■Ecdysis【17】 土浦

 客席の後ろのほうで遠慮がちに楽器の準備をし終えた香穂子は、舞台に向かって降りていく階段状の通路でふと足を止めた。
 ぐるりと舞台を見回す。
 オーケストラのメンバーのほとんどが既に席についていて、思い思いに音を鳴らしたり、雑談したりしている。
 人の声と楽器の音が無秩序なざわめきとなってホールに満ちていた。
 このホールに来るのは今日で3回目。
 だがここでまともな演奏をしたことは、まだ一度もない。
 1回目は散々な演奏を披露して追い出され、2回目は演奏すらせぬまま連れ出され、そして今日。
 早く舞台に上がらなければ、と思っても、足は思うように動いてはくれなかった。
 立ち上がったコンマスの学生が高く掲げた弓の先をくるんと振って、チューニング、と声を上げた。オーボエの学生が鳴らすAの音に全員が音を重ねていく。
 香穂子も通路に立ったまま、ぎこちなく調弦を済ませた。
「── おい」
 突然後ろから声をかけられ、香穂子は跳ねるように振り返ると、そこには客席の後ろの扉から入ってきたのであろう千秋の姿があった。
「ほら、行くぞ」
 千秋は手にしている総譜でぽすんと香穂子の頭を軽く叩く。
 香穂子が小さな声で、はい、と答えたものの、千秋は追い越していくことなくその場に立っていた。
 狭い通路の後ろを塞がれてしまえば、後は前に進むことしか残されていない── もちろん逃げ出したりするつもりは毛頭ないが。
 大きな深呼吸をひとつ、香穂子は真っ直ぐに前を見据えて舞台への通路を降りていった。

 舞台脇の階段を上がり、舞台上に香穂子が姿を見せると、オケのメンバーがざわめいた。
 『弾けないなら辞退すればいいのに』『今日もダメなんじゃない?』── そんな言葉が嘲笑に混じってはっきりと香穂子の耳に届く。
 ずきりと胸が痛んだ。ぐっと噛んだ下唇の痛みよりもずっと痛い。
 と、ガタンと誰かの椅子が派手な音を立てた。
「日野ちゃん!」
 ひとり立ち上がった火原がトランペットを握りしめ、心配そうな顔で香穂子を見つめていた。
「火原先輩……」
 火原は心配そうな顔をにぱっと笑顔に変え、右手の親指をぐいっと突き出した。
「日野ちゃん、楽しもうね!」
「─── はい!」
 香穂子も笑顔を返す。
 そして、オケのメンバーの方へ向けて姿勢を正した。
「ご迷惑をおかけしました! 改めて、よろしくお願いします!」
 深々と頭を下げた。
 パラパラと起こる励ましの拍手。手を叩いているのは星奏高等部の生徒と、付属大学1年の顔見知りだけだったけれど。
 頭を上げた香穂子の顔には、ほっとしたような穏やかな笑みが浮かんでいた。
「練習始めるぞ。今日は第1楽章の頭から全通しで──」
 千秋がタクトを上げると、ザッと音を立てて楽器が準備される。一瞬にして緊張感が高まった。
 香穂子もヴァイオリンを構え、視線を指揮者へと向ける。小さく頷くと、同じ小さな頷きが返された。
 動き始めるタクト。ゆったりと曲が紡がれ始めた。
 しばらくはオケだけで曲が進んでいく── 香穂子はタクトの動きをじっと見つめ、出番を待ち構える。
 そして、香穂子はすぅっと息を吸い、弦の上に弓を添える。
 ソロの始まり── 伸び上がっていく艶やかで力強い音色。
 一瞬にしてオケに広がった驚きと動揺に、『集中!』と千秋の檄が飛んだ。

