■Ecdysis【11】
── 翌日。
今日の日程は午前中がオケ練習、午後が個人レッスンとなっている。
香穂子はズキズキと痛む頭と捻れるような胃を抱え、練習場となっているホールの最後列の席にドサリと腰を下ろした。
一旦腰を下ろしてしまうともう動く気にはなれない。はっきり言って、ヴァイオリンを弾ける状態ではなかった。
昨日のだめに連れて行かれた裏軒で、甘くて口当たりのいい冷たい飲み物を口にしてからの記憶は断片的に、それもおぼろげにしか残っていない。
ズルズルと沈んでいくような意識の中で何かに呼ばれ、誰かの声が聞こえ、急き立てられるようにシャワーを浴びて少しスッキリしたところで、外はすっかり明るくなっていて、
自分がホテルの部屋に戻っていることに気がついた。
髪を乾かしながら見た鏡の中の自分はぼんやりとした腫れぼったい目をしていた。
ああ、そういえば何かひどく悲しくて泣いたんだっけ。
はっきりとは覚えていない『悲しいこと』に香穂子はぶるっと身体を震わせた。
それから目に入ったのは目の下の絆創膏。
昨日、オケの練習を追い出され、練習中に弦が切れ、その弦で傷を作ってしまったのは間違いない事実らしい。
がっくりと肩を落とし、大きな溜息を吐くと、ゆっくりと絆創膏を剥がした。
5ミリ程度の小さな小さな傷。数日もすればすっかり消えてしまうだろう。下手に絆創膏を張るよりも目立たないかもしれない。
身支度を終えたところで部屋の扉がノックされた。
扉を開けてみると、そこに立っていたのはコンビニ袋を提げた梁太郎だった。
「おっ、ちゃんとシャワー浴びたな」
と言われ、ついさっき、携帯電話で起こされ、電話をかけてきた梁太郎に今の状態を聞かれ、「もう少ししたらそっち行くからシャワー浴びて目を覚ましとけ」と言われたのを思い出した。
正直にそう言うと、梁太郎は思いっきり呆れた顔で溜息を吐いた。
「……ごめん」
「ま、いいって。練習、休むか?」
「……行く……行かなきゃ」
「そうか」
ガサリと音がして、コンビニの袋を手に持たされた。
「これ…?」
「適当に買ってきた。食えるなら食っとけよ」
「え、あ、ありがと」
「俺も支度してくるから、下のロビーでな」
梁太郎はくしゃりと香穂子の頭を撫でると、ポケットに手を突っ込んでエレベーターのあるほうへと歩いていった。
部屋の中に戻り、袋の中を見てみると、プリンとヨーグルト、アイスクリームが入っていた。
のたうつ胃はそれを口に運ぶことを拒否したので、備え付けの小さな冷蔵庫にしまい込む。と、もうひとつ、袋の中に重たいものが残っていた。
「…あはは、『二日酔いに効く!』、ね…」
手にした小瓶の中身をグイッと飲み干し、あまりの苦さに顔をしかめた。
そして、学校までの道すがらに梁太郎から昨日の顛末を聞き、お酒ってコワイ、とつくづく実感しつつ、今に至る。
思い思いに鳴らされる楽器の音が頭を揺さぶり、やっぱり来るんじゃなかったかな、と思いながら座席の背凭れに後ろ頭を預け、開けていられなくなった目を閉じる。
いまだ残るアルコールが香穂子の感覚をグルグルと掻き回し始め、余計気分が悪くなってきた。
目を開けなきゃ、と努力してみるも、重いまぶたは言うことを聞いてくれなかった。
と、近づいてくるバタバタと慌しい足音。
「おはよう日野ちゃん!」
元気な大声が響いてズキリと頭を突き刺す。思わず顔が歪んだ。
無理矢理まぶたをこじ開けてみれば、火原が心配そうに覗き込んでいた。
「どうしたの日野ちゃん、気分悪いの?」
先輩の声が頭に響くんです、とも、二日酔いです、とも言えず、なんとか口元に笑みを浮かべて「大丈夫です」とだけ呟く。
「あ、もしかして傷がまだ痛むとか? あれ、もうバンソーコー貼ってないんだね」
「……はい、傷も大したことないし……貼ってると汗でかゆくなっちゃって…」
火原はぐいっと顔を近づけて、香穂子の頬の傷をまじまじと見た。思わず後ずさろうとしたものの、座席に座ったままではどうにもならず。
数秒後、身体を元に戻した火原は満足げにニカッと笑った。
「昨日は血が出ちゃっててすごい怪我に見えたけど……うん、小さい傷でホントよかったね、すぐに治っちゃうよ。女の子の顔に傷が残っちゃ大変だものね」
「あ…ありがとうございます……あの、先輩、昨日はいろいろお世話になりました、絆創膏とか」
「いいのいいの、おれ、先輩だし。困ったことあったら何でも言って? ── あっ!」
