■Confidential Message【9】 土浦

 星野くんの無表情な目はどこまでも遠くを見つめているように見えた。
 ……非常に声をかけづらい状況なんだけど、ただこのままぼーっとしてる訳にもいかないし…。
「あの……仕事、楽しくない…んですか…?」
「楽しいとか、楽しくないとか……考えてる暇もない、って感じかな。ま、オレの場合、中学の頃からこの仕事やってっから、学生時代に戻っても今とそう変わりはねぇんだけどな」
 はは、と弱々しく笑う星野くん。
 頭の後ろに組んでいた手を解いて身体を起こすと、再び背中を丸めて膝の上に頬杖をつく。
 なんだか彼がとても小さく見えた。
「でも、げいの──」
 私ははっとして口を噤んだ。
 彼の座るベンチから少し離れた場所に立っていたから、どうしても声が大きくなってしまう。
 多くの人がいるこの場所で彼がいることがバレたら大騒ぎになってしまうだろう。
 そう思った私は、仕方なく彼の隣に静かに腰を下ろした。
「── 芸能人って、暇がないくらい忙しいほうがいいんじゃないんですか? 人気商売なんだし」
 声のボリュームを落として聞いてみる。
 星野くんは私の顔をちらりと一瞥して、呆れたように溜息を吐いた。
「簡単に言ってくれるねぇ……そりゃあ仕事はないよりあるほうがいいに決まってるけどさ」
「じゃあいいじゃないですか。好きでやってる仕事でしょ? 私だったら嬉しいけどな」
「でも限度ってもんがあるだろ? オレなんてこの1年、休みゼロだぜ? 少しは休ませろってんだ」
「だったら休ませてもらえばいいじゃないですか。体調管理にも大切なことですよ。……でも成果を発表できる場がたくさんあるのはいいことだと思いますけど」
 はあぁぁぁぁ、とこれでもかというほどの大きな溜息。
 ギクリ。
 横目で睨んでくる星野くんの目に、ちょっぴり殺意が混ざってるような……。
「……ほんっといいよなぁ、学生さんはお気楽で」
 なによ、口を開けばお気楽お気楽って。
「学生だって大変な時があるんです! 私だって去年の今頃は死ぬほど忙しかったんだから!」
「へぇ……」
 とりあえず星野くんの目から殺意が消えて、『聞いてやるから話してみろよ』的な色が浮かぶ。
 ……まあいいけど。
 私は膝の上に置いた手をきゅっと握りしめた。
「…3ヶ月の間に4回のアンサンブルコンサートを開くことになって、毎日追い立てられるみたいにして練習して。その頃はまだ普通科だったから授業中はびっちり勉強だし、 間に試験もあったし……でも楽しかった。練習は大変だったけど、いろんな人とアンサンブル組んで、ステージに立って──」
 ……あれ?
 聞こえてくるのは前を行き交う人の楽しげな話し声だけ。
 会話をしているはずの相手は黙りこくっていて、やけに居心地が悪い。
 恐る恐る隣を見てみると、ぶっすーと不機嫌そうな顔で私を見ている星野くん。
 キャップを深くかぶっている上に頬杖で顔の半分が少し歪んでるから、すごく人相が悪いですっ。
「……で?」
「え、えっと……、だから…、やり遂げたあとの充実感っていうか…、そういうのって役者さんも同じじゃないんですか?」
「……まあ、それは否定しないけど──」
 ふいっと目を逸らして、口の中でもごもごと呟いて、
「── でもそれがたとえ失敗したとしても傷つくものはないんだろ? やっぱお気楽学生生活じゃん」
「そんなことありません! ……最後のコンサートは学院存続がかかってて、私たちが失敗したらみんなバラバラになっちゃってたかもしれないんです。 毎日、胃が痛くて……それでもお気楽ですか?」
「う……」
「それに、私自身だっていっぱい悩んで、今があるんです── 春に音楽科に転科してからスランプになって、練習がうまくいかなくて、弦だっていっぱい切って、顔に傷まで作って──」
