■Confidential Message【4】 土浦

【Side R】
 いつの間にか、香穂とデュオをやるってことが楽しみで仕方なくなっていた。
 演奏する目的なんかすっかり忘れて。
 しかし、香穂と一緒にあの女ディレクターとやらが入ってきた時、現実に引き戻された。
 そう、いくら練習しても、結局香穂が他のヤツと演奏するための下準備にしかすぎないのだ。
 はっきり言って、特に思い入れのある曲ではない。
 だが、『愛の喜び』なんてタイトルの曲を香穂が他のピアニストと弾くなんて、本能的に許せない。
 そりゃピアニストはもしかすると女かもしれないし、いずれ俺たちがプロになった時にそんなことを言っていては仕事にならないのはわかっている。
 ── しかし、気に入らないものは気に入らない。
 いっそ本番の演奏も俺が── いやいや、俺までCMなんてくだらねぇものに巻き込まれてどうするっ。
 いや、だが、他のヤツに弾かせるくらいなら── どうせ見学やら練習やらに付き合ってる時点で巻き込まれてるようなもんだし。
 んなわけねーだろ、単に香穂を手伝ってるだけだ。決してCMのためじゃねぇ。
 そんな心の中の葛藤が知らず態度に表れてしまっていた。おまけにいちいち神経逆撫でするようなこと言いやがるし…。
 おろおろしてフォローする香穂には悪いと思ったし、自分でもガキっぽいとは思ったが、止められなかった。
 つい口調がとげとげしくなった。
 だが演奏は演奏だ。無理矢理気分を静めてピアノに向き合う。
 普通のテンポで、と言う香穂に、指先でピアノを叩いてテンポを示してやった。
 ── そして再びの演奏。
 香穂と音を合わせるのは、やっぱりいい。さっきまでの嫌な気分が薄らいでいく。
 そうして2回目の演奏を終えた時、1回目とは違って室内は静まり返ったまま。
 1回目の稚拙な演奏には盛大な拍手を送ってきた松下は、軽く握った拳を口元に当て、じっと床を見つめて何か考え込んでいるようだった。
「……あの…、松下さん…?」
 やはり怪訝に思ったのだろう、香穂がおずおずと声をかける。
「……え、あ、ごめんなさい」
「どうかしました?」
「ううん、なんでもないなんでもない。とっても素敵な演奏だったわ、この調子でよろしくね」
 さっきまでの険しい表情とは打って変わっての笑顔で香穂子を激励する。
 ったく、今の演奏のほうが格段によかったってのに、1回目と同じ感想かよ。それにぼんやりしてやがって。
「じゃあ、私はまだ仕事があるからこれで失礼するわね。明日の約束、忘れないでよ〜」
「はい、わかってます」
 2人は笑い合うと、松下は練習室を出て行き、香穂は閉まる扉に一礼してから大きな溜息を吐いた。
「さ、練習続けよっか」
 くるりと振り返った香穂の笑顔がすっと引っ込み、訝しげな表情が浮かぶ。
「梁?」
 名前を呼ばれて我に返った。
 気づけば俺は思いっきり眉間に皺を寄せて香穂をじっと見つめていたらしい。
「あ…、いや…」
「? ヘンな梁」
 クスッと笑う香穂。
 ……気になる。気になってしょうがない。
 ええい、聞いてしまえ!
「……明日の約束、って…?」
「ああ、食事に誘われたんだ」
 そう言ってニコリと笑う。
「食事?」
「うん、共演者の親睦会みたいなもの、なんだって」
「へぇ…」
 共演者……またも現実を突きつけられて、俺は生返事を返すことしかできなかった。

 翌日、香穂の待ち合わせの時間もあって、少し早めに練習を切り上げて練習室を出た。
 正門前まで行くと、俺たちの姿を見つけた松下が門のところで大きく手を振っていた。
 周囲にいた生徒たちが何事かと注目している。ったく、恥ずかしいヤツ…。
 自分でもわかる、急激なテンションの低下、不機嫌度の急上昇。
 道路に出てみると、道の端に寄せられハザードを光らせる大きなRV車。松下が乗ってきたのだろう。
 すっかり彼女に懐いてしまった香穂がにこやかに挨拶をしている横で感じる居心地の悪さ。
 原因は刺さるような視線。
 視線の主は、松下だった。じっと俺の顔を見つめている── そう、品定めするような目で。
 ── なにジロジロ見てんだよ。
 ムカつきが顔に出たのだろう、松下はハッとして、
「あ、あなたたちって仲がいいのね〜、いつも一緒で」
「えー、えへへ、そうですかぁ?」
 ……なに嬉しそうにヘラヘラしてんだよ。
「……じゃあな。腹壊すほど食うなよ」
 2人に背を向け、歩き出した。
「もう! わかってるわよっ! 気をつけて帰ってねー!」
 足を止めることも振り返ることもせず、肩ごしにひらりと手を振る。
 後ろで車のドアを閉める音がした。すぐにエンジンの低い音が聞こえ、それは次第に遠ざかっていった。
 俺は猛烈に何かを蹴り飛ばしたい衝動に駆られて地面に視線を走らせたが、残念ながら何も落ちてはいなかった。

