■Ecdysis【10】
息せき切って裏門を飛び出すと、すぐ目の前に1軒の店があった。
暖簾と看板には『中華裏軒』の文字。
「ここで……いいんだよな…?」
梁太郎は大きく深呼吸して息を整え、入り口の戸を開けると、中華料理独特の匂いが一気に鼻を刺激する。
「あの、すみません、ここに日野香穂子がいると─── 香穂っ !?」
店に入ってすぐに目に付いたのは、見慣れた香穂子の後ろ姿。突っ伏した背中はタオルケットで隠れているが、そこに広がる赤みの強い髪は見間違えるはずもない。
他に何人か人がいたような気もするが、そんなことには構っていられず、梁太郎は香穂子に駆け寄っていた。
「おい香穂っ! 大丈夫か !? 香穂っ!」
細い肩を掴んで揺さぶってみても香穂子は目を開けず、ただ眉をほんの少し動かしただけ。
「香穂っ!」
「── 心配するな、酔いつぶれてるだけだから」
声の聞こえた方を見ると、黒髪の男が腕組みをして不機嫌そうな顔をして立っていた。
「え……あっ、千秋真一… !?」
クラシック界では有名な千秋は呼び捨てにされることに慣れているのか、特に表情を変えることなくカウンターの椅子に座って背を向けた。
「ごめんなさい、のだめが香穂子ちゃんをここに連れてきて、みんなでお酒飲んじゃったんデス」
「高校生って知らなくて……わたしがお酒出しちゃったの、ごめんなさいね」
「3年生だって言うからてっきり大学生だと思っちまってよ。悪かったな」
横にいたおかっぱ頭の女性とロングヘアを纏めた女性、金髪のピアス男が順に頭を下げる。
「あ……いや…」
自分が直接何かされたわけでもなく、香穂子にしても酒に酔って眠っているだけなのから、ここまで平身低頭されると逆に居心地が悪い。
と、そこで女性二人に見覚えがあることに気がついた。おかっぱ頭の方は、確か昨日のレッスンを見に来ていた人だ── 頭の中で記憶を探り──。
「── っ! 『カルメン』のヴァイオリニストと、ピアニストの野田 恵 !?」
今度はさすがにマズイと思ったのか、梁太郎は口元を手のひらで押さえて、すいません、と詫びの言葉を呟いた。
「むきゃー、のだめたちのこと知ってるんですかー」
「あ、もしかして香穂子ちゃんと一緒にコンサート聴きに来てくれた?」
「ええ…まあ……」
一人触れてもらえなかった金髪が悲しそうにうな垂れる横で、女性二人がきゃいきゃいとはしゃいでいる。
舞台上の姿やCDジャケットの写真とは全く別人のような二人に対して浮かんだ『女ってのはバケるもんだな』という素直な感想を、梁太郎はグッと飲み込んだ。
「ところで君は?」
「……星奏学院の土浦梁太郎です」
峰と清良が「あ、『りょう』だ!」と顔を見合わせる。
その横で考え込むように首を少し傾げて梁太郎の顔を見つめていたのだめの目がパッと大きくなった。
「あーっ! 先輩先輩、この子デス! 『千秋2世』!」
「……あぁ、昨日話してた…?」
千秋の腕を掴んでガクガクと揺らしながら興奮気味に話すのだめに、千秋は様子を覗うように梁太郎をちらりと見た。
「なになにっ、2世って……まさかこいつ千秋の隠し子 !?」
「んなわけねーだろっ!」
「ムキーッ、のだめという妻がありながら、誰に産ませた子なんデスかっ !?」
「なっ! 話を振っておいて自分でボケるなーっ!」
「ギャボーッ! じょ、冗談デスっ」
のだめのワンピースの首元を掴み上げ、ガクンガクンと頭を揺する千秋。
目の前で繰り広げられる身体を張った漫才のような光景を、梁太郎はただ呆然と見ているしかなかった。
ネタが自分であることに少々ムカつきつつ、もしかして『ヤバイ』人たちと関わっちまったのか…?、などという思いを抱きながら。
「まあまあまあ、千秋くんもそれくらいにして─── で、のだめちゃん、なんで彼が『千秋2世』なわけ?」
千秋に掴まれてぐしゃぐしゃになった襟元を直してやりながら、清良が尋ねた。
「昨日、江藤センセのグループレッスンを見せてもらってんですけど、ピアノすっごく上手いんデス。その上、書き込みビッシリな総譜持ってて。大学の頃の千秋先輩を思い出して、
