■Ecdysis【16】 土浦

 香穂子のヴァイオリンのネックを掴む手と、口元に当てていた手が力を失ったようにだらりと降ろされた。俯いた視線は足元をぼんやりと見つめている。
「……今の演奏、聞いてたの……?」
「……ああ」
「…どう…だった…?」
 辛そうに眉を寄せて唇を噛み締める香穂子。だが、ここでお世辞を言っても何にもならない。梁太郎は腕を組んで、真っ直ぐに香穂子を見据えた。
「……春からこっち、お前が俺に演奏を聴かせたがらなかった理由がわかった」
「……うん」
 小さな溜息が香穂子の口から漏れる。
 梁太郎は身体に穴が開きそうなほどに感じる香穂子以外からの視線に耐えかね、ごほっと咳払いすると、しばし逡巡した後、意を決してピアノの方へと歩み寄った。
「すいません、ピアノ、いいですか?」
 ピアノ椅子に座っていたのだめがぴょこんと立ち上がり、にこりと笑って席を譲って仲間たちと合流していた千秋の傍に駆け寄った。
 その腕をぐいっと引っ張り耳打ちする真澄。
「ちょっと! 誰よ、あの子 !?」
「真澄ちゃんが思い浮かべろって言った相手デス」
「あら♥」
 両手を頬に当てた真澄はうっとりと微笑むと、興味津々に高校生二人の様子を眺めた。
「梁……?」
 梁太郎はピアノの前に座り、手首を回している。香穂子は怪訝な顔でその名を呼ぶ。
「ん?」
「何を……」
「もう1回演奏するんだろ? 伴奏してやる」
 静かに鍵盤の上に置かれた梁太郎の指が動いて、美しいアルペジオが鳴り響く。
「え…?」
「ちゃんと曲の勉強したからな。表現を考えるのには音を出してみるのが一番だろ? というわけで、お前の伴奏してやる程度には弾けるさ。心配すんな」
 香穂子の目が大きく見開いたと思えば、一転、すぐにクスクス笑い始めた。
「……おい、何笑ってんだよ。俺、何か変なこと言ったか?」
「ううん、ちょっと思い出しただけ」
「はぁ? ……いいから早く準備しろよ」
 最初の音の位置に指を置き、香穂子の音を待つ。
 しかし、香穂子は動かない。穏やかな表情でじっと梁太郎を見つめていた。
 もう一度、演奏を促す言葉をかけようかと口を開きかけたものの、今はそうすべきではないような気がして梁太郎は口を閉ざす。そのまま、香穂子と同じように彼女の目を見つめた。
 どちらも視線を外すことなく、時が止まったようにしばし見つめ合う。
 ふと香穂子がヴァイオリンを持ち上げ、腕に抱えた。赤ちゃんを抱いて顔を覗き込むような格好でヴァイオリンに視線を落とす。
 想いを巡らすように目を閉じ、再び開くと同時にヴァイオリンを肩に乗せ、天井を仰ぎ見て大きく息を吸い込んだ。
 梁太郎はそんな香穂子の一連の動きをただ見守った。
 上がっていた顎がすっと下がり、ヴァイオリンに乗せられる。右手がふわりと上がり、弓が弦に乗せられ、香穂子の視線が再び梁太郎の上に戻ってきた。
 目を合わせ、呼吸で合図して、弓が弦の上を滑り始める。
 軽やかに流れ出すロンド。
 香穂子が奏でるメロディを梁太郎がなぞるように追いかけて。
 優しく艶やかでしなやかな力強さを持ち合わせたヴァイオリンの音色が、柔らかく包み込むようなピアノの音色と絡み合う。
「あ……音が」
「…変わった、わね」
 峰と清良が顔を見合わせ、ニヤリと笑ってガッシリと手を握り合う。
 うっとりと聞き入っていたのだめがふと隣の千秋を見れば、その口元にも笑みが浮かんでいて。
「── どですか、先輩?」
 シャツの裾をくいっと引っ張り、下から顔を覗き込む。
「お前らのアホみたいに単純な計画、まんざらでもなかったみたいだな」
「えへん♪」
「バカ、調子に乗るな。結果オーライなだけじゃねーか」
「ムキーッ! ………でも、いいコンチェルトになりますね。あ、アンサンブルも!」
「── うん」
 のだめは千秋の腕に自分の腕を絡ませ、肩に凭れ目を閉じて、流れ続ける音楽に耳を傾ける。
 音楽家たちの温かな眼差しに見守られながら、香穂子と梁太郎は視線が合えば微笑み合い、ただひたすらに相手の音を追いかけた。

