンクする松下さん。
へぇ……チョコレート、とは聞いてたけど、そういう名前だったんだ。
……っ! それでキスシーンっ !?
思わずぼんっと顔が火を噴くけど── 大丈夫、顔を近づけるだけだって、星野くんも言ってたもん。
「あ、あはは…っ、ありがとうございますっ」
どっちにしても、今はどんな大好物だって喉を通りそうにないよ。
「じゃ、とりあえず楽器の準備しておいてね」
と言い残して松下さんは部屋を出て行った。
ふぅーーーーっ……
大きな息を吐き切ったところで後ろからがしっと両肩を掴まれて、心臓が口から飛び出しそうなほどに驚いた。
「大丈夫か? ガチガチになってるぜ?」
「うぅ……緊張するなっていうほうが無理だよ……」
「香穂らしくねぇな、いつもの舞台度胸はどうした?」
梁太郎は肩をぽんっと叩くと私の身体をくるりと半回転させて顔を覗き込み、くしゃりと私の頭を撫でた。
「いつも通り── いや、いつもの8割の演奏ができればいいんだよ。プロのピアニストの胸を借りるつもりで、思い切って弾けよ」
ま、10割出せればそれに越したことはないがな、と笑う梁太郎。
うー、ヒトゴトだと思って!
と、携帯片手に松下さんが部屋に飛び込んで来た。
何かあったのだろうか? ちょっと慌ててるって感じ。
「ピアノの飯島さんなんだけど、ツアー先から直接ここに来ることになってたんだけどね、飛行機が遅れてるみたいなの。お昼までには着きそうだから、それまで2人で練習しててくれる?」
そうまくし立てると『ごめんね〜!』と部屋を出て行く。……忙しい人だなぁ。
「お昼……かぁ……」
死刑執行が延期になった囚人のような気分。
……って、死刑囚になった経験はないけど。
なんだか急に身体の力が抜けて、私はその場にへなへなと座り込んでしまった。
【プチあとがき】
むふっ、ちょっと話が動いてきたかなー。
【2008/01/15 up】