■Ecdysis【13】
「おーい、りょーたろーーーっ!」
オケの練習を見学した流れで火原たちと昼食を取り、カフェテリアを出たところで名前を叫ばれ、梁太郎はぎょっとして足を止めた。
自宅以外の場所で、苗字ではなく名前で呼ぶ人物はひとりしかいないはず。だが聞こえてきたのは能天気な野太い声だった。
「あっ! 人さらいの人だっ!」
隣にいた火原が小さく声を上げる。
梁太郎は、やっぱりか、と深い溜息を吐いた。
短い金髪を風に泳がせ、『裏軒』と書かれた岡持ちをぶら下げて、頭上で大きく手を振りながらにこやかに歩いてくる一人の男。
この男が体調の思わしくない香穂子を無理矢理連れ出したのだと思えば、自然と顔が険しくなった。
「……なんか用っすか? ていうか、何で名前呼び捨て──」
「んなカタイこと言うなって♪ 俺が『りゅうたろう』でお前は『りょうたろう』、ちっちゃい『ゆ』と『よ』の違いだけだろ? なーんか親近感っつーかな」
峰は梁太郎の肩をバシバシと叩きながら、がはは、と笑う。梁太郎はどういう理屈だよ、と口の中で毒づいた。
「で、あいつ連れてって何やってるんですか?」
半歩身体をずらして上下する峰の手から逃れ、腕を組んでその能天気な顔をねめつける。
峰はそんな梁太郎の険しい視線をものともせず、人差し指を口元に立てて『ヒ・ミ・ツ♥』とおどけてウィンクした。
「なんちてー♪ 梁太郎も暇なら来いよ。人手足りねーし」
「…は?」
人手が足りない、とはまさか中華屋の手伝いでもさせるつもりか、と梁太郎が眉をひそめたところで、盛大な交響曲が辺りに流れ始めた。
「悪ぃ、電話だ。じゃあまたな〜」
ポケットから出した携帯を開きながら、峰は裏門の方向へとさっさと歩き始める。ピッと小さな電子音が聞こえた。
「悪いな、忙しいところ……そうそう、1曲ティンパニ叩いてほしいんだ……いや、クインテット。元がオケの曲でティンパニが肝なんだよ……今? 指揮科の教室──」
大音量の峰の声は、校舎の向こうにその姿が隠れた途端に微かなものになった。
「…って、どこ行きゃいいんだよ」
苛立ち紛れに髪をくしゃりと掻き上げたところで、背中をつんとつつかれた。
「ねえ土浦…、あの人……何者?」
そう訊いてくる火原の顔は、明らかに混乱しているという感じだった。
確かにそうだろう。金髪にピアスという容貌で、岡持ちを手にして音楽関係の言葉を口にしているのだから。
「……一応ヴァイオリニストらしいですよ」
「へぇ…なんか似合わないね〜。って、おれも人からそう見られてるかも」
あはは、と笑う火原をぼんやりと見ながら、梁太郎は峰が電話で口にした『指揮科の教室』を後で見に行ってみよう、と考えていた。
* * * * *
カフェテリアの前で火原たちと別れ、午後のレッスンが行われるレッスン室へと向かう。
ほぼ真上にある太陽からの日差しに噴き出してくる汗をシャツの袖で拭うと、自分の汗の臭いとは別の臭いが鼻について、梁太郎は顔をしかめた。
「よ、土浦」
「金やん……何やってるんですか、こんなところで」
「見てわからないか? 食後の一服に決まってるだろうが」
校舎が作る陰に置かれたベンチにゆったりと座り、紫煙をくゆらせる金澤が煙草をくわえた口の端を上げてニヤリと笑った。
喫煙所もあるにはあるが外の空気も吸いたくてな、と手に持ったコーヒーの空き缶の縁で火種を切って中に落とし込み、吸殻も中へと落とした。
ゆっくりと足を進めて金澤の座るベンチの前に立つ。見下ろした額に浮かぶ汗が、この場所に金澤がいた時間を表しているようで、梁太郎は思わず苦笑した。
「煙草なんてやめりゃいいのに」
「んー、まあ……そうできりゃいいんだがなー。ところで土浦よ、最終日の発表会の演奏、断ったって?」
「ああ……」
打診されたのは今日の午前のレッスンの時だった。
梁太郎は辞退すると即答したのだ。
演奏者に選ばれたのは光栄であり素直に嬉しいが、この音楽祭に参加した目的を考えれば引き受けるわけにはいかなかった。
高校生の特別枠参加の上に融通を利かせてもらってグループレッスンを抜けたりしているのだ、そんな自分が代表として皆の前でピアノを弾くのは気が引けたし、
もし演奏するのならそれなりに練習時間を費やさねば自分に納得ができない。オケを見に行っている時間など作れない。