のだめアヘーってなっちゃいました」
「へぇ、じゃあ土浦くんって指揮者志望なんだ〜」
「あ、はい…」
突然話を振られて、梁太郎はドギマギしながらなんとか返事だけ返した。
「それなら千秋ー、コイツ弟子にしてやったら?」
「はぁ? オレだってまだ勉強中だってのに弟子なんか取れるか」
「じゃあミルヒーかヴィエラ先生に紹介してあげたらどうデスか?」
「んなこと簡単に言えるわけねーだろ、バカ」
「先輩だって強引にヴィエラ先生の弟子にしてもらったくせに……」
「う、うるせーっ」
『ミルヒー』はともかく、『ヴィエラ』ってのはイタリアのマエストロ・セバスチャーノ・ヴィエラだよな……と記憶を手繰る。
「けどよー、エロ巨匠に弟子入りすると指揮よりセクハラばっか教わりそうだよな」
「確かにね。千秋くんってマエストロの唯一の弟子なのに、よく染まらなかったわよね〜」
「そうでもないデスよ? 先輩のムッツリは筋金入りぼへっ」
怒りのオーラを発する千秋に背後から腕で首を絞められ、ぐるじいデスーとその腕をタップするのだめ。
峰と清良は二人の様子に大爆笑する。
今の話を総合すると、『ミルヒー』=『エロ巨匠』=『千秋の師匠』=……
ドイツが誇るマエストロ・シュトレーゼマン !?
クラシック音楽界のビッグネームがこともなげにポンポン出てくる会話をしている目の前の人たちはやはり一流の音楽家なのだと思うと、
梁太郎は軽い眩暈を感じずにはいられなかった。
音楽界の第一線で活躍する人たちと音楽の話をしてみたいとも思ったが、今は香穂子の方が心配だった。
食事もまともに摂らず体力の落ちた身体にアルコールとなれば、体調を崩してもおかしくない。
早くホテルに連れて帰って、ちゃんと休ませてやらねば──。
梁太郎は香穂子にかけられたタオルケットを取り去り隣のテーブルに置くと、後ろから香穂子の両肩を掴んでそっと身体を起こさせた。
片手でぐったりした香穂子の身体を支えつつ、もう片方の手で椅子を引っ張り横に向ける。
「すいません、こいつ背負っていくんで、背中に乗せてもらえますか」
「お、おう」
のだめと峰が周りのテーブルと椅子をずらして香穂子の横に立ち、肩を押さえて香穂子の身体を支えてくれたのを確認してから香穂子の両手首を片手でまとめて持ち、背中を向けて片膝をつく。
頭の後ろで手を持ち替え、それに合わせてのだめたちが香穂子の身体を傾けさせてくれたお陰で長く伸びてきた細い腕を自分の肩にかけさせた。
「せーのっ」
椅子から梁太郎の背中へ移動させようとのだめと峰が香穂子の身体を両側から持ち上げた時、香穂子が「んん…」と小さく唸った。
梁太郎が首だけで振り返ると、苦しそうに眉根を寄せた香穂子がゆっくりと半分まで目を開く。
「大丈夫か?」
浮いていた香穂子の身体がそっと椅子に降ろされ、焦点の定まらない目が梁太郎の顔に辿り着いた。
「……梁…?」
「迎えに来た。背負ってってやるから寝てていいぜ。ほら、背中乗れよ」
梁太郎は顔を前に戻し、再び腰を下ろしてしまったせいで肩の辺りまで後退してしまった香穂子の手首を掴む手に少し力を込めた。
しかし、香穂子が動く気配はなく。
また眠ってしまったのかと思って振り向いてみると、辛そうに寄せられた眉の下の目には涙がいっぱいに溜まり、次の瞬間、堤防が決壊したかのようにはらはらと頬を伝い始めた。
「おい、どうしたっ !? 傷、痛むのか?」
これまで感動で目を潤ませることはあっても、こんな風に悲痛な表情で涙を流す香穂子は初めてだった。
驚きのあまり掴んでいた手首をぱっと放し、素早く向きを変えて中腰の状態で香穂子の両肩を掴んで顔を覗き込む。
香穂子は流れ落ちる涙を拭うこともせず、瞬きすら忘れてじっと梁太郎を見つめていた。
「…………間違いだったって…」
「…何が?」
「……私にヴァイオリンを与えたのは間違いだったって、リリが……私にはファータのヴァイオリンを使う価値はないって…」
「っ! んなわけあるか! あいつもお前のこと心配して── それ、今見てた夢の中での話だろ?」
