■Ecdysis【14】
教室棟の2階にある指揮科の教室では、開幕する物語への期待を煽る賑々しい音楽が鳴り響いていた。
ヴァイオリンは香穂子と峰。
清良は学校の備品から借りてきたヴィオラを手にしている。以前、遊びで触ったことがあるらしい。
ピアノはのだめ。
そして、もう1台のピアノには千秋が座り、クラリネットパートを補っていた。
数回各々で練習した後、5人で合わせ始めてまだ1時間ほど。すでにアンサンブルはほぼ完成していると言えた。それでも練習は繰り返される。
クリスマスコンサートでこの曲を演奏するために、どれだけの日数をかけただろう。
リリからもらった楽譜よりさらに難易度の高いこの曲をさらりと弾きこなしてしまうなんて── 彼らがプロであるということをまざまざと見せ付けられたような気がした。
その楽しそうに演奏する様子には、まだまだ余裕がある、というのが明らかに表れていて。
私はどうなんだろう? 久しぶりに弾くせいか指はおぼつかないし、余裕もない。でも── 考えて、テンポに乗り遅れそうになったのを慌てて気を引き締め追いかけ、
曲の最後になってやっと追いついた。
曲の最後の音の余韻が消えたところで、各々がふぅ、と息を吐いた。
「峰、走るな。日野、もたもたするな。清良はもう少し自信持って音を出して。のだめ、中間部以外もっと歯切れよく── じゃあ、頭からもう1回」
てきぱきと指示を出しながら千秋が楽譜をめくる。
「えーーーーーっ! 何度目だよっ! ちょっと休もうぜ、千秋ぃ」
峰が身体をぐにゃぐにゃと揺すってブーイングした。
「完成には程遠いのに、休んでられるか」
「だーーーっ! のだめっ! なんで千秋なんか連れてきたんだよ! あーもう、舞台に立つわけじゃねーんだから、もっと楽しくやろうぜ!」
世界的指揮者を『なんか』呼ばわりする峰の強烈な駄々っ子ぶりに、見ていた女性3人は思わず顔を見合わせて苦笑した。
その峰の一言に、千秋は僅かに顎を上げ、すっと目を細めて口の端を上げる。
「ほー……、舞台に立つんなら真面目に練習するんだな?」
「へ…?」
「最終日の発表会にこのアンサンブルで出演できるように、上に掛け合ってやる」
「なっ…! そ、それって職権乱用だろっ!」
「俺が頼まなくても、このメンツ聞けば向こうから頭下げて出演依頼に来るさ。それとも峰、お前は舞台に立つ自信がないのか?」
千秋の冷ややかな挑発に、峰は息を飲んで拳を握った。
「んなわけあるかっ! ……俺と清良はいいとして、のだめはステージがあるだろ。香穂子だってコンチェルトのソロが──」
「のだめはプロだ。それに1回のコンサートでソリストは何曲も演奏するだろ。5分程度の曲が1曲追加になったからといって動揺してたらプロは務まらない。違うか?」
言い返そうと峰が口を開いた時、千秋の視線が香穂子に向いた。それに釣られるように皆の視線も香穂子へと移る。
千秋と峰のやり取りを俯いたまま聞いていた香穂子のヴァイオリンのネックを握る手に力がこもった。
ゆっくりと顔を上げると、千秋の目にぶつかり── その目の表情に、香穂子は驚いた。
てっきり『準備期間も十分あった1曲もまともに弾けないお前がどう答える?』と責められると思っていた。
しかし千秋の真剣な眼差しの中に非難の色はなく、温かなエールのようなものを感じた気がしたのだ。
香穂子はおずおずと小さく頷いて、
「私は……、私は、大丈夫…です」
僅かに震える声でそう答えていた。
「あーっ、先輩、もうすぐ約束の時間デスよ!」