*  *  *  *  *

 大学からホテルへの帰り道。
 闇が迫る西の空は微かに赤く、仄明るい。
 灯った街灯が足元を明るく照らしている。  指を絡ませて握り合った手が、二人の間で小さく揺れて。
「── 体調、どうだ?」
「え?」
「二日酔い」
「あー、すっかり忘れてた」
 クスクスと笑う香穂子の顔に、今朝までの重苦しさは見られない。
「……吹っ切れた、のか?」
「んー……」
 てっきり『うん!』と元気な答えが返ってくると思っていた。まだ何か不安に思うことがあるのだろうか?
 ちょうど小さな公園の前に差し掛かった。いくつかの遊具と生い茂る緑。少し前まで近所の子供たちが遊んでいたのであろうその場所に、闇の迫る今は人の姿はない。
 寄ってくか?、と声をかけようと梁太郎が考えた時、香穂子がつないだ手をぐいっと引っ張り、公園に足を向けた。遊具の傍に置かれたベンチに手を繋いだまま並んで腰を下ろす。
「── 『吹っ切れた』っていうのとはちょっと違うかも」
 香穂子は繋がれたままの右手を引き寄せて膝に乗せると、無意識なのか、親指を動かして梁太郎の親指の爪をなぞる。くすぐったかったけれど、梁太郎は何も言わずそのままにしておいた。
「違う、って?」
「えーとね、うまく言えないんだけど……例えば、お財布をなくしたとするじゃない?」
「は?」
「いいから聞いて。で、『お財布がない!』ってひとりで大騒ぎしてたら、通りがかりの親切な人たちが一緒に探してくれるんだけど見つからなくて。 『しょうがない、新しいお財布買おう』と思い始めたところに、直前に寄ったスーパーのレジの人が『忘れ物ですよ』って届けてくれた── そんな気分、かな」
 えへ、と照れくさそうな笑みを浮かべて肩をすくめる。
「なんだよそれ………」
 何かをきっかけに失くしていた音楽への気持ちを取り戻した、ということなのだろう。
 梁太郎自身も、香穂子と出会い、コンクールやアンサンブルに参加することで、一時は封印していた音楽への想いを取り戻したのだ。香穂子の言いたいことはわかるような気がした。
「── それにしても、またあの楽譜でアンサンブルとはな」
「ごめん、また梁を巻き込んじゃったね」
 楽しそうに香穂子は笑う。『ごめん』と謝りつつも、まったく申し訳なさそうな顔には見えない。
 香穂子と梁太郎による演奏の後、千秋は香穂子にいくつかのアドバイスと『この調子で頑張れ』という一言を与え、香穂子はその言葉に顔を輝かせた。
 そして、さらに千秋から提案が出され、実行された。
 アンサンブルのピアノをのだめから梁太郎に変更、のだめはクラリネットパートへ移り、そのパートは千秋が編曲することになったのだ。
 おまけに最終日の発表会で演奏するのが決定事項となっていた。
 この音楽祭で舞台に立つことは考えていなかった梁太郎は一瞬躊躇ったが、嬉しそうに目を輝かせている香穂子を見れば、辞退する理由はない。 久しぶりに香穂子と、そしてプロの音楽家たちと音を合わせられることに、気持ちが高揚してくるのを感じていた。
「で、今日は朝からアンサンブル三昧だったのか?」
「ううん、朝はとてもじゃないけどヴァイオリン弾ける状態じゃなかったもん」
 香穂子はデニムのミニスカートからすらりと伸びる足を前に投げ出し、爪先をひょこひょこと動かした。
「……今日の午前中はね、のだめさんたちがミニコンサート開いてくれたんだ。プロの人たちが私のためだけに演奏してくれたんだよ、贅沢だと思わない?」
「へえ、それは俺も聴きたかったな」
「素敵だったよ〜。ほんと、ビデオに撮っておいて永久保存版にしたかったな。でも、朝、峰さんにホールから連れ出された時は、私のあまりの不甲斐なさに 地獄の特訓でも受けさせられるのかと思ってちょっと怖かったけど」
「俺がホールに行ったら、火原先輩が『人さらいだ!』って大騒ぎしてたな」
「え、うそ……誤解解かなきゃ!」
「大丈夫、俺が一応説明しといた」
 ストレートな感情表現をする先輩の慌てっぷりを想像し、あるいは思い出し、二人は顔を見合わせて同時にぷっと吹き出した。
 しばらく笑った後で、香穂子はベンチの背凭れに背中を預け、伸ばした足の爪先を見つめる。
「……それからね、リクエストはないか、って聞かれたの。私、胸がいっぱいで曲が思い浮かばなくて── 気がついたら『エリーゼのために』って口が勝手に言ってた」
「っ……そ、そうか」
 思わず顔が熱くなる。
 幼い頃の二人の思い出の曲。それを香穂子が無意識に選んでくれたことは、梁太郎にとって嬉しいことだった。
「同じ曲でも、弾く人によってやっぱり印象が違うよね。のだめさんのエリーゼは、ふわふわの毛布に包まれてるみたいだった」
「…じゃあ、俺のは?」
「梁のエリーゼは、優しくて── ちょっとドキドキする」
 囁くような香穂子の声。
 ちらりと盗み見れば、香穂子は柔らかな笑みを浮かべた顔を赤く染め、梁太郎の顔を見つめていた。
 気恥ずかしさに外した視線は宙を彷徨う。代わりに、繋いだ手にほんの少し力を込めた。
「そりゃあ……お前のこと考えながら弾いてるからな」
「うん」
 香穂子の手にも少し力が込められて。そのまましばし、すっかり暗くなった空を見上げて、無言で相手の手の感触だけを感じていた。
「── ねぇ、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
 梁太郎が香穂子の方へ顔を向けると、今度は香穂子が視線を泳がせ始めた。
「んーと……、やっぱりいい」
「なんだよ、言ってみろよ。気になるだろ」
「…今はいい。発表会が終わってからにする」
「……わかった」
 梁太郎は申し訳なさそうに俯く香穂子の頭に空いている手をポスンと乗せて、くしゃりとかき混ぜた。
「さて、ぼちぼち帰るか」
「そうだね、なんか……お腹空いちゃった」
「おっ、『日野香穂子、完全復活』か?」
「えへへ、そうかも」
 先にベンチから立ち上がった梁太郎が香穂子を引っ張り上げる。
「よし、ホテルに戻ってメシ食おうぜ」
「うん!」
 再び二人並んで歩き始める。
 ずっと繋いだままだった手を大きく振って。
 もう大丈夫── 梁太郎は楽しげに歩く香穂子を見下ろしながら、あの音楽家たちに心から感謝していた。

