■Confidential Message【2】 土浦

【Side R】
 『CMに出る』── 自分たちにはよほど縁遠いものだと思っていた。
 そんな別世界の話が突然、香穂の元にもたらされた。
 どうしよう、と香穂は俺に意見を求めてきたが、俺は答えなかった。答えられるわけがない。
 もちろん、香穂のヴァイオリンが認められたことは素直に嬉しい。映像への出演依頼だって、自分の惚れた欲目だけでなく香穂の容姿の愛らしさが第三者の目にもそう映っている、 という証明でもある。
 だが逆に、香穂の姿がCMとしてテレビで放映された後のことを考えれば、手放しで喜ぶわけにはいかなかった。 学院内の『日野香穂子ファン』にすら辟易しているというのに、それが全国規模となったとしたら。『CMで大ブレイク!』とテレビを賑わせているタレントたちのように、そのCMがきっかけとなって香穂と俺の歩む音楽の道が分かたれてしまったとしたら──。
 ── 考えただけでもゾッとする。
 本当はきっぱりと断ってほしかった。
 吉羅理事長がCM出演を承諾したということは、香穂は学院の生徒数確保のための広告塔として利用されるということ。 『プロフィール非公開』といっても、音楽祭関係者や学院の生徒から簡単に情報は漏れる。『星奏学院の日野香穂子』というプロフィールはあっという間に知れ渡るだろう。
 まだ現実になってもいないことで俺が頭を悩ませていることが態度に出ていたらしく、香穂とはなんとなくギクシャクしてしまっていた。
 そして金曜日。
 香穂の家にCMディレクターとやらが話をしに来る日になった。
 学校からの帰り道、CMの話を故意に避け、どんどん重くなっていく雰囲気の中では会話も続かず。
 香穂を家に送り届け、自宅に帰ってからは何をしても手につかなかった。
 頼まれたことはどんなに困難に思われても引き受けてしまうようなお人好しな香穂は、どんな答えを出すのだろうか── そればかりが気になっていた。
 電話でもしてみようか、と携帯を手に取った瞬間ディスプレイがパッと点灯し、鳴り出した着信音にドキリとする。表示されているのはもちろん『香穂』。
「── もしもし、どうした?」
『今、忙しい?』
「いや、大丈夫」
『あのね、お願いがあるんだけど──』
 そう言って切り出した香穂の『お願い』に、俺は大きな溜息を吐いたのだった。

*  *  *  *  *

 翌日。
 俺たちは電車で2駅離れた街にあるスタジオに来ていた。
 昨夜、家に来た松下さんから別のCMの撮影を見学に来ないかと誘われたらしい。香穂がCM出演の返事に迷っていると、決断は一度現場を見てからでもいいから、と。
 保護者の方も一緒に、と言われたものの、香穂の両親は親戚の法事で留守らしく、昨日の電話で『一緒に行ってほしい』と頼まれれば断るわけにもいかず。
 受付で松下さんを呼び出してもらうと、彼女は俺の顔を見るなり咎めるように眉をしかめた。
「あ、あのっ、今日うちの両親、法事でいなくって! 保護者ですっ!」
 俺の腕をガシリと掴んで訴える香穂の必死な様子に、松下さんは諦めの溜息を吐いて、
「まあ…今日ここで見聞きしたことは、他言無用ってことでよろしくね」
 と苦笑してみせた。
 ほっと胸を撫で下ろす香穂と共に連れて行かれたスタジオは、想像に反して雑然としていた。
 奥にピンクと白を基調にした少女趣味な部屋のセットが組まれていて、その前をトレーナーにジーンズといったラフな格好のスタッフが右往左往している。
「今日はね、香穂子ちゃんのCMと同じメーカーのクッキーのCM撮りなの」
 『香穂子ちゃんのCM』── もう出演が決まったような松下さんの物言いに思わず眉を顰めた。
 そんな俺の心を知ってか知らずか、松下さんはニコニコとご機嫌で香穂に話しかけている。
「えーっと、撮影中はもちろん私語禁止ね。それから、ウェブで流すメイキングムービー用に1台、ずっと回ってるカメラがあるから、休憩中も大きな声は出さないほうがいいかも。 あ、目立ちたいなら止めないけど」
 ブンブンと横に首を振る香穂を見て、松下さんはクスクスと楽しそうに笑う。
 そして、最終的に案内されたのは、セットから離れたスタジオの隅。会議机を2つ並べて、周りにパイプ椅子が並べられている場所だった。
 おそらくスタッフの休憩場所なのだろう、机の上には大きなカゴに山盛りのお菓子とペットボトルのジュース、紙コップが置かれている。
「ジュースもお菓子も遠慮なくどうぞ。じゃ、楽な気持ちで見てて」
 そう言って、松下さんはスタッフが集まっているセットの方へと行ってしまった。

「…どうしたんだ?」
 セットの方向をぼんやりと見つめたまま立ち尽くしている香穂。声をかけると、はっと我に返ったように身体をぴくりと震わせ、俺の顔を見ると大きな溜息を吐いた。
「……なんか、すごく緊張しちゃって」
「お前が緊張してどうする。そんなんじゃCM出演なんて到底無理だな」
 口に出せない思いを皮肉に込める。
「そうだよね……」
 香穂子は眉根を寄せて、憂鬱そうにもうひとつ溜息を吐いた。
 それに反して、俺の口元には笑みが浮かぶ。このままCM出演なんて断ってしまえばいい。
 俺は香穂子を椅子に座らせると、その隣に腰を下ろし、撮影準備に忙しく動き回っている人々の動きをなんとなく目で追った。

