■Confidential Message【6】
振り返った先にいたのは── ほ、星野 瞬っ !?
池のほとりのオブジェの前、彼はいわゆる『ヤンキー座り』でしゃがみこみ、肩を震わせて笑っていた。
「な、なんでここに… !?」
星野くんは目尻に浮かんだ涙をわざとらしく手の甲で拭いながら、口の端を少し上げて、
「── アンタに会いに」
はぁっ !? なによそれっ !?
この間の親睦会の時は、私のことなんて完全無視だったくせに!
「この学校、警備とか大丈夫なワケ? オレ、こんなカッコなのに何にも言われなかったけど」
すっと立ち上がった星野くんは、私に服装を見せ付けるように小さく両腕を広げてみせる。
今の彼の格好は、細身の黒いレザーパンツにモスグリーンのアーミージャンバー、ジャンバーと同色系のキャップ。
基本的に金曜日に会った時と同じようなスタイルだが、前回よりもワイルドな感じ。
スターのオーラも出しまくってるんだけど、意外と『そこらへんの普通のお兄さん』に見えなくもない。
「それは……後輩の指導に来るOBが私服で出入りしてるから……」
「へぇ」
……レザー穿いて来るOBはいないけどね。
「それに面白いよな、校内にこんな場所があるなんてさ」
「……学校が建つ前は、ここは自然の森だったって聞いてますけど」
「ふーん」
聞いてるんだか聞いてないんだか、興味なさげな返事をしつつ、彼は── こっちに来るっ !?
わ、わ、わっ、ど、どうしようっ!
逃げる?
いやいや、私が逃げる必要なんてないじゃない。部外者は向こうなんだから。
「………ぅわっ!」
逡巡しているわずかの間に、星野くんは私のすぐ目の前に立っていた。
へぇ…背、高いんだ。梁太郎と同じくらい、かな。でも、梁太郎の方ががっちりしてるから大きく見える。
── って、比べてる場合じゃなーい!
彼と私の間隔は、ほぼ私の歩幅1歩分。
あまりの近さに、私は後ずさ── ろうとしたけれど、できなかった。
ふくらはぎに感じる、石のベンチのひんやりとした硬い感触。
私はコクリと唾を飲み込んで、すがるように胸元でヴァイオリンのネックをギュッと握りしめる。
と、星野くんはジャンバーのポケットに手を突っ込み、ひょいっと腰を曲げた。
わー、わー、わーっ! 近いですっ!
綺麗な顔が近すぎですっ!
キャップの鍔が私のおでこに刺さりそうな位置で、彼はニッと笑うと、
「絵コンテ、見た?」
私の顔が、ボンッ、と火を噴いた。
金曜日の夜にもらった絵コンテには、CMの一連の流れが4コマまんがのように四角で囲まれたいくつかのイラストと簡単な文章で書いてあった。
その中の1枚に至近距離に顔を寄せ合う男女の絵、その横に『NA:甘いキスのように』という文字が並んでいて。
それはどう見ても明らかに『キスシーン』。
ど、どうして好きでもない人と、カメラの前でキ、キ、キスなんてしなきゃなんないのよーっ !!
そんなシーンがあるなんて、梁太郎には言えなくて。
怒るに決まってるもの。
だからって今さらCM出演自体を断れば、松下さんたちに迷惑をかけることになるだろうし。
断れない以上、何が何でもカットしてもらわなきゃっ!
── 決意を新たにする私。
「顔、赤いけど?」
「なっ! べ、別に──」
「オレとのキスシーン、想像したんだ?」
再び私の顔が火を噴く。
でも断じて想像なんてしてませんっ!
星野くんは、ぷっ、と吹き出して、
「期待してたとこ悪いけど、CMで本当にキスなんてすると思う?」
だから期待なんてしてないってばっ!
………って、………え?
今、何て…?
「CMは1本15秒、長くて30秒。
その短い時間の中で購買意欲を高めるような商品イメージを伝え、商品パッケージを印象づけなきゃならないんだぜ?
ドラマじゃあるまいし、顔がすっと近づいて、『あ、キスするのかな?』って見てる人が思った時には画面にはパッケージがデカデカと映ってるんだよ。
使いもしないシーンなんて、撮るわけねーじゃん」
……そ、そうなんだ…。
だったら、こんな嫌がらせみたいに近づいてこないで、普通にそう言えばいいじゃないの!
ヤなヤツ!
ともあれ、安心したらなんだか身体の力が抜けた。
と、ぐらりと視界がぶれて。
気づかぬうちにじわじわと顔を近づけてきていた星野くんに合わせて、私は身体を仰け反らせていたのだ。
そんなエビ反り体勢も限界に来ていたところに力を抜いてしまい、私の身体は当然後ろへと倒れていく。
やけにゆっくりと空が流れて。
あ、そういえば後ろにあるのは石のベンチ。
ぶつけたら痛いだろうな。
でも、ヴァイオリンだけは守らなきゃ。
……………。
…………………………。
……あれ?