*  *  *  *  *

【Intermission】
「── やっぱりのだめさんは千秋さんのことを想いながら弾いてたんだろうなぁ」
「は?」
「あの二人、大学時代からの付き合いで、恋人同士なんだって」
「マジで?」
「うん。清良さんと峰さんもラブラブカップルなんだよ」
「げっ…」
「やだ、それどういう意味?」
「いや……人の好みってわかんねーな、と思ってな」

 その頃、裏軒にて。
「── ぶしゅんっ!」
「あら、龍、風邪?」
「いや、なんか急に鼻がムズッとした」
「夏風邪は『なんとか』がひく、って言うわよね、龍ちゃん?」
「くっ……う、うるせえっ!」
「のだめ、峰のバカが…いや、風邪がうつらないうちに帰るぞ」
「先輩……ミもフタもない……」
「今日中にルスランの編曲しなきゃいけないんだ。バカ、いや風邪なんかうつされてたまるか」
「しつこいぞ千秋っ!」
「先輩、なんだかご機嫌デスね?」
「そうか?」
「千秋なんか大嫌いだーっ! とっとと帰れ! この音楽バカ!」
「そういうバカならバカで結構。お前こそヴァイオリンバカだろうが」
「……千秋……。…そうか、そうだよな、俺はヴァイオリンバカだよな…。よーし、俺はやるぞ! 渾身の演奏をしてみせるっ! ぐはははっ!」
「……やっぱバカがうつる。帰るぞ、のだめ」
「むきゃー…」

〜つづく〜

【プチあとがき】
 グダグダ感たっぷりでお届けしておりますこの長編、そろそろ佳境でございます。
 後半、会話ばかりでちと反省。
 だが、ついにアンコール発売カウントダウンな時期にワクテカしてる頭じゃこれ以上はムリ。
 香穂子さんもとりあえず復活したようですので、次で終われるかなー。
 今回、本編入れられなかったネタをIntermissionとして入れてみました。
 ま、入れるほどのネタでもないんだけどねー。

【2007/09/18 up】