*  *  *  *  *

【Side K】
 松下さんの大きな車で連れて行かれたのは中華街にある一軒のお店。
 ……あのー、ここって中華街でも有名な高級店なんですけど…。
 ドキドキしながら松下さんについて行き、通されたのは当然のように奥まった個室。
 中にはすでに3人の人が丸いテーブルに着いていた。一斉に注目を浴びて、思わず後ずさる。
「お待たせしました。こちらが今度のCMでヴァイオリンを弾いてくれる日野香穂子さん」
 えっ、い、いきなりっ !? 私は慌ててガバッと頭を下げた。
「ひ、日野香穂子ですっ! よろしくお願いしますっ!」
「あははっ、そんなに緊張しないでよ〜」
 松下さんが笑いながら私の背中をあやすように叩いてくれるけど……緊張するなって言われても無理!
 それから松下さんがひとりひとりを紹介してくれた。
 まずはかっちりとスーツを着込んだ男の人で、お菓子メーカーの広報の山岡さん。
 次にスーツをセンスよく着崩した男の人は松下さんと同じ会社の中川さん。
 ふたりとも30代前半くらいかな。自己紹介と共に差し出された名刺をおずおずと受け取った。
 わー、なんか変な気分。社会人になるとこういう感じなのかなー。
 最後に紹介されたのは、ウェーブヘアの綺麗な女の人だった。
「ピアノを弾かせていただくことになった飯島 遥です」
 うわぁっ! 知ってる、この人知ってるよっ! 前に梁に貸してもらったCDの中にあったもの! ジャケットの写真見て、綺麗な人だなーって思って印象に残ってたんだ。 演奏だって繊細なのに力強くて、それなのに限りなく優しくて。とても素敵な演奏をするピアニスト。
 でもでもでもっ!
 こんなプロのピアニストさんと一緒に弾くのが私でいいの !?
 飯島さんのピアノソロで十分すぎるんじゃない !?
 目の前にすっと手が差し出された。ネイルアートの似合いそうなほっそりとした綺麗な指先は、柔らかなパールピンクに染まった綺麗に切り揃えられた爪。 やっぱりピアニストの手、なんだ。
 おずおずと出した手をきゅっと握られた。思った以上に力強く。
「いい演奏をしましょうね」
 ニコリ。
 うわあああぁっ、やっぱり美人だーっ! 女の私でもドキドキしちゃうくらい!
「は、はい! よろしくお願いしますっ!」
 弱々しく握り返した私の手はきっと震えているに違いない。

 怒涛の自己紹介合戦が終わって席に着くと、私の向かい側あたりにぽっかりと空いた席がひとつ。
 と、右隣の席の松下さんが腕時計を見ながら、遅いわね、と呟いた。
 すかさず中川さんが、
「前の仕事が押してるんで30分くらい遅れるらしいですよ。先に始めててくれって」
「そう、それじゃ仕方ないわね」
 松下さんは店員さんを呼んで料理を注文し始めた。
 うわ、まだ誰か来るんだ。誰だろ、メーカーの人かな?
 しばらくすると料理が続々と運ばれてきて、いい香りが辺りに漂って。
 左隣の席の飯島さんと音楽の話をしているうちになんとなくその場の雰囲気にも慣れてきたせいか、私のお腹が小さく悲鳴を上げる。
 だって、ものすごくおいしそうな料理が目の前にあるんだもん!
 ご飯を食べながら、山岡さんとお菓子の話をしたり、中川さんとこの間見せてもらった撮影現場の話をしたり。すっかり打ち解けた雰囲気。
 ふいに外で人の声がした。
 コンコンとノックされ、『お連れ様がお見えになりました』という声。
 がちゃりと開いた扉から現れたのは、キャップを目深に被り、ジーンズにジャンバーというラフなスタイルの男の人。どう見てもメーカーの人には見えない。
「すんません、遅くなりました」
「こちらこそ、お言葉に甘えて先に始めさせてもらったわよ。さ、座って座って」
 松下さんに促されて、その男の人は空いた席の後ろでジャンバーとキャップを脱いだ。
 ………………。
 えええええええぇぇぇぇぇぇっ!
 あまりの驚きに私の手から滑り落ちたお箸が、カツンと軽い音を立てて床の上に転がった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 続々とオリキャラが出てまいりますが(汗)
 話の展開上、しょうがないといいますか。
 ま、便宜上名前をつけてるって程度のキャラですので。
 さて、ラストに登場したのは誰だ(笑)

【2007/12/07 up】