「……梁も………」
問いに答えぬままそう呟くと香穂子は顔をくしゃっとしかめた。声を上げて泣き出すのかと思われたが、香穂子はそうはせず、唇をぎゅっと噛んで俯いた。
「俺が、どうした?」
「……弦が、全部切れて……ヴァイオリンも、リリと一緒に消えて……梁も、いなくなった……『ヴァイオリン弾けないお前とは、もうオシマイだ』って言って…」
「な…っ!」
梁太郎は思わず香穂子の頭を抱き寄せていた。
「そんなこと言うわけねえだろ。それに── 俺はいるぜ、ここに」
押さえつけられた梁太郎の胸の中で、嗚咽に混じった「うん」という香穂子の小さな声が聞こえた。
「お前、ひとりでストレス抱え込んでるからそんな妙な夢見るんだぜ? 何のために俺がいるんだ、愚痴くらい聞いてやるって言っただろ?」
涙を止めてやりたくて香穂子の頭を抱え込む手に力を込める。息苦しくない程度に。
再び、うん、と小さな返事が聞こえ、梁太郎は子供をあやすように香穂子の背中をポンポンと優しく叩いた。
少し落ち着いたのか、香穂子の嗚咽も治まってきた。
梁太郎もほっと安堵の息を漏らす。
………あ、しまった── ふたりきりの時ならともかく、人前で───。
今の一部始終が人の目に晒されていたことに気づいて、あまりの気恥ずかしさにカァッと顔が熱くなる。
「か、帰るぞ!」
とにかく一刻も早くここから立ち去りたかった。
香穂子を包んでいた腕をバッと外し、まだぼんやりしている香穂子にはお構いなしに二の腕を掴んで引っ張り上げる。
隣のテーブルの上に置かれていたヴァイオリンケースと小さなバッグを掴み、香穂子を引きずって店の出入口へ。
ガラガラッと勢いよく扉を開けて香穂子を先に外に出しておいてから、梁太郎は一旦店内に向き直った。
「ご迷惑おかけしましたっ! 失礼しますっ!」
天井に視線を向けて店の中にいる人たちと目を合わせないようにしながら詫びの言葉を叫ぶと、ガバッと豪快に一礼して外に出る。
力任せに閉められた扉がガラガラピシャッと派手な音を立てた。
残された者たちは、勢いよく閉められた扉にあっけにとられていた。
「……はうん♥ なんかかっこいいデス、土浦くん…」
「…ほんと、男らしくて優しくて、そのくせ照れ屋さんで……理想の彼氏って感じ?」
「「おい」」
うっとりとしている女性ふたりに、男ふたりが冷たくツッコむ。
「それにしても……本当にいるんデスね、プリリン」
「リリ、じゃなかったっけ?」
「どっちでもいいじゃん。どーせそんな非現実的なことがあるわけねーし」
のだめと清良は並んで座り、テーブルに両手で頬杖をつく。峰は用済みになったタオルケットを広げて、畳み直し始めた。
「何の話だ?」
「あの子たちの学校には、音楽の妖精が棲んでるんですって」
「しゅてきなお話デスよね〜」
胸の前で両手を組んで、目をキラキラさせる女ふたり。
千秋は特に驚くでも呆れるでもなく、ただ「へぇ」と呟いただけだった。
「な、なんだよ千秋! お前、妖精信じてんのか !?」
「んなわけねぇっ! ……ただ──」
次の言葉を待つ3人がごくりと唾を飲み込んだのに気づいて、千秋はたじろいだ。
「── 昨日、金澤って先生がやたら秘密めかして言ってたんだよ、『彼女は音楽の妖精に愛された、音楽の申し子なんですよ』って。
からかわれたんだろうと思って、本気で相手しなかったけど……でもまあ、先生までが揃って言うんじゃ、案外本当にいたりしてな、妖精」
「ええええぇぇぇぇっ !? 千秋いつからそんなドリーミーになっちまったんだよっ !?」
「ドリーミーって……俺にとっては、妖精がいようがいまいが、いい演奏をしてくれればそれでいいんだよ」
千秋はこめかみを押さえ、深い溜息を吐いた。
【プチあとがき】
さーて、つっちーとのだめチームの邂逅です。
つっちーの行動に萌え悶えていただけることを祈りつつ(笑)
え…萌えない? んー、あたし的に精一杯なんだがなー。
さーて、アンコールのつっちー苦悩スチルが早く見たいもんだ。
【2007/07/24 up】