■Ecdysis【15】
巨大なお椀型の上に薄く張られた膜の上を小さな球がせわしなく弾み、そこからつながる棒を握る手は曲芸をしているかのように縦横無尽に動き回った。
たった4つしかない音階なのに、その表現は豊かで深く。
地を這うようなトレモロは、クレッシェンドと共に大きく弾けた。
「むほー、真澄ちゃん、相変わらずブラボーデス!」
「ウフフ、ありがとのだめ。このワタシが愛する打楽器ちゃんたちを前にして、ほんの少しでも手を抜くなんてありえないんだから!」
額に浮かんだ汗を拭いつつ、マレットを握りしめた手を高く上に上げて真澄が胸を張る。
ご挨拶代わりに、と始めた真澄の即興での演奏は、まさしく渾身のステージを見ているようだった。
ホールの地下にあるリハーサル室。
さっきまでいた教室よりも少し広い。
奥の壁にはアップライトのピアノが1台、その傍にグランドピアノ。それを取り囲むように弦の3人が立ち、その後ろにはティンパニが並ぶ。
今は全員でピアノ側に椅子を並べて座り、ティンパニの演奏に耳を傾けていた。
「じゃあさ、今度はアナタの演奏を聞かせてよ。ご挨拶代わりに♪」
「えっ」
マレットでびしりと顔を指されて、香穂子は椅子の上で身体を固くした。
「あー真澄ちゃん、それは──」
「あら、この子、ソリストなんでしょ? どれほどのものか、興味あるじゃない」
彼らの計画は、まず音楽を聞かせて弾きたい気持ちを引き出し、アンサンブルで自信を持たせ、最終的にソロを、というものだったのだ。
香穂子にソロを弾かせるにはもう少し── 今はまだ早いと思われた。
香穂子の事情をちゃんと話していなかったのはまずかった、と思った峰が慌てて間に入るが、詳細を知らない真澄は無邪気に要求する。
「真澄ちゃん、香穂子ちゃんの演奏はアンサンブルでも聞けますから」
「あら、いいじゃないの。ベートーヴェンのヴァイコンなんでしょ? ワタシ、あの曲好きなのよ」
「でも……」
すっと清良が立ち上がる。
「……いいんじゃない? わたしたちもまだ、香穂子ちゃんのソロ、聞いたことないし」
「清良……いいのか…?」
「いつまでも先送りにできることじゃないもの。先入観のない真澄ちゃんに聞いてもらって意見もらって。わたしたちからもアドバイスできることがあるかもしれないし」
アンサンブルでの香穂子の演奏を聞く限り、技術的な部分に問題はない。妖精がどうの、とか、ヴァイオリンを始めて1年ちょっと、だなんて、人を担ぐにも程がある、とすら思った。
あとは香穂子の気持ちひとつ。もしかしたらヴァイオリンを弾くのがただ辛いだけの、今朝までの状態に戻ってしまう可能性もある。
だが、ここまでに香穂子のヴァイオリンに対する気持ちに変化が感じられたから。清良はそれに賭けてみようと思ったのだ。
どう?と清良は視線で香穂子に問いかける。
のだめと峰は心配そうな視線を投げかけた。
真澄は突然の緊迫したシリアスムードにわけもわからず、ただ4人の顔を順番に見回して。
カタン、と小さな音を立てて香穂子が立ち上がった。ゆっくりとヴァイオリンを構える。
『いつまでも先送りにできることじゃない』── 清良の言葉が香穂子の頭の中でリフレインしていた。
ちょっとしたトラウマ化してしまったこの曲を弾くのは、正直怖かった。
だが、明らかに今日一日香穂子のために行動してくれている彼らにとにかく応えなければ。
「じゃあ、第3楽章ね」
清良はそう告げると、手にしていたヴィオラを峰に押し付け、代わりに峰の持っていたヴァイオリンをひったくる。
構えた清良は香穂子に向かって小さく頷いた。香穂子もさらに小さな頷きを返す。
そして。
香穂子のソロに、清良がオケのヴァイオリンパートを合わせていく。
甘く軽やかなはずのロンドは心なしか重い。
香穂子は伴奏に飲み込まれそうになるのを必死で堪えてぐっと歯を食いしばり、10分程の曲をなんとか弾ききった。
「どうだった? 真澄ちゃん」
「そうね……」
清良の問いに、真澄は考え事をするように軽く握った拳を顎に当て、その肘をもう片方の手で支える。
「この曲って、ベートーヴェンがなんとかって未亡人に恋して作ったって言われてる曲でしょ?」
「むきゃ、『恋しちゃってルンルン』な曲だったんデスね、この曲」
「『ルンルン』って…古いわね、あんた……とにかく、頭の中バラ色のはずじゃない? そんな悲愴な顔して弾いたんじゃ、恋愛どころか人生お先真っ暗だわよ」
真澄の感想を聞いて、香穂子は眉根を寄せて唇を噛み締めた。
その反応が気に入らなかったのか、真澄は香穂子のもとにツカツカと進み出ると、両手で香穂子の頬をむぎゅっと摘み上げた。
「あーもうじれったいわねっ! 難しく考えなくていいの! あんたにも好きな男のひとりやふたりいるんでしょ? その子のことを思い浮かべながら弾けばいいのよ!
