■Ecdysis【9】 土浦

「あ……のだめの携帯…」
 バッグの中をゴソゴソと探り、取り出した折りたたみ携帯をパカンと開くと、のだめはヒッと顔を引きつらせた。
「ぎゃぼっ、千秋先輩っ」
「げっ、適当に誤魔化してさっさと切れっ!」
 のだめはコクコクと頷くと、ごくりと唾を飲み込んで電話に出た。
「ア、アロー、のだめデス」
 ── 今どこ?
「えっ、どこって、うらけ──」
「うわっ、言うなのだめっ!」
 ── 今の声、峰か?
「ちちちちち違いマスよっ」
 ── ……おまえメシは?
「ご、ごはん !? えと、あの、その……そだ、お友達! お友達と食べて帰るので、寂しいでしょうけど先輩はひとりで食べててくだサイ」
 ── ふーん
「ふーん、って何ですか…」
 ── じゃあ裏軒にでも行って食うかな、久しぶりに
「ムキャッ、だめデス! 先輩は来ちゃいけまセンっ!」
 ── やっぱおまえ裏軒にいるんだな?
「ち、違いマスよっ! 誰がそんなこと言ったんデスかっ」
 そこで通話は一方的に切られ、ツーツーツーという無機質な音だけがのだめの耳に聞こえていた。
「千秋、何だって?」
 清良に口元をがっちりと押さえられていた峰はその手をバリッと剥がすと、呆然としているのだめの肩を揺する。のだめはギギギッと音がしそうな様子で二人の方へ顔を向けた。
「……バレました……のだめがここにいること」
「当たり前じゃねーか! おまえがバラしたようなもんだろ!」
「ムキーッ、峰くんが横から口出すからデス!」
「言い合ってる場合じゃないでしょ! たぶん千秋くんここに来るわね。今は香穂子ちゃんと顔を合わさせないほうがいいんじゃないかしら」
「おう……このまま眠っといてもらって、上から何か被せとこうぜ。千秋が来たらさっさと食わしてとっとと帰す!」
「でも、明日香穂子ちゃんの演奏を先輩が聞いたらバレますよ? 練習してないこと」
「そ…それは後で考えるっ!」
 3人は深く頷き合って、行動を開始した。
 テーブルの上の食器はあっという間に片付けられ、未だテーブルに突っ伏して眠り続ける香穂子には頭まですっぽりとタオルケットがかけられた。
 とりあえずの証拠隠滅を済ませた3人はカウンターに座り、峰が一部始終を見ていた父親に口止めをすると、父親は苦笑いしながら3人に水を出してくれた。
 3人はキンと冷えた氷水を一気にあおったが、バクバクする心臓は治まりそうになかった。

 そして数分後。
 カラカラカラと小気味よい音を立てて店の引き戸が開いた。
「よ、よお、親友!」
「ち、千秋くん、久しぶりー」
「せ、先輩、いらっしゃ〜い」
 カウンターから振り返る3人の気味の悪いほどの笑顔に、千秋は顔を引きつらせて一歩後ずさった。
 厨房に立つ峰の父親の苦笑とテーブル席にあるタオルケットの塊が気になったものの、のだめに腕を引っ張られ、峰に背中を押されて、無理矢理カウンター席に座らされた。
 千秋が席に着くと同時に清良が水を出し、のだめと峰が千秋を挟むように席に座った。
「先輩、何食べますか?」
「おう、なんでもいいぞ! さっさと食って──」
「ちょっ! バカ龍!」
「えっ、あっ── はははっ」
 あはははは、と乾いた笑いの3人を訝しげに見回すと、千秋ははぁ、と溜息を漏らした。
「お前ら……なんか変だぞ」
「そ、そんなことねーって!」
「そうよ、龍が変なのはいつものことじゃない!」
「なっ、清良っ !?」
「せ、先輩はオケの練習で疲れてるだろうから、早く食べて早く休んでねっていう峰くんの優しさなんデスよっ」
「そう、その通り! のだめ、いいこと言った!」
「はぁ? ……なんか納得いかねー…」
 3人一緒になって隠し事をしているのは明らかで、3人の中であっさり陥落しそうなのだめを締め上げて吐かせようと向き直ったところで、背後から気配を感じて振り返った。
 テーブル席のタオルケットの塊がゴソゴソと蠢いている。
「……何? あれ」
「なななななんでもないっ! お前が気にするようなもんじゃないぞ、うん」
「そ、そうですよ先輩! 先輩はご飯食べててくだサイ!」
 訝しげな顔の千秋が腰を浮かせた途端、3人がザッと塊の前に立ち塞がって壁になった。
 3人の必死の表情に、どんな隠し事をしているのかと千秋の眉がピクリと上がる。
「……どけ」
 ふるふると首を横に振る3人。
 千秋はのだめと峰の間に強引に身体を割り込ませると、タオルケットをバサッと剥ぎ取った。
 現れたのはもちろん、テーブルに突っ伏して眠り続ける香穂子の姿。
「こいつは……」
「香穂子ちゃんは悪くないんデス! ヴァイオリンやってるって聞いたから、清良さんに会わせてあげたくてのだめが連れてきたんデス! だから怒らないで!  お酒飲んでちょっと眠ってるだけデスから!」
「な…っ !?」
「ごめんなサイっ!」
 縋り付いて許しを請うのだめをバリッと引き剥がすと、
「バカかおまえらは! 未成年に酒飲ませてどうする !? 警察に逮捕されてもいいのかっ !?」
「ええっ !?」
「でも3年生って…」
 大きな溜息ひとつ、千秋は頭痛をこらえるように手のひらで額を押さえて小さく頭を振ると、もう一度溜息を吐いた。
「桃ヶ丘と音楽祭をやってる星奏学院には高等部があって、そこからも何人か音楽祭に参加してる。こいつはその中のひとり」
 【音楽家3人、高校生に飲酒させる】── デカデカと書かれた見出しの横に自分たちの白黒の解像度の低い顔写真が載っている新聞記事を想像して、3人はすぅっと青ざめた。
「うわっ千秋っ! 頼む、通報だけはカンベンしてくれっ!」
 ポケットから携帯を取り出してどこかにかけようとした千秋の腕に峰が飛びついた。
「んな恥さらしなことができるか! 担当の先生にこいつを引き取りに来てもらうんだよ」
 峰を振り払い、くるりと背を向けると、電話をかけ始めた。
「あ、金澤先生ですか? 千秋です……日野香穂子のことなんですが、今、裏軒という店にいます……はい、そうです、桃ヶ丘の裏の……経緯はわかりませんが、 僕の知人たちがアルコールを飲ませたらしくて眠ってます……はい……えっ !?……はい、わかりました」
 ピッと通話を終えた音。
 振り向いた千秋は不可思議だというように首を傾げていた。
「……なんて?」
「『オトナが出て行くと何かと面倒だから、すぐに誰か迎えに行かせます』だと。……いいのか?教師がそれで」
 ほぅ、と安堵の溜息を吐くのだめと清良。
 峰は厨房で父親に抱きつき、『親友でも友人でもなく『知人』にされちまったよぉ』と涙をこぼしていた。