張り詰めた空気を破ったのだめが見上げている壁の時計は2時55分を指していた。
「じゃ、ちゃんと練習しとけよ。1時間くらいで戻れると思うから」
ピアノの蓋を静かに閉じ、千秋が立ち上がる。
「先輩、真澄ちゃんが来たら第2リハ室に移動するので、間違えないでくだサイね」
「え、なんで?」
「あそこにもピアノ2台あるし、ティンパニ、ここまで持って来るの大変デスカラ」
「あ、そうか……わかった」
カタンと音がして扉が閉まり、ガラス越しに見えていた千秋の姿が消える。
「── チクショー、ビビらせてどうするっ !? 計画丸つぶれじゃねーか! 千秋のバカーッ!」
「龍っ!」
閉まった扉に怒りの言葉をぶつける峰を、清良が鋭い一声で制した。
「けどよー、清良ぁ」
「いいから落ち着いて」
声を潜めつつ、香穂子の様子をうかがいながら再び清良が峰をやんわりと制する。
香穂子にすっかり感情移入しているのか、峰は納得いかないという感情を隠すことなく顔に表していた。
「── だいじょぶデスよ、峰くん」
のだめがニコリと笑った。
3人がほぼ同時に香穂子へ視線を移す。
千秋が出て行った時のまま、扉をじっと見つめている香穂子の横顔。
徐々に戻りつつあった目の光は消えることなくそこにあった。
そして── もう香穂子は俯いてはいなかった。
* * * * *
練習室棟1階の壁に凭れ、梁太郎は腕時計を見た。
3時を2分過ぎている。
「場所、ここでよかったんだよな……」
ぽつりとこぼした時、傍の入り口がガタンと音をたて、人が飛び込んできた。
「悪い、遅れた」
「いえ」
息を乱し、額の汗を手の甲で拭う千秋。少し意外だった。
『千秋真一は走らない』と勝手なイメージを持っていた自分が可笑しくて、梁太郎はこみ上げる笑いを必死に噛み殺した。
「じゃあ、行こうか」
一番近い練習室へ入る。
梁太郎はまっすぐにピアノに向かい、準備を始めた。天板を開き、椅子に座って蓋を開ける。
ついさっきまで弾いていたから指慣らしは必要ないだろう。
両手を組み合わせ、ほぐすようにグルグルと手首を回す。梁太郎にとって、ピアノを弾く前の儀式のようなものだ。
「課題曲でいいですか」
「ああ」
すぅっと息を吸い、鍵盤に手を乗せる。
流れ出す音の奔流。
千秋は後ろの壁に凭れ、腕を組んで目を閉じた。
梁太郎の紡ぎ出す音に身を委ねる千秋の口元に笑みが浮かんだ。
そして、最後の1音を響かせて梁太郎が鍵盤から手を上げた時、千秋が送る惜しみない拍手が室内に響いた。
「うん、いいね」
「ど、どうも」
憧れ、目標とする人物からの拍手と誉め言葉に、梁太郎は思わず顔を赤らめた。ひと仕事終えたとばかりに肩で大きな息を吐く。思った以上に緊張していたようだ。
汗で湿った手のひらを腿にそっとこすりつけた。
「他にレパートリーは?」
「ショパンが多いですね。それからチャイコフスキーはピアノ曲に限らず好きです。後はリストとか」
「……1曲、リクエストしてもいいか?」
「あ、はい」
「ショパンのエチュード、選曲は任せる」
ふむ、と梁太郎は唸った。
任せると言われても……さて、何を弾いたものか── 鍵盤を見下ろしながら、しばし考える。
そして梁太郎が奏で始めたのは、『革命』。
2分半ほどの怒涛のような曲は、激しさを含んだままあっという間に終わる。
鍵盤から下ろした手を膝に置き、天井を仰いで息を吐いた。
「── なんでその曲を選んだ?」
「え…?」
問われて初めて考えた。
なんとなく頭に浮かんだから?