舞台の方向で突然動いた気配に振り返った火原が大きな声を上げた。香穂子もそちらに目をやると、すでに舞台上、指揮台の上に千秋真一の姿があった。
「日野ちゃんも早く準備しておいでよ!」
舞台に向かって駆け下りていく火原の後ろ姿に『こんな光景、昨日も見たな』とぼんやりと思いながら、のろのろとヴァイオリンケースに手を伸ばす。
ケースを開けると、弦が1本切れたままのヴァイオリンが姿を現した。
そういえば昨日、弦が切れて以来ヴァイオリンに触っていなかったのだ。ろくに練習もできていない。
状況は昨日と同じ── むしろ二日酔いのせいで悪化している。今日もまたここから追い出されてしまうのだろう。
そんなことを考えながら弦を張り替えようとする香穂子の手の動きはひどく緩慢だった。
思わずこみ上げてくる深い溜息を吐ききった時、背後のドアが開いて空気が動いた。
「ち〜あき〜〜!」
張り上げられる能天気な声。
またも香穂子の顔を歪めさせる迷惑この上ない大声に振り返れば、金髪にピアスの長身の男が満面の笑みで舞台に向かってブンブンと手を振っていた。
「あ…」
「おっ、香穂子、生きてっか?」
座席にいる香穂子に気づいた峰は、香穂子の頭にポンと手を乗せた。
指揮台の上では、千秋が苦虫を噛み潰したような顔で峰を睨みつけている。
「……何の用だ?」
「千秋くんの仕事っぷりを見学に♥」
「うそつけ!」
「ピンポーン! 正解! 千秋くん、あったまいい〜♪」
「はあっ !?」
「俺が用事があるのはコイツだ!」
峰は香穂子の頭の上に乗せたままにしていた手で、わしわしと頭を撫で回す。
自分の意思を置いてけぼりにされた予想外の展開に、香穂子は辛い二日酔いのこともすっかり忘れてガバッと峰を見上げた。
「香穂子の身柄は俺たちが預かった! 千秋はオケのヤツらと仲良く練習していたまえ! わっはっはっ!」
ひとしきり高笑いを上げると、峰は蓋を開いただけだった香穂子のヴァイオリンケースを閉じて小脇に抱え、香穂子の手首を掴んで引っ張り上げた。
「行くぞ、香穂子!」
「えっ、あ、あの…っ !?」
「いいからいいから。あいつら待ってっからさ」
「み、峰さんっ !?」
そして香穂子は峰によってホールから引きずり出された。
「ひ、日野ちゃんっ !?」
「……そこのトランペット、席に着け。練習始めるぞ」
楽器を掴んだまま舞台から飛び降りようとしていた火原を、苦い顔の千秋が制止した。
「でもっ…、日野ちゃんが!」
「大丈夫、危険はないから── チューニングは済んでるのか?」
思い出したようにオーボエがAの音を鳴らす。他の楽器たちも音を寄り添わせ始めた。
火原はしぶしぶ自分の席に戻った。
唇にマウスピースを当て、大きく息を吸い込んだところで指揮台の上の千秋の姿が目に入る。
額に手を当てた千秋が深い溜息を吐いた後でふっと笑みを浮かべたことに驚いて、トランペットがブハッと妙な音を出してしまった。
慌てて態勢を立て直し、再びチューニングに参加する。
もう一度ちらりと見た千秋の顔からは、すでに笑みの形は消え去っていた。
* * * * *
走ることしばし。
「到着!」
やっと止まることを許され、香穂子はグラグラする頭と内臓が口から出てきそうな気分の悪さに思わずその場に座り込み、上がった息を整えるべく大きな深呼吸をした。
「うわっ、顔真っ青だぞ! まさか二日酔いかっ !?」
「……その、まさか、です…」
「あちゃ〜、悪かったな、走らせて。ま、とにかく中に入れよ」
峰に促され、壁を伝ってなんとか立ち上がると、峰が開けてくれた扉に足を踏み入れた。
「おはようございマース!」
「おはよう、香穂子ちゃん!」
出迎えてくれたのはニコニコと顔をほころばせているのだめと清良だった。
「え、あ……お、おはよう、ござい、ます…」
「どうしたの !? 顔、真っ青!」
「二日酔いらしいぞ」
「やだっ! ほんとごめんね〜」
「あ…いえ……」
両手を合わせて謝る清良に、香穂子は弱々しい苦笑を返すことしかできなかった。
「はい、座って座って〜」
のだめに後ろから肩を押され、用意されていた椅子に座らされた。
「あ、あの」
「のだめたちから香穂子ちゃんにお詫びを兼ねたプレゼント、デス」
茶目っ気たっぷりの笑顔でのだめがウィンクした。
【プチあとがき】
二日酔いでグロッキーな香穂ちゃんとのだめチームの画策。
つーか、お話が進みません(泣)
ていうか、書き直すうちにワケワカメに……。
今日のイチオシは、千秋をからかう峰くん(笑)
【2007/08/05 up】