■Confidential Message【7】 土浦

【Side R】
 譜読みを終え、ざっとさらう程度に音を出し始めてしばらくした時、前触れもなしに練習室の扉が勢いよく開け放たれた。
 あっけに取られる俺の前に姿を現したのは── もちろん香穂。
 どかどかと入ってきたかと思えば、肩幅より少し広めに開いた足でしっかりと床を踏みしめ、走ってでも来たのか、はぁはぁ、と肩で荒い息をしている。 深く俯いていて表情は見えないが、右手にヴァイオリンと弓をまとめて握り、何も持たない左手はぎゅっと握りしめられて小刻みに震えていた。
「お、おい、どうした !?」
 香穂は無言のまま、背中で勢いよく扉を閉めると、おもむろに持っていたヴァイオリンを両手で頭上に振りかぶった。
 ……まさかっ !?
 制止の声を上げるより先に身体が動いていた。急に立ち上がった俺の膝裏に押されて倒れた椅子が、驚くほど大きな音を立てた。
 向き直れば、反射的に音に気を取られて振り返ってしまった僅かの間に香穂の手は下ろされていて、ほっと胸を撫で下ろす。
 ……ったく、驚かすなよ……てっきりヴァイオリンを床に叩きつけるかと思ったぜ。
 香穂はいつもならケースを置くテーブルにヴァイオリンと弓を静かに置く。
 それを見届けてから、俺は倒れた椅子を起こし、香穂の後ろへゆっくりと近づいた。
「えらくご機嫌ナナメだな……何かあったのか?」
 肩に手を乗せようと両腕を上げた瞬間──
「ぅをっ !?」
 香穂がくるりと向きを変えて俺の胴体にがばっと抱きついてきた。
 さっきまで俯いていて、今は俺の胸に押し付けている香穂の顔はやっぱり見えない。
 それよりも。
 これは『抱きつく』ってより『しがみつく』……いや、『締めつける』と言ったほうが正しい。
 ── こいつ、なんつー馬鹿力だよっ!
 ぐいぐいと締め上げる香穂の腕はあばらに食い込み、下手すりゃ背骨ごと砕かれそうだ。おまけに顔で胸を押さえつけられてるせいで息ができねぇ。 腕を掴んで引き剥がそうと試みるもびくともしない。
 ……少し大げさか。俺の身体はこいつに締められたくらいでどうにかなるほどヤワじゃねーしな。
 ま、好きな女に抱きつかれて(その力加減は今は考慮しないとして)嫌な気分になる男がいるわけもなく。
 逆に大歓迎なのだが、さすがに場所を考えればマズイと言わざるを得ない。
 扉にはめられたガラス窓は細長いものだが、ちょっと覗き込めば室内は丸見えになる。
 俺と香穂の間柄は周知の事だから見られたのが生徒ならばさほど問題はないだろうが── だからといって見られていい気はしないが── 教師だった場合はそうも言っていられない。
 さてどうするか、と考えつつ扉に目をやれば──
 うげっ、廊下にいたヤツと目が合った。
 すぐに目深に被ったキャップの鍔で視線は隠されたが、ふっと口の端を上げて、細長いフレームから姿を消した。その間、僅か数秒のこと。
 くそっ、今の誰だ?
 普通科の制服に似た色だったが、あれはジャケットではなくジャンバーだった。私服ということはOB?
 だがあんなヤツ、見たことない── いや、どこかで見たような気も……。
 とにかくこのままではマズイ。
 俺はいまだ抱きついている香穂の腰に腕を回すとグッと力を込めて抱え上げた。そのまま後ろ向きで廊下から死角になる壁際まで歩き、背中に壁が触れた時点でそっと降ろす。
 ふと、夏の音楽祭のことを思い出した。
 いろいろあって、自分の音を取り戻した香穂は、『大切なものを見失った時に梁に抱きしめてもらったら、音楽祭で出会った人たちや感じたことを思い出して、また頑張れる』 ── そんなことを口にしていた。
 もしかすると香穂は何かを取り戻したくて俺に抱きついているのではないだろうか。
 香穂の発するSOS信号…?
 俺は再び香穂の背中に回した腕に力を込める。今度は抱え上げるためではなく、抱きしめるために。
 何を見失った?
 思い出せ。
 お前が失ったものを取り戻すためなら、俺はいつだってこうして抱きしめてやるから──。