音には気持ちが表れちゃうんだから! ほら、わかったんならもう一回弾いてちょうだい!」
耳まで真っ赤にしてコクコク頷く香穂子に満足した真澄は頬を摘んでいた指を離し、指の形に赤くなった部分をそっと撫で、ニコリと笑って励ますように香穂子の肩をポンと叩いた。
熱くなった顔をぱたぱたと手で仰いで、大きな息を吐いた香穂子が再びヴァイオリンを構える。
その時、ギッと鈍く軋む音と共に勢いよく扉が開かれた。
* * * * *
ある部屋の前で、聞こえてくる音に耳を澄ませる梁太郎。その眉間には皺が刻まれ、表情は険しい。
練習室から千秋が出て行ってから、はたと我に返った梁太郎は部屋を飛び出し千秋の後を追った。
ちょうど建物の角を曲がろうとする千秋の後ろ姿が目に入り、慌てて駆け出した。練習室で思い立つのがあと数秒遅れていたら、確実に見失っていただろう。
足音に気づいた千秋が足を止め、振り返った。
「……どうした?」
追いついた梁太郎が足を止めると、千秋が訊いた。
「あ……その…」
ちょっとした気まずさと気恥ずかしさで思わず口ごもる。
どうして千秋を追いかけようと思ったのか、梁太郎自身にもよくわからなかった。聞こうと思えば顔見知りになった桃ヶ丘の学生を捕まえて聞けばいいことなのに。
「あの……指揮科の教室ってどこですか?」
千秋の眉がピクリと上がる。が、すぐに表情は穏やかになった。
「ついて来いよ」
「え…?」
「俺もちょうど行くところだから」
くるりと踵を返して歩き出した千秋の後を追って辿り着いたのはホール。梁太郎は首を傾げつつもそのまま後に続く。
奥の階段を降り、千秋は『第2リハーサル室』と書かれた扉を押し開けた。
その瞬間、聞こえてきたのはヴァイオリンの音色。
千秋は部屋には入らず、数センチ開けただけの扉を足で固定する。
二人の耳に聞こえてくるのはヴァイコンの第3楽章。
重苦しいソロと、ソロのない部分を埋めるオケパートの軽やかなヴァイオリン。
音色も表現も、完全にソロのほうが圧されている。
思わず梁太郎の眉間に皺が刻まれた。
ちらりと様子を覗うと、千秋もわずかに眉をひそめている。
『どうだった? 真澄ちゃん』
曲が終わって聞こえたのは清良の声。初めて聞く『真澄』という名前に、たぶん峰が電話していた相手が合流したのだろう、と想像する。女性でティンパニなんて珍しいな、と思いつつ。
『そうね……この曲って、ベートーヴェンがなんとかって未亡人に恋して作ったって言われてる曲でしょ?』
が、聞こえてきたのは男の声。なよっとしたオネエ言葉ではあったが。いろんな意味で脱力しそうになった。
『……とにかく、頭の中バラ色のはずじゃない? そんな悲愴な顔して弾いたんじゃ、恋愛どころか人生お先真っ暗だわよ』
口調は柔らかいが、内容は今の香穂子にとってはキツイものだろう。俯いて唇を噛み締める姿が目に浮かぶ。思わず握る拳に力が入った。
『あーもうじれったいわねっ! 難しく考えなくていいの! あんたにも好きな男のひとりやふたりいるんでしょ? その子のことを思い浮かべながら弾けばいいのよ!
音には気持ちが表れちゃうんだから! ほら、わかったんならもう一回弾いてちょうだい!』
直球ストレートなアドバイス。なんだか視線を感じて梁太郎は顔を赤らめ小さく咳払いをした。
次の演奏をもっとよく聞こうとドアに近づいた時、バランスを崩して思わず扉に手を着いた。開きかけの扉は抵抗なく開き──、たたらを踏んで部屋に飛び込んでしまった梁太郎が
体勢を整えた時に目に入ったのは、驚きに目を見開いて口元を手で押さえた香穂子の真っ赤な顔だった。
【プチあとがき】
ルスランのティンパニって音いくつあるのー !?
3つなのかなぁ。
聴いてるぶんには3つのような気もするんだけど、絵的に4つありそうじゃない?(笑)
加地くんの耳があれば聞き分けられるんだろうなー。
というわけで、違ってたらスルーの方向でよろ。
あ、やっと土日が同じ場面に登場ですね(笑)
【2007/09/12 up】