覚悟したはずの痛みはいくら経っても襲ってこなかった。
「── いい加減、起きてくんねぇ?」
え…?
いつの間にかギュッと閉じていた目をゆっくりと開けると、そこには動きを止めた青い空が広がっている。
胸元で握りしめた両手にはヴァイオリンのネックの感触。
視線を少しずらせば、私を覗き込んでいる逆光で暗く陰を射した人の顔。
うわぁっ!
── 私のエビ反った背中は、星野くんの腕によって支えられていたのだった。
エビ反り状態のままでは身動きもできず、支えてくれている星野くんの腕の誘導で、私はぺたんとベンチに座り込んだ。
「ご、ごめんなさい…」
「別にいいけど」
恥ずかしさのあまりヴァイオリンを抱きしめるようにして俯いてしまった私には彼がどんな顔をしているのかは見えなかったけれど、声の印象ではどうやら笑っているらしい。
……呆れてもいるだろうけど。
でも、一応倒れそうになった私を助けてくれたんだよね。
さっきは『ヤなヤツ』だと思ったけど、意外といい人だったりする?
………って、元々は無意味に近づいてくるこの人が悪いんじゃないの!
私の隣に腰を下ろした彼は、ふわっと長い足を組み、膝の上に頬杖をつく。
身体の向きからして、私の方を見ているようだ。
俯いたまま横目で盗み見たその動きは、まるでドラマのワンシーンのようだった。
ゆったりと優雅なんだけど、さりげなくあくまで自然で、わざとらしさなんて全く感じられない。
やっぱり『見られる仕事』をしてる人っていうのは、そういう所作が身につくのかな。
私が目指しているものも、大勢の人に見られる機会は多い。
もちろん目的は私の姿ではなく、ヴァイオリンの演奏だとしても。
いつかはあんなさりげない優雅さが身につけられるといいんだけどな。
ちょっと尊敬しちゃうかも。
「── 弾いてみてよ、それ」
「…え?」
思考の渦に身を任せているところに急に声をかけられて、私は驚いて声の聞こえた方向へ顔を向けた。
星野くんは膝の上で頬杖をついたまま、私の手元を見ながら促すようにくいっと小さく顎をしゃくる。
え?
……私の手には、ネックを握りしめられたままのヴァイオリン。
……まあ、どうせ練習しなきゃいけないんだから、別にいいけど。
「あ、さっきのノコギリみたいな音は勘弁な」
ムカッ。
私はベンチからよろよろと立ち上がると、少し離れたところで彼に背を向けたまま、スケールでざっと指慣らしをして。
深呼吸ひとつしてからゆっくり振り返る。
そして演奏するのは、もちろん現在練習中の『愛の喜び』。
ピアノの音がないのが残念だけど。
「ストップ!」
ほんの5小節ほどで演奏を強制終了させた星野くん。
一体なんなのよっ !?
「他の曲、弾けねぇの?」
はぁ?
……じゃあ、『ラ・カンパネッラ』を。コンクールでも弾いたけど、今はこの曲で個人レッスンを受けてるから。
弾き始めて数小節で、またもかかる『ストップ!』の声。
もうっ、だからなんなのよっ!
「そんな辛気臭い曲じゃなくてさ、こう、ぱーっと派手な曲ってないの?」
カンパネッラのどこが辛気臭いっていうの !? パガニーニに謝れっ! 土下座して謝れっ!
ていうか、『愛の喜び』は十分派手だったでしょうがっ!
もう、何弾けば最後まで聞いてくれるのよっ!
「── じゃあさ、あれ弾いてよ、『ベートーヴェンのヴァイコン』」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲── たぶん、私は一生この曲を忘れられないと思う。
「あの…、夏の音楽祭、聞きに来たんですか…?」
「何それ? んなもん行くわけねーじゃん。夏っていえば、オレ、ドラマと映画の撮影が重なって、クソ忙しかったもんなー」
「…じゃあ、なんで…?」
「松下さんがそんなこと言ってたなー、と思ってちょっと言ってみただけ」
「は…?」
「だいたいオレ、クラシックなんて興味ねーし」
「はぁ !?」
「── で、『ベートーヴェンのヴァイコン』って、なに?」
ブッチーンッ!
頭の中で何かが切れた。
売れてる芸能人だからって、一般人をおちょくるのも大概にしなさいよーーーっ !!
私は星野くんをキッと睨みつけると、くるりと踵を返し、広場の出口を目指す。
こんなヤツにいつまでもつきあっていられますかっての!
一瞬でも『いい人かも』なんて思った私がバカでした!
後ろから私を呼んでいるような声が聞こえたけれど、私は完全無視を決め込み、お世辞にも優雅とは言えない怒りに任せた歩みを精一杯早めるのだった。
【プチあとがき】
終始脳血管切れそうな香穂子さん(笑)
そして何が起きても頭の中には土浦氏がいて、比較せずにはいられない香穂子さん(笑)
どんだけ好きやねん。
【2007/12/17 up】