*  *  *  *  *

【Side K】
 息苦しさを感じて、すぅーっと大きく息を吸い込めば、嗅ぎ慣れた匂いが肺を満たす。
 プレストで跳ね回っていた心臓は徐々にアダージョまで落ち着いて。
 長く吐き切った息をもう一度深く吸い込み──
 ……あれ? 私……。
 そーっと顔を上げれば、真上に見えたのは心配そうに覗き込んでいる梁太郎の顔。
「うわっ、りょ、梁っ !?」
 えーーーーっ、なんで私、梁太郎に抱きしめられてるの !?
「……なに驚いてんだよ」
「えっ、わ、私、何して──」
「あのなぁ……ここに入ってくるなりヴァイオリンを床に叩きつけようとした挙句、いきなり俺に抱きついてきたのはお前だろうが」
「え、えーっ、そうなのっ !?」
 ヴァイオリンを床に !?
 ネックが折れ、弾けて丸まった弦── 無残な姿のヴァイオリンを想像したら背中が寒くなった。
 それに、いきなり抱きついたって…私が?
 ……記憶にないんですけど。
 『怒りに我を忘れる』ってこういうことなのかしら…。
 梁太郎は呆れてものが言えない、といった顔で大きな溜息を吐いた。
「お前、まさか誰彼構わず抱きついてんじゃねぇだろうな?」
「そ、そんなことあるわけないでしょっ!」
「ふーん……で、何があったんだ?」
「何って…ちょっと頭に来ることがあって……」
 そうよ! あの人が私のことをからかうからっ!
 その上、ヴァイオリンを弾けっていうから弾いたら、すぐに止めるし!
 『オマエの演奏は耳を傾ける価値もない』って言われたような気がして、悲しいやら頭に来るやら。
 ……それで森の広場からここに戻ってきちゃったんだった。
「── 香穂?」
「……え?」
 うわっ、梁太郎の顔のドアップ!
 慌てて離れようとしたけれど、梁太郎の腕は私の腰の後ろでがっちりホールドされていた。
 気がつけば私はエビ反りに──
 かあっと一気に顔が熱くなる。
 さっきの森の広場での出来事がよみがえってきた。
 いやだからあれは倒れそうになったところを支えてもらっただけで、別に何も──。
 それに相手が梁太郎なら、エビ反ってまで逃げる必要もないわけだし……。
 私はおそらく赤く染まっているであろう顔を、梁太郎の胸にぎゅっと押し付けた。
「香穂?」
「…大丈夫、なんでもないから」
 梁太郎の大きな手が私の背中をポンポンと叩いてくれるテンポが私の鼓動とシンクロして、すーっと落ち着いてくる。
 だけど、梁太郎が顎を乗せている頭のてっぺんがちょっと痛い。
 でも、その痛みのおかげで頭がキリリと冴えてくる。
 ── 私が今やらなければいけないのは、ヴァイオリンの練習。怒りに我を忘れてるような暇はない。
 クラシックに興味があろうがなかろうが、聞かずにはいられない演奏をしてみせようじゃないの!

*  *  *  *  *

【Side R】
 俺の腕の中で蒼くなったり赤くなったり、忙しく顔色を変える香穂。
 その表情もくるくると変わっていって、見てて飽きないんだが……一体何があったのやら。
 俺の胸に顔を埋めて何やらブツブツ呟いていた香穂が、まだ少し赤味の残る顔をすっと上げた。
 やけに力の入った眼で俺を見上げてくる。
「梁」
「……ん?」
「練習、しよう」
「は?」
「だから、練習!」
「………………おう」
 腕を放して解放してやると、香穂は軽やかな足取りでヴァイオリンを取りに行った。
 ……まあ、いいんだけどさ。そのために練習室にいるんだから。
 だが、抱き合っているというシチュエーションだったわけだし、もうちょっとこう甘い雰囲気になるとか── いや、深く考えまい。
 ピアノで音を出して調弦している香穂を見て、ふと気づく。
「なあ、香穂」
「なあに?」
「ヴァイオリンケース、どうしたんだ?」
「え………あっ! 広場に忘れてきちゃった…」
 そう言いながらも香穂は俯いて、動く気配を見せない。
「今のうちに取ってきたほうがよくないか?」
「うん……そうだね」
 元の場所にヴァイオリンを戻すと、香穂は部屋を出ていった── 気が進まない、といった様子で。
 と、ものの数秒でガチャリと扉が開いて香穂が顔を出す。
「どうした?」
 えへへ、と苦笑いしながら部屋に入ってきた香穂の手には見慣れたヴァイオリンケース。
「えっと…、誰かが届けてくれたみたい」
「へぇ……親切なヤツがいるもんだな」
 香穂は答えず、眉間に皺を寄せて、頬に手を当て何か考え込んでいるように見えた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 むふふ、ニアミス、です。
 さぁて、この後どうなる?(笑)

【2007/12/21 up】