*  *  *  *  *

「── いよいよだな」
 舞台袖に通じる扉の傍の壁に凭れ、ヴァイオリンをそっと抱いて目を瞑っている香穂子に、梁太郎は静かに近づいて声をかけた。
「……うん」
 香穂子は目を開けることなく返事をした。
 梁太郎もその隣に立ち、壁に凭れる。硬い壁の冷たさが背中に心地よい。
「この発表会が終わったら、音楽祭も終わっちまうんだな」
「そうだね……、終わっちゃうのがなんだかもったいないな」
「確かに、な」
「── 初めの頃は辛いこともあったけど…、楽しかった。ソリストの経験もできたし、のだめさんたちにも出会えたし」
「だな── この1週間、ソロとアンサンブル、よく頑張ったよな、お前」
「そう、かな?」
「ああ、俺が保証する。だから、今日は自信持って弾けよ」
「うん……いろいろありがとね」
「おう……って、俺は礼を言われるようなことはしちゃいないぜ?」
 香穂子は、そんなことないよ、とクスクス笑う。
「梁はね、私の忘れ物、届けてくれたよ」
「…は?」
 意味がわからず、ぽかんとした顔で梁太郎は香穂子を見やる。依然香穂子はクスクス笑いを続けていた。
「── のだめさんや清良さんのプロの音はやっぱりすごかった。心から演奏を、音楽を楽しんでた。私も音楽を楽しまなきゃ、って焦った。でも、うまくできなくて……」
 香穂子はぽつりぽつりと噛み締めるように言葉を紡ぐ。真剣な表情で、しかし硬さはなく穏やかな笑みを浮かべて。今の話がどう『忘れ物』に関係するのかはわからなかったが、 梁太郎は相槌を打つこともなく香穂子の言葉に耳を傾けた。
「── そしたら梁が言ってくれた── 『お前の伴奏してやる程度には弾けるさ、心配すんな』って。なんだかコンクールのこと、思い出しちゃったよ」
「……ああ」
 あの時、香穂子が『ちょっと思い出しただけ』と言っていたのはこれだったのか、と梁太郎は納得した。コンクールに無理矢理参加させられることになって 途方に暮れていた香穂子の練習の手伝いをしてやった時、同じようなことを言ったような気がする。
「あの頃は毎日大変だったけど、少しずつ弾けるようになって、少しずつ拍手してくれる人が増えていって……私の演奏で笑顔になってくれる人が増えていった。 人が喜んでくれるのが嬉しくて、楽しかった。コンサートの頃も、いろんな人と音を合わせてひとつの音楽を作っていくのが楽しかった。 でも、音楽科に移ってからはとにかくうまくならなきゃっていう思いでいっぱいになって、あの頃の気持ちを忘れちゃってたんだ。 それを、梁が届けてくれたんだよ」
 そう言って、香穂子は首を傾げて、梁太郎の顔を見上げた。その顔は、すっきりとした真っ直ぐな笑顔で、キラキラと輝いているように見えた。
 ドキリとして、気恥ずかしさに思わずあさっての方向へ顔を逸らす。
「そ、そうか……お前の先生が、お前に基礎ばかりやらせてたのも、そういう気持ちを思い出せってメッセージだったのかもな」
「うん、たぶんね」
 ふと思い出して、梁太郎は視線だけを香穂子に戻した。
「……ってことは、俺はお前の例え話で言うところの『スーパーのレジ係』ってことか?」
「そういうこと、だね」
 顔を見合わせたまま、同時にぷっと吹き出す。本番前にこんな緊張感のなさで大丈夫なのか、とも思うが、笑いは止まらなかった。
 ようやく笑いが落ち着いて、梁太郎は口を開く。
「……なあ」
「……ん?」
「こんな時に悪いとは思うが……、この間のお前の『お願い』、今聞いてもいいか?」
「………」
 しばらく待っても答えが返ってこない。梁太郎は頭ひとつ小さな香穂子をおずおずと見下ろした。
 いつの間にか少し俯いてしまった香穂子の表情は見えなかったが、髪をシニヨンにしているせいでよく見える耳が心なしか赤い。
「あ、いや…、お前のことだからさ、なんか突飛なお願いしそうだから、心の準備しとこうかと思ってな。嫌ならいいんだ── 悪い」
「ううん……でも、今は聞かないほうがいいと思うよ」
「……そういう言い方されると余計に気になるな。言っちまえよ」
 香穂子は顎に指を当てて、うーん、と唸っている。
 その時、ガチャリと音がして、すぐ傍の扉が開いた。
「あっ、いたいた! 日野さん、袖にスタンバって!」
 腕に『音楽祭実行委員』の腕章をつけた学生が慌てた様子で手招きする。
「あ、はい、すぐ行きます! ── じゃ、行ってくるね」
 実行委員に元気よく返事をして、梁太郎に向けて笑顔を送り、踵を返して扉へ向かう。
 あ、と立ち止まって、くるりと振り返った。
「あのね─── 発表会終わったら、力いっぱい抱きしめて。背骨が折れるくらい」
「……は?」
 梁太郎は一瞬にして固まった。てっきり『どこそこのケーキがおいしいらしいから連れてって』とか、そういう『お願い』だと思っていたから。
 ほらね、と勝ち誇ったような笑みを浮かべる香穂子をぼんやりと見つめながら、やっぱり突飛なことを考えてたな、と心の中でひとりごちつつ、顔が熱くなり、 手に汗が吹き出すのを感じていた。
「聴いててね── 私の『音』」
 くすっと笑った香穂子はそう言って、ステージ衣装の裾を翻して扉の向こうに姿を消した。
 残された梁太郎は真っ赤な顔でしばらくその場にただ立ち尽くしていた。