もちろんピアノを蔑ろにしているつもりは毛頭ないが、この音楽祭における優先順位を自分なりにつけただけなのだ。
「いいのか? ピアノクラスの代表だぞ?」
「……『千秋真一が来る』って俺を焚きつけたのは誰だよ」
「お前さんがいいならそれでいいさ─── ま、お前さんにはもうひとつ心配事があるしな」
「は?」
「どうだ、日野の具合は?」
金澤は背凭れに肘をかけて背中を伸ばしながら訊いてきた。
「……完全な二日酔い」
「そうかー、そりゃ辛いなー。地獄だもんな、二日酔い。うんうん、わかるわかる」
「いいのかよ、引率の教師がそんなんで」
「人生何事も経験ってな── その日野なんだが、今朝がた妙な金髪男に拉致られてるのを見かけたぞ」
梁太郎の顔をちらりと見て、金澤は口元に笑みを浮かべる。まるで梁太郎の反応を見て楽しんでいるようだった。
「…知ってます。その男、R☆Sオーケストラのヴァイオリニストですよ」
今日の俺は何度あの金髪男の素性説明をせねばならんのだ、と思えば知らず溜息が零れた。
「なんだ、知ってたのか。せっかく教えてやろうと思ってたのに。つまんねー」
「おい」
本心からつまらなそうに口を尖らせている子供じみた金澤の様子に、本気で人の反応で遊んでいたのかと梁太郎の中に殺意にも似た怒りが湧き上がる。
さすがに教師を殴りつけるわけにもいかず、ギュッと拳を握りしめた。
「……今頃、ピアニストの野田 恵とヴァイオリニストの三木清良も一緒ですよ……、たぶん」
ほぉ、と金澤が目を細めた。
「そりゃあすごい人脈を掴んだな、日野は」
「…昨夜、その3人に大学生と勘違いされて酒飲まされたんだよ」
「なるほど」
金澤はそう呟くと、空を仰いでふっと口元に笑みを浮かべた。
「……なんにせよ、その出会いは日野にとって貴重なもんになるだろうな。考えてもみろ、第一線で活躍する演奏家とお知り合いになる機会なんぞ、そうそう転がってないぞ?
今のあいつなら良くも悪くも必ず影響を受ける……ま、いい影響であることを願うがな」
と、金澤は身体を起こして組んだ膝に頬杖をつくと、ふむ、とひとり納得するように頷いた。
「── ファータが日野を強制参加させたのは、その出会いを予感していたから、だったりしてな」
「あ」
金澤の予想は梁太郎にも納得できるものだった。
以前、夢の中に現れたリリが言っていた── 『今度の音楽祭で何かが変わるような気がする』、と。
何かが変わるきっかけが、あの音楽家たちなのだとしたら──。
「── それよりお前さん、時間はいいのか?」
金澤の言葉で無意識に腕を持ち上げ手首の時計を見る。
「……やべっ!」
時計の針はレッスン開始の1時まであと2分という場所を指している。
ダッと駆け出すと後ろから『頑張れよ〜』と気の抜けた金澤の声が聞こえ、梁太郎は奥歯をギリと噛み締めて走る足を極限まで速めた。
* * * * *
食後の一服をしようと喫煙所に向かっていると、ふいにゴトンと重い音がして、千秋はビクリと肩を震わせた。
チャリンチャリンと小銭の音がして、またもゴトンと音がする。
ああ、誰かが喫煙所の横の自販機でジュース買ってるのか、と納得して足を進める。
チャリンチャリン、ゴトンっ。
一体何本買うんだよ、と心の中でツッコミつつ、辿り着いたところには見慣れた後ろ姿があった。
「…のだめ?」
「あ、千秋先輩! やた、猫の手はっけ〜ん!」
「はぁ !?」
のだめはもう1本、自販機でブラックコーヒーを買うと、はい先輩の分、と千秋に差し出してニコリと笑った。
「先輩、今ヒマですか?」
「3時に約束があるけど……」
「じゃあ、とりあえずそれまででいいんで一緒に来てくだサイ♪」
千秋の手に缶を押し付けると、のだめは自販機そばのベンチに置いてあった4本の缶を両手でまとめて持ち上げて、すたすたと喫煙所を後にする。
「わ、わかったからちょっと待て! タバコ1本吸わせろ!」
「えー、みんなの飲み物がぬるくなっちゃいますよ?」
「ものの2、3分でそんなすぐにぬるくなるか」
なりますよー夏デスから、と唇を尖らせるのだめには構わず、千秋は灰皿のそばのベンチにドサリと座ってシャツの胸ポケットから取り出したタバコに火をつけた。
