■Ecdysis【12】
梁太郎はレッスンを終え、ホールへ来ていた。
練習時間の半分近くが過ぎているが、あの典型的な二日酔いの見本のような状態でちゃんと練習についていけているだろうか。
香穂子のことを思えば、知らず溜息が漏れた。
昨夜、裏軒から連れ帰った香穂子は、ベッドに倒れこむとすぐに寝息を立て始めた。
涙の跡が残る顔を、起こさないようにそっと濡らしたタオルで拭いてやり、汗と涙ではがれかけていた絆創膏を静かに剥がし、新しいものに貼り直した。
「……夢にまで見て泣くほど悩んでるなら、俺に話せよ」
香穂子の寝顔を見つめながらそう呟くと、額にそっと口付けてから部屋を出た。
今朝は電話で香穂子を起こし、シャワーを浴びるように指示した後、近くのコンビニまで走って二日酔いに効く小瓶の胃薬と適当な食べ物を調達し、時間を見計らって香穂子の部屋を訪ねた。
シャンプーの香りを漂わせて出てきた香穂子はポカンとした顔で、ついさっきの電話の記憶すらなかったことにはガクリと肩が落ちた。
まあ、人生初の泥酔を体験した後なので仕方がないと言えば仕方がないのだが。
梁太郎は気持ちを切り替えるように頭を振ると、練習の邪魔にならないようにそっとホールの重い扉を開け、すり抜けるようにして中に入った。
千秋の指揮により生まれる音楽が、ふわりと梁太郎を包む。その生の音に肌が粟立った。学生の寄せ集めのオーケストラは、プロオケの熟れた音とは違って荒削りではあったが、
『活きがいい』という印象だ。
舞台の上を見れば── 香穂子の姿がない。
どこかで休んでいるのだろうか、と客席を見回すがどこにも香穂子はいなかった。
ふと、舞台上でやけに落ち着きのない人物に気付く── 火原だ。
普段から落ち着きのない印象を持つ彼ではあるが、演奏中となれば違うはずだ。なのに──
「── 15分休憩!」
指揮台の上にタクトを置いた千秋の声でふっと緊張感が緩む。
とほとんど同時に火原が梁太郎の姿に気付き、ブンブンとトランペットを頭上で振った。
「土浦ぁーっ!」
火原は舞台から飛び降り、一目散に梁太郎に駆け寄ってきた。
「どうしたんですか、火原先輩」
「大変だよ! 日野ちゃんが!」
必死の形相の火原に、最悪の状況が頭を過ぎる。
「っ! まさか倒れたんじゃ…!?」
「そうじゃなくて! 変な男に連れて行かれたんだ!」
「はぁっ !?」
「背は土浦くらいで、金髪の男! なんかやけに馴れ馴れしくて、日野ちゃんのこと『香穂子』って呼んでた!」
自分と同じぐらいの背丈で金髪、酒の席で一緒だったことがあれば馴れ馴れしくもなるだろう── 思い当たるのは一人。思わず漏れる溜息。
「…ああ」
「なになに !? 知り合いなの !?」
「まあ…知り合いっちゃ知り合いと言えなくもないというか……」
「えーっ、そうなの !? おれ、てっきり人さらいだと思って追いかけそうになっちゃったよ〜」
「はは……人さらいって…」
「じゃあ日野ちゃん、無事だね! よかった!」
ひとり慌ててひとり安心している火原に、梁太郎は苦笑するしかなかった。
「── 土浦」
ふいに名前を呼ばれ、振り返るとそこには舞台を降りて客席を上がってきた千秋がいた。
「あ……はい」
「午後のレッスンは?」
「……午後イチで個人レッスンです」
「じゃあ…、3時に練習室棟の入り口で」
「は?」
いきなり時間と場所指定され、ポカンとする梁太郎。間で火原が不思議そうに二人の顔を見比べていた。
「いや…、ピアノ、聴かせてもらおうと思って」
「それは……」
「別に深い意味はないよ、ただの興味。あんまりのだめが褒めるから、どんな音なのか聴いてみたいだけ」
「……わかりました」
ふっと口元に笑みを浮かべると、千秋はホールの出口へと向かった。梁太郎の手の中にあるコンチェルトの総譜を見つけると、通り過ぎざまに梁太郎の肩をポンと叩いた。
「つ、土浦ってピアノなのになんで千秋さんと知り合いなの !? どこで出会ったの !? どういうきっかけ !?」
千秋の姿が扉の向こうに消えると、火原は驚きに目を丸くして梁太郎を質問攻めにした。
「ま、いろいろあったんですよ」
疑問を疑問のままにしておけない、普段なら微笑ましいと思える火原の無邪気さが、今の梁太郎には少し鬱陶しく思えた。
* * * * *
練習室とは違う広い部屋。小編成のオケなら楽々入るだろう。
たくさんのテーブル付きの椅子が部屋の片隅に寄せられている。
1段高くなった教壇に、壁には数段の五線がプリントされた大きなホワイトボード。
廊下側の壁の端と端に出入り口。
おそらく授業で使う教室なのだろう。ただ、さすが音大と言うべきか、普通の教室とは違い、壁を見れば防音が施されているのが一目でわかる。
その広いフロアには2台のグランドピアノが鎮座していた。そのうち1台は天板が開けられている。