 あぅ、あの頃のこと思い出したらなんか涙出てきそう…。
 強く握りしめた手の甲が白く血の気を失っている。
 私は大きな深呼吸をして、知らず入っていた身体の力を無理矢理抜いた。
「── そんな時に出会ったのがベートーヴェンのヴァイコンなんです。無理矢理参加させられた音楽祭でなぜかソリストに指名されちゃって。 スランプだったから当然うまく弾けなくて、オケとの練習も追い出されて。でもそのおかげでいろんな人に出会えて、忘れ物も見つけられたんです」
「……忘れ物…?」
「はい── 私のヴァイオリンはみんなに音楽の楽しさを伝えるためのものだから。それを忘れて、ただ上手くなりたいって思いだけで練習してもダメなんです。 私のヴァイオリンでみんなが喜んでくれて、喜んでもらうためには練習が必要で、練習すれば難しい曲も弾けるようになって、レパートリーが増えればもっとみんなに喜んでもらえる。 そしたら私も嬉しいし、だからもっと練習する──」
 ぐんっとベンチが揺れたのに驚いてはっと顔を上げると、隣の星野くんが深く項垂れたままベンチに身体を沈めていた。
「……なんかオレ、カッコ悪ぃな…」
「え……」
 星野くんはぐっとキャップのつばを引き下げて、鼻先まで隠してしまった。
「悪かったな……大事な練習時間潰させた上にグチったり突っかかったりして」
 最初はすごく頭に来てたけど、こうも素直に謝られるとなんだか調子狂っちゃうな。
「…いえ、私は別に……」
「……ベートーヴェンのヴァイコン、だっけ? …オレも聞いてみたいな」
 おや? ちょっとはクラシックに目覚めた?
「あ、それならすぐにCD見つかると思います。ベートーヴェンのヴァイコンは1曲しかないから」
 と、星野くんの肩がカクンと下がる。
「…い、いや、そういう意味じゃ……まあいいや」
 え…? 『そういう意味じゃ』って……じゃあどういう意味?
 その苦笑いは何よ。私、何か変なこと言ったっけ?
 星野くんはすっくとベンチから立ち上がると、地面に座っていたわけでもないのに埃を落とすようにパンパンッと腿のあたりを叩く。
「じゃ、学校まで送ってくよ」
 私の返事も待たずポケットから車のキーを取り出して駐車場の方へと歩いていく星野くんの後ろを、私は慌てて追いかけた。
 一刻も早く学校に戻らなきゃ。練習に付き合ってもらってる梁太郎をあんまり待たせちゃ悪いもの。

*  *  *  *  *

【Side R】
 しばらく待っていれば来るだろうと練習室でピアノを弾いていたが、香穂は一向に姿を見せなかった。
 香穂のことが気になって、さっきからミスタッチばかりだ。
 こうなったら行動あるのみ。
 俺は練習室を出て、香穂の教室へと足を運ぶ。
 荷物はそっくりそのまま置いてあるから、まだ校内にいるはずだが。
 とりあえず校内を1周して、香穂を見つけられればそれでよし。見つからなくても天羽か森に出くわせば、事の真相を問い詰めてやる。
 そう決意して教室を後にする。
 下校時刻まであと1時間ほどしかないってのに、あいつはどこで何をしてるんだ? ストーカーもうろついてるっていうのに──
 嫌な想像が頭を過ぎり、大股で闊歩していた足がふと止まる。
 ……まさか、ストーカーに出くわして監禁されてるとかじゃないだろうな !?
 一瞬にして血が凍りそうな想像に、俺は思わず駆け出した。
 校舎の中、講堂、森の広場の奥── 学校の敷地の隅々を回り、知っている顔に出会う度に『日野を見なかったか』と訊くが、皆首を横に振る。
 こんな時に限って、いつもなら鬱陶しい天羽の姿すら見つからない。
 くそっ! どこにいるんだ、香穂!