仕方なく千秋の隣にちょこんと腰を下ろしたのだめは持っていた缶を傍らにそっと置いた。
「で、お前ら何やってんの?」
顔を背けて煙を吐き出した後、千秋はのだめの方へ顔を戻してそう尋ねた。その目は呆れを含んだ半眼である。
「何って……アンサンブルですけど?」
「は?」
てっきり昨日の罪滅ぼしのために香穂子の練習を見てやっていると思っていた千秋は、意外な返答に目を丸くした。
「題して『香穂子ちゃんに音楽の楽しさを!』作戦、デス!」
のだめは片手を腰に当て、胸を反らして鼻息荒く、『デス』という言葉に合わせてギュッと拳を握りしめた。
「……なに、それ…?」
「香穂子ちゃん、いろいろあって行き詰ってるみたいで、ヴァイオリン弾くの辛そうだったから……のだめたちで音楽をたくさん聞かせてあげたんデス。
音楽が好きなら、これでもか!ってぐらい音楽聞かされたら、自分も弾きたくなってくるでしょ?」
「そうとも限らないだろ。ヤケになって楽器放り出して耳塞いで逃げ出すってことも──」
「ぎゃはあ、それはないデスよ〜!」
のだめは投げ出した足をバタバタさせながら、喉を反らしてゲラゲラと笑う。
「なんでそんなことが言えるんだよ」
「だって、夢の中でヴァイオリンの弦が切れて弾けなくなったって泣いちゃうくらいなんですよ? それってヴァイオリンが大好きで、もっと弾きたいって思ってるからでしょ?」
小首を傾げて下から覗き込むようにしてニコリと笑うのだめの顔を見ると、千秋は何も言い返せなくなって煙草に口をつけた。
「……で?」
ムフッと笑って腕を突き出しピースサイン。答えは明らかだった。
「…ふーん」
「あー、でもまだ第1段階デス。それで、清良さんが見つけてくれた面白いアンサンブルの楽譜があって── あ、それって香穂子ちゃんたちが去年開いたコンサートの楽譜だったんですよ」
「コンサート?」
「はい。3ヶ月で4回も開いたそうですよ、しゅごいデスよね〜。交響曲とかコンチェルトを編曲したのもあって盛りだくさんデス」
「へえ」
「それでー、選んだ曲がクインテットなのにー、のだめたち4人しかいなくてー。ピアノパート結構忙しくて、足りない音拾えなくてー」
「……で、俺が『猫の手』…?」
「ハイ♥」
千秋は、はぁ、と溜息を吐き、まだ2口ほどしか吸っていないのにすでに大部分が灰になってしまった煙草を灰皿に落とす。底に水が張ってあるらしく、ジュッと音がして白い煙が一筋立ち昇った。
「どこでやってんの?」
「指揮科の教室デス」
すっと立ち上がった千秋はさっきのだめから受け取った缶とのだめの傍に置かれた缶をまとめて掴み上げるとすたすたと歩き出した。のだめも慌てて後を追い、隣に並ぶ。
「…曲は?」
「えと、『ルスランとリュドミラ序曲』デス」
「ふーん……、他になかったわけ? 4人でやれる曲」
「この曲が一番派手そうだから、って峰くんと清良さんが」
「……あいつらが言いそうなことだな」
「それから、『この曲の肝はティンパニだ!』って峰くんが真澄ちゃんにメール送ってました」
「マジかよ……まあ、わからなくもないけど…」
「そだ、猫の手と言えば、ルスランの楽譜、なぜか猫の足跡がついてるんですよ。なんでですかね?」
「そりゃ…楽譜持ってたヤツが床に置き忘れてて、飼い猫にでも踏まれたんじゃないの?」
「そか、なーんだ」
ぎゃはは、と楽しげに笑うのだめにつられるように、千秋もふっと口元を緩めた。
【プチあとがき】
えーと……なんとなく状況説明的な回ですね。
珍しく香穂子さんが出てきませんでした。
ポイントは、『食後の一服』(嘘)
金やんの存在を忘れてたのでちょっと出してみたのと、土浦にもなんかいろいろあるんだぞ、というのと、猫楽譜。
ルスランはあたし的にティンパニの合いの手が肝だと思ってるもんで。
ていうか、真澄ちゃんを出したかっただけだったり。
さて、出したはいいが、どう動かしたものか……。
あ、コンサートの楽譜は、あたし的設定では楽器編成だけの編曲で、曲の長さは原曲のまま、ということになっております。
1分程度の曲を3曲聞いたからって、拍手喝采やんややんや、なんてことはありえねー。短いのは『ゲームだから』という大人の都合。ということで。
【2007/08/28 up】