香穂子がこの部屋に連れて来られて2時間ほど。
ここでは2本のヴァイオリンと1台のピアノによるアンサンブルが繰り広げられていた。
トリオだけでなく、デュオだったり、ソロだったり。香穂子の知っている曲、知らない曲、コンクールで弾いた曲や他の参加者の演奏曲も何曲か
── プロの演奏家による小さなコンサートを贅沢にもひとり占めしている香穂子は、3人が作る音楽に心を震わせていた。
両手は胸の前で祈るように固く握り合わされ、目はヴァイオリニストの指使いや弓捌きに釘付けになっている。
「じゃあ次はベトベンの「春」いきましょう! 最初は清良さん、後半峰くんでどうデスか?」
「おっけー」
「おう、まかせとけ!」
のだめと清良が視線を合わせ、すっと息を吸い込む。
それを合図に柔らかなヴァイオリンとピアノの音が部屋に満ちた。
優しく寄り添い、時には追いかけ合い──。
目を瞑ると、一面の花畑が見えたような気がした。蝶が舞い、小鳥がさえずり、時に強く吹く一陣の風が舞い上げる花吹雪。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「春」── 今までこの曲を演奏したことはないけれど、いつしか香穂子の指がヴァイオリンを弾いているかのように小さく動いていた。
そして、ヴァイオリンが清良から峰へとバトンタッチされた。
『え !?』と香穂子は驚いた。
軋むような弦の音は乱暴で荒々しく、それに合わせるように鍵盤を叩きつけるような激しいピアノの音。
曲が進むにつれ、切羽詰ったようにテンポアップしていく。
まるでロックバンドのギタリストがエレキギターをかき鳴らしているかのような峰の演奏は、雷鳴轟く嵐のような光景を髣髴とさせた。
耳障りな響きを残して演奏が終わり── 3人は弾けるように笑い始めた。
「ぎゃはははっ、峰くんサイコー!」
「だろだろーっ! 懐かしいぜ、『光る青春の喜びと稲妻』!」
「あんたたちってバカーっ!」
涙を流しながらゲラゲラと笑い転げている3人を、香穂子はぽかんとした顔で見つめていた。
「香穂子ちゃん、何かリクエストある? …って、レパートリーにない曲だとちょっと無理だけど」
ようやく笑いの収まった清良が、指先で目元の涙を拭きながら香穂子に尋ねた。
「え……」
急に問われても、すぐには思い浮かばない。
今はただ、3人の音楽家の生み出す音楽に浸っているだけで十分だった。
しかし。
「……『エリーゼのために』」
香穂子の口は無意識にそう動いていた。
3人が小さな驚きに目を見開いた。
「へぇ、ヴァイオリン曲じゃないんだ…。あ、そうか、香穂子ちゃんの彼氏ってピアノ弾きだもんね」
「大方、『エリーゼのためじゃなく、お前のために弾くぜ!』とかなんとか言われたんじゃねえのか〜」
顔を見合わせて、あはは、と笑う清良と峰。
「ふおっ !?」
のだめの奇声に振り返った2人が見たのは、真っ赤に染まった頬を両手で押さえ、恥ずかしそうに俯く香穂子の姿だった。
「……おいおい、ビンゴかよ…」
「……やるなあ、土浦くん」
「いい曲ですよね、『エリーゼのために』って。のだめも好きデスよ」
ふふっ、と楽しそうに微笑んだのだめが奏で始めた思い出の曲。
聴いているうちに何かがこみ上げてきて、じわじわと視界が滲んでいく。
香穂子は思わず頬を押さえていた手をずらして顔全体を覆い隠した。
「── 香穂子ちゃんものだめたちと一緒に演奏しませんか?」
両手の中に顔を埋めたまま、甘く切ない旋律の余韻に浸っていると、不意に頭上から声がした。
ゆっくりと顔を上げると、ハンカチを差し出したのだめがにっこりと笑っていた。
「そうそう、今朝、楽譜探しに図書館に行ったんだけど、面白いもの見つけたのよ。今年の春、星奏学院から寄贈されたみたいなんだけど、香穂子ちゃん何か知ってる?」
そう訊いてきた清良に渡された1冊のファイル。開いてみると──
「あ……リリの…」
コピーではあったが見間違えるはずもない、それはコンサート用にリリが用意してくれた楽譜だった。
力の弱まったリリ、学院の移転問題、出された厳しい条件。
コンクールで知り合った仲間たちや音楽科の生徒たちの協力を得て、普通科の生徒たちの応援を受けて開いたコンサート。
辛いこともあったけれど、楽しくて充実した日々。
香穂子は楽譜のファイルを愛おしそうに胸に抱きしめた。
「ね、一緒にやりましょ?」
香穂子はのだめからハンカチを借り受けると、そっと目元を押さえ、『はい!』と力強く頷いた。
【プチあとがき】
香穂ちゃん、復活の兆し。
……『のだめ』を知らない人に、今回の話は楽しめるのだろうか…?
暑さで煮えた頭じゃ、これが限界…。うー、書き直してぇ。
【2007/08/20 up】