*  *  *  *  *

 腕時計を見れば、8時を少し回ったところだった。
 10時まで開放されている練習室棟の個室はすべて確認したが香穂子の姿はない。
 灯りのついている部屋の中を覗きこみ、暗い部屋には中まで入って確かめた。食事をほとんど摂っていない香穂子がもしも倒れていたら、と思ったから。
 何度か香穂子の携帯に電話してみるものの、電源が切られたままでつながらなかった。
 募る不安の中、次はどこを探したものかと思案していたところで、ポケットの中の携帯が鳴り出した。
 香穂子からかと思って急いで携帯を開いてみるが、ディスプレイに表示されているのは『金澤』── 音楽祭期間中の緊急連絡用に登録させられたものだった。
「……はい、もしもし」
 ── よう、土浦か? 今お前どこだ?
「はぁ? ……学校、ですけど」
 ── おっ、そりゃ丁度いい。悪いが土浦、裏門から出てすぐに『裏軒』って店がある。そこに行ってくれや
「は !? なんで…!」
 ── そこで日野を預かってもらってる
「っ !? まさか倒れたとか !?」
 ── んー、まあ似たようなもんかな。とにかく急いで行ってくれや。ご迷惑おかけしたかもしれんから、よーくお礼言ってな。じゃ、頼んだぞ〜
 言いたいことだけ一方的に告げると、金澤は通話をブツリと切った。
「ちょっ !? 金やんっ !? おいっ!」
 とにかく香穂子の居場所がわかったのだ。言いたい文句はぐっと堪え、梁太郎はパカンと閉じた携帯を握り締め、裏門へと走った。

*  *  *  *  *

 真っ暗な、何もない場所で香穂子はヴァイオリンを奏でていた。
 いや、奏でているはずなのに、音が聞こえてこない。
 音を出そうと懸命に弓を動かしているのに、僅かな弦の振動すら感じなかった。
「なんで !? お願い、鳴って!」
 グイッと引いた弓の動きに合わせて、4本の弦すべてがブチブチブチッと跳ねるように切れていった。
「やだ…また !?」
 はぁ、と溜息を吐き、天を仰いで目を瞑った。
 ふと閉じたまぶたの裏にキラキラと何かが光ったような気がしてゆっくりと目を開けると、そこには4枚の羽根をもった小さなモノがふわふわと浮かんでこちらを見つめていた。
 見つめられているのはわかるのに、どんなに目を凝らしても小さな妖精の姿はぼやけていて、どんな表情をしているのかわからない。
「あ……リリ…?」
『我輩……ガッカリなのだ』
「え……?」
『日野香穂子── オマエに魔法のヴァイオリンを与えたのは間違いだったのだ』
「どういう……意味…?」
『オマエにファータ特製ヴァイオリンを使わせる価値はない、ということだ』
「そんな…っ !?」
 妖精は手に持ったスティックをグルンと振ると、虚空で宙返りして姿を消した。
 と同時に持っていたはずのヴァイオリンもなくなっていた。
「え……待って! リリっ!」
「── そういうことなら俺もここまでだな」
「えっ !?」
 声のしたほうへ振り返ると、そこには梁太郎の後ろ姿があった。
「梁…今、なんて言ったの…?」
「だから、ヴァイオリンを弾けないお前とはここまで── もうオシマイだって言ったんだよ」
「梁 !?」
「じゃあな」
 梁太郎はひらりと手を振ると、一度も香穂子の方を振り返ることなく歩み去っていった。
「梁……やだ、待って……梁太郎!」
 追いかけようとしても香穂子の足は地面に縫い付けられたように動かない。
 そのうちその地面がグラグラと揺れ始め、香穂子は立っていられなくなって何もない手に顔を埋めてその場にしゃがみこんだ。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 のだめチーム大活躍!
 つーか、そんな必死にならんでもいいのに(笑)
 そして今回の罪な男は金やん(爆)
 終盤、ありがち展開でごめんなさい(汗)

【2007/07/17 up】