 いや、もしかしたら入れ違いになって、今頃練習室で待っているかも…。
 逸る気持ちを抑えきれず、自然と全力疾走になってくる。
 グラウンドの裏手から特別教室棟の裏を通って練習室に向かっていると、北門から誰かが入ってくるのが見えた。 考えごとをするように俯きがちにとぼとぼと歩いてくるジャージ姿の女子生徒は──
「香穂…!?」
「あ、梁」
 俺を見つけた香穂はニコリと笑い、小さく手を振ってからこちらに駆け寄ってきた。
 心配が取り越し苦労になったことで気が抜けて、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、全力疾走で上がった息を整えてからすぅっと大きく息を吸う。
「── 『あ、梁』じゃねぇだろっ! お前、何やってんだよ!」
「あー、ちょっと」
「ちょっと、だと !? 体育の後、校外に出てたのか !? それならそうと連絡くらいしろよ!」
「携帯、教室に置いたままだし……」
 格好を見れば、携帯も財布も持ってないことは一目瞭然なのだが……安心の裏返しでつい口調がキツくなるのが止められなかった。『可愛さ余って憎さ百倍』とはよく言ったもんだ。 いや、決して憎いわけではないんだが、いつもならずっと見ていたい香穂の笑顔がやけに癪に障る。
「……ごめん、ね」
 顔の前で手を合わせ、上目遣いにおずおずと俺を見上げてくる香穂。身長差にモノを言わせて上から覆い被さるように言い募っていたせいで、 香穂はしょんぼりと小さくなっていた。
「……まぁ、俺もちょっと言い過ぎた……悪かったな」
「ううん、そんなことないっ! 私が悪いんだからっ! ……ごめん、心配してくれてたんだよね…?」
「当たり前のこと聞くな── ったく、これからはちゃんと俺の傍にいろよ」
「え……やだ、いつも一緒にいるじゃないっ」
 いてっ!
 しなるように振り下ろされた香穂の平手が俺の二の腕を直撃する。
 その手はそのまま香穂の顔に添えられ、真っ赤に染まった頬を包み隠した。
 うっ……俺、今、すげぇセリフ言っちまった…のか?
 香穂の照れが伝染したように、俺まで顔が熱くなってくる。
「と、とにかく── 頼むから俺の目が届くところにいてくれ。俺がいなけりゃ天羽でも森でもクラスのヤツでもいいから、絶対に一人になるな」
 香穂は頬に手を当てたまま、きょとんとして小さく首を傾げた。
「それ……どういう意味?」
「だから、お前には──」
 ── ストーカーがいる。
 果たして伝えてもいいものだろうか?
 ストーカーの存在を知ったことで、怯えや不安から土曜日の演奏に支障をきたしたら……。
 それは絶対に避けなければ。
 俺がいつも傍にいて、こいつを守ってやればいい。
「……早く着替えて来いよ。時間ねぇぞ」
「あっ、今何時っ !?」
 香穂は俺の左腕をがしっと掴むと、袖を少しずらして腕時計を覗き込む。
「えーっ、もうすぐ5時 !? あと1時間しかないじゃないっ! ごめん、すぐ着替えてくるねっ!」
 バタバタと慌しく校舎に駆け込んでいく香穂の後ろ姿に、練習室行ってるぞ、と声をかけると、わかった!と元気な声が返ってきた。
 はぁ…。
 思わず零れてしまう溜息。
 これじゃまるっきり『保護者』だよな……。
 ……って、ちょっと待て。
 たった今『一人になるな』と言っておいて、一人で行かせてよかったのか?
 ストーカーは森の広場や練習室にも現れてるんだ、校舎内が安全だとは言い切れない。
 俺は慌てて香穂がたった今姿を消した扉へと駆け出した。
 しかし── 香穂はジャージのままどこへ行っていたのだろうか?
 天羽と森のあの妙な態度とも関係があるのだろうか?
 解明する手がかりもない上、走りながらでは考えがまとまるはずもなかった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 今さらですが、注意事項。
 このお話はアンコール発売前に書いた長編の続きですので、
 アンコのイベントは無視してお読みくださいな。
 ……って、今回もあんまり話が進まなかったなー。
 盛り上がりもまとまりもないし…。
 とりあえず、香穂子さん帰還です。

【2008/01/08 up/2008/01/15 改】