 俺たちがいる場所の反対側の大きな扉が開き、ぞろぞろと人が入ってきた。
「おはようございま〜す!」
 甲高い声。
 大人たちの後ろから姿を現したのは、白いタートルネックのセーターに赤のタータンチェックのミニスカートの少女。俺たちより少し年下、といったところか。
「あ、霜月かれんちゃんだ」
 香穂がぽつりと呟く。
 テレビでよく見かけることのある目の前の少女はそんな名前だった、と思い出して、ああ、と相槌を打つ。
「わー、やっぱり本物のほうが可愛いよね〜」
 確かにクラスメイトたちの中にもファンだというヤツもいるし、弟の部屋にはポスターが貼られている。 が、テレビを賑わせているどんなアイドルよりも香穂のほうが可愛いと思っている俺としては、別段興味もないのでどうでもいいのだが。
 黙っていた俺が目の前のアイドルに見とれていると思ったのか、香穂が腕組みをしている俺の袖をくいっと引っ張ってニヤリと笑った。
「サイン欲しいとか思ってる?」
「思うわけないだろ……まあ、テレビで見てた人間が目の前にいるってのは不思議な気分だけどな」
「だよねー」
 くすくす笑う香穂はすっかり緊張がほぐれたようだった。
 アイドルがセットに上がると、カメラマンがデジカメで写真を撮り始めた。
 少女趣味な部屋のセットに、アイドルはぴったりとはまり込んでいる。用意されていたクッキーを手にポーズを取り、何度もフラッシュの眩しい光が辺りを照らし。
 数枚撮ると、アイドルやカメラマン、松下さんたちが頭を寄せ合ってパソコンの画面に表示された画像に見入ってあれこれ話していた。
 再びセットに戻ったアイドルにスタッフが駆け寄り、髪型を直したり。
 初めのうち俺たちは呆然とただ目の前の光景を見ているだけだったのが、そのうちダメ出しをしてみたり、香穂が目の前のアイドルの真似をしてポーズを取ってみたり、新製品らしいお菓子の味見をしてみたり、とふたりともが結構楽しんでいた。
 そうして撮影は慌しくも和気藹々とした雰囲気の中で進められ、数時間後にすべて終了した。

*  *  *  *  *

 黙って帰るのもマズイだろうと、片付けの進むスタジオの隅で待っていると、大きなバッグを肩からかけた松下さんが駆け寄ってきた。
「答え、出た?」
 ニコリと笑う松下さんに香穂はコクリと頷き、
「よろしくお願いします!」
 ガバッと頭を下げた。
「なっ! お前、やる気かっ !?」
「そう言ってくれると思ってた!」
 俺と松下さんの声が重なる。
「じゃあ早速楽譜渡しとくね。録音は2週間後の土曜日、撮影は日曜日。練習期間、あんまりないけど大丈夫?」
「あ、はい、なんとかなると思います」
「よーし、じゃあお願いね! ちゃんとした契約は、明日にでもお家に伺うから!」
 愕然と立ち尽くす俺を無視したような会話が続く。その声を俺は信じられない気持ちで耳に入れていた。

 スタジオを出て、駅に向かって歩く。
 香穂はもらった楽譜を胸に軽やかに、俺は引きずるような重い足取りで。
「── 本気、なのか…?」
 ん?、と俺を見上げた香穂は、うん、とはっきりと頷いた。
「あのね、撮影見てたら……、アンサンブルみたいだな、って思ったの」
「は?」
「かれんちゃんが旋律で、それをメイクさんが綺麗に飾って、他のスタッフさんが低音で支えてて── ね、アンサンブルみたいでしょ?」
「そりゃ、みんなで作りあげるって点じゃそうかもしれねえが、それとこれとは話が──」
「リリも喜ぶと思うんだ」
「はあっ !? なんでそこでリリが出てくんだよっ」
 思わず張り上げた声に驚いて、慌てて手で口を塞ぐ。それを見て、香穂はクスクス笑い、
「もちろん私にはかれんちゃんみたいにカメラの前でニッコリ、なんて無理だと思う。でも、私はヴァイオリンを弾くんだよ? 私が弾いた曲を気に入ってくれたり、 ヴァイオリンっていいな、って思ってもらえたら素敵じゃない? これも『音楽の楽しさを伝える』ってことにならないかな」
 確かにあのちんまい羽根付きは大喜びするだろう。だが──
「お前、CMに出るって意味をちゃんとわかってんのか? 理事長が認めたってことは、学院の『客寄せパンダ』にされるってことなんだぜ?」
「いいじゃない。音楽を志して学院に入る子が増えるってことでしょ、大歓迎だよ」
 あまりにあっけらかんと言い放つ香穂に、俺は頭を抱えた。香穂の決意が固い以上、もう何を言っても無駄なのか。
 客寄せパンダ、なんて口実もいいところだ。単に俺だけの香穂でいてほしいからCMになんて出てほしくなどない── そう言ってしまえれば簡単なのに、 照れが先行して口に出せない自分に心の中で悪態をつく。
「あ、クライスラーの『愛の喜び』だ」
 松下さんから手渡された大判の封筒からごそごそと楽譜を出した香穂が呟いた。
「ピアノ伴奏かぁ……梁、ご協力お願いしまーす ♥」
 満面の笑みで香穂が差し出す楽譜を、俺はうっかり受け取ってしまっていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 さぁ、香穂子さん、CM出演決定ですっ!(笑)
 うー、この先の展開、現在2種類浮かんでるんだよね。
 どっちで行くかなー。
 クライスラーはコミクスでも出てきたのでなんとなく使ってみた。
 ロスマリンとどっちにしようかと考えたんだけど、愛の喜びのほうが派手だから(笑)

【2007/11/18 up】