もしかするといつの間にか頭にインプットされた『変わる』『変える』というキーワードが、『革命』という表題をもつこの曲に結びつけたのかもしれない。
「……いえ、特に理由は」
「…そうか」
千秋はしばし考えた後、
「── いつか俺の指揮と君のピアノでコンチェルトやってみたいな」
ふっと笑みを浮かべた。
「あ、いや、俺は──」
「君はピアニストとして十分やっていけるだろうに、なぜ指揮者を?」
おいおい人にしゃべらせずに質問責めかよ、と梁太郎は心の中でひとりごちる。
相手が学院のズボラ教師あたりなら『うるせえ』と悪態ついて顔を背けることもできるだろうが、相手が相手だけにそれもできず。
「……俺はずっと一人でピアノを弾いてきました。ですが、去年、アンサンブルコンサートをやって、他の楽器と自分のピアノを合わせることが面白かったというか……。
もちろん、ピアノを捨てる気はありません。でも、それとは別に、もっとたくさんの音をこの手でまとめ上げてみたいと思うようになって」
千秋はそうか、とだけ答えて、ふっ、と笑った。嘲笑ではなく、どことなく嬉しそうな笑み。
「え…」
「── いつか、君が振る時は、俺がピアノで」
「あ……ありがとうございます!」
梁太郎は思わず立ち上がり、深々と頭を下げた。
無理言って悪かったな、と一言残し、千秋は練習室を出て行った。ガチャリと扉が閉まっても、梁太郎は頭を上げることができずにいた。
* * * * *
他愛ない談笑に花が咲く。
峰は『鬼のいぬ間の命の洗濯だ!』と勝ち誇ったように笑った。
3人から聞く彼らの学生時代の話に香穂子もぎこちないながら声を立てて笑った。
峰と清良が恋人同士というのは昨日の時点で聞いていたが、のだめとあの千秋も恋人同士なのだと聞いて目を丸くしたり。
逆に梁太郎とのことを根掘り葉掘り聞かれて、耳まで真っ赤になってしどろもどろになったり。
そんな賑やかながら穏やかに流れる時間をガラリと開けられた扉の音がせき止めた。
「みんなー、久しぶりー!」
「むきゃーっ、真澄ちゃーんっ!」
胸の前で小さく手を振りながら内股で乙女走りしてくる人物と、駆け寄って飛びついたのだめが抱き合ってきゃいきゃいとはしゃいでいる。
「あら? 千秋様は?」
キョロキョロと見回す頭の上で髪がふわふわと揺れる。
目が点になりながらも、『サマ』付けで呼ばれる人ってどこにでもひとりはいるものなんだな、と香穂子は停止した頭でぼんやりと考えた。
「先輩は今、用事があってちょっと出かけてマス。すぐに戻ってきますよ」
「ああん、1秒でも早くお会いしたかったのにぃー」
胸元で両手を握り合わせ、くねくねと身体を揺らす。
香穂子は意を決し、隣にいる清良に横歩きで近づいていって袖を摘んで遠慮がちに引っ張った。
「あ、あの……あの人って……」
「ふふっ、可愛いでしょ、真澄ちゃん。見た目あんなだけど、中身は『乙女』なのよ」
清良はなんでもないことのように、ただくすっと笑っただけだった。
ふと香穂子に目を留めた真澄がニコリと笑った。
「あなたが香穂子ちゃんね? 初めまして、ワタシが奥山真澄よ。よろしくね♥」
ふわふわのアフロヘアにハの字のちょび髭を生やした男が、まるでお姫様ドレスを纏っているかのようにズボンの腿の部分を摘んで、片足を下げ膝を折ってうやうやしく挨拶した。
【プチあとがき】
ご都合主義万歳!(笑)
そして真澄ちゃん。
真澄ちゃんの登場の仕方が、現在頓挫中ののだめ長編と被ってるし(汗)
ところでここに登場しているのだめチームの年齢ってどれくらいなんだろ…。
たぶん、金やんよりちょっと下って感じ、かな…?
ていうか、いつまで続くんだ、この話っ !?
【2007/09/05 up】