*  *  *  *  *

 発表会は大成功のうちに終わった。
 ピアノクラスの学生の発表に、会場は唸り、惜しみない拍手を送った。
 協奏曲は香穂子のソロとオケが一体となり、人々を音楽に引き込んだ。演奏の後は、いつまでも拍手が鳴り止まなかった。
 舞台袖で聴いていた梁太郎の心にも届いた『香穂子の音』。
 開場前に配られたプログラムには載っていなかった飛び入りのようなアンサンブルは、メンバーの豪華さとオケに引けをとらない迫力の演奏に喝采を浴びた。
 舞台の上で受ける拍手はやはり格別だ、と梁太郎は満足感に浸っていた。
 そして今、カフェテリアで催されるささやかな打ち上げパーティになかなか姿を見せない香穂子を探して、梁太郎はキャンパスを走っている。
 いる場所はなんとなくわかっていた。その場所をまっすぐに目指す。
 重い両開きの扉を開けると、薄暗い広い空間はしんと静まり返っていた。
 ついさっきまで人で埋め尽くされ、割れんばかりの拍手が起こっていた場所── その奥、舞台の上に香穂子はひっそりと佇んでいた。
 中央より少し左手寄り── ソリストの位置。普段着に着替え、纏めていた髪も下ろしている。
 ゆっくりと通路を降りていくと、気づいた香穂子がにこりと笑う。
「── やっぱりここか。もう打ち上げ始まってるぜ」
「うん」
 下まで降りると梁太郎は舞台に手をつき、ぐっと腕に力を入れて勢いつけて飛び上がる。舞台に上がるとパンパンと手をはたいて、香穂子の前に立った。
「よくわかったね、私がここにいるって」
「まあな。会心の演奏ができた時は、その空気にしばらく浸ってたいもんだろ」
「そっか」
「それから── お前のお願い、聞いてやらなきゃな。だが……そういうのは別に、発表会終わったら、とかじゃなくても──」
 もごもごと口の中で呟いていると、香穂子は梁太郎を見上げて苦笑しながら、ほんのり赤く染まった顔の前でパタパタと手を振った。
「違うの違うの、そういうんじゃなくて。こんなこと頼めるのって、梁しかいないからさ」
「はあ? ……なんだよ、それ」
 梁太郎が怪訝な顔で髪を掻き上げるのを見た香穂子は、身体の前で両腕を絡ませ、もじもじと身体を揺らして、俯きがちに小さな声で呟く。
「えとね……ほんとは自分で自分を抱きしめたかったんだ── あ、ナルシズムとかじゃないの。ただ、この音楽祭でもらったり、なくしかけてた大切なものを、 ぎゅっと身体に閉じ込めたいっていうか……。でも、自分で自分を抱きしめるって難しいんだよね。だから梁に抱きしめてもらいたかったの。 ── またいつか大切なものを見失うことがあるかもしれない。そんな時に梁に抱きしめてもらったら、この音楽祭で出会った人たちや感じたことを思い出して、また頑張れると思うから」
 上目遣いで梁太郎の様子を覗う香穂子。そういうのって、変かな?と赤い顔で訊ねた。
「香穂……」
 梁太郎が手を伸ばそうとした時、香穂子がパンッと音を立てて踵を合わせ、真面目な顔でビシッと敬礼した。
「日野香穂子、生まれ変わったつもりで頑張ります!」
 張りのある声が、二人の他に誰もいないホールに響く。思わず梁太郎はぷっと吹き出した。
「バーカ、生まれ変わってどうすんだよ。せっかく俺が届けたお前の忘れ物、なかったことにするのか?」
「え」
「今までのことは、すべてお前の中で栄養になってると思うぜ。だから、今回は『一皮剥けた』ってところだろうな」
「それって……脱皮? やだ、私、青虫じゃないよ」
 嫌そうに眉を寄せる香穂子に、思わず苦笑する。
「音楽の世界じゃ、卵から孵ったばっかの青虫みたいなもんだろ、俺も、お前も。これから何度も脱皮して── いつか大空へ羽ばたく」
「……梁、それ…ちょっとクサイよ」
「……ツッコむなよ。自分で言って、そう思ったから」
 今度は梁太郎が眉をしかめる番だった。頭をガシガシ掻いて、顔をそむける。
「あーもうっ……打ち上げ始まってるって言ったろ。とっとと行くぞ」
 照れ隠しにポケットに手を突っ込んでドスドスと大股で舞台脇の階段へ向かっていると、梁、と名前を呼ばれて、足を止めてゆっくりと振り返った。
 と、物言いたげな香穂子の目にぶつかる。
「……………………なんだよ」
「……腕」
「は?」
「腕、広げてくれないと、飛び込めない」
 照れ臭さにごほっとむせて、視線を泳がせつつポケットから出した手をだらりと垂らす。それから手のひらを香穂子に向けてゆっくりと横に持ち上げた。
「…………ほら」
 ちらりと盗み見た香穂子の顔には満足そうな笑みが広がっていて。
 香穂子が一歩踏み出す。その足で床を蹴って駆け出して、勢い良く梁太郎の胸に飛び込んだ。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 最後の最後に出てきました。タイトルの『Ecdysis』は『脱皮』という意味でございます。
 ふぃーっ、これにて終了っす!
 長々とおつきあいくださってありがとうございました〜。
 第1話をUPしたのが4月。何ヶ月かかってんだよ、をい。
 結局、途中からグダグダになって、グダグダのまんまフィナーレを迎えてしまいました(泣)
 もっとのだめチームをちゃんと動かしたかったんですが、うーん、イマイチ。
 いろいろとツッコミがおありでしょうが、何卒スルーということでよろしくです。
 ともあれ、コルダファンの方々、のだめファンの方々に楽しんでいただけたなら幸いです。
 さー、アンコール、心置きなくプレイするぞー!

【2007/09/27 up】