■Ecdysis【8】
梁太郎が練習を早々に切り上げてホテルに帰ると、ロビーにたむろする一団に出くわした。
その中の一人と一瞬目が合う。
「あっ! おーいっ、土浦ーっ!」
チッ。
視線を逸らして思わず鳴らした舌打ち。
梁太郎が今一番会いたくない人物のうちの一人── 火原がニコニコと駆け寄ってくる。
その人畜無害な笑顔の裏で何考えてんだかわかりゃしねーな、と心の中で吐き捨てた。
「ちょうどよかった!」
「……俺になんか用っすか…?」
びっしりと棘を生やした返事を返す。
身構えて腹に力を入れたせいで思った以上に低い声が耳に響いて驚いたものの、ほんの少し背の低い火原を見下ろす視線にグッと力を込めた。
火原はそんな梁太郎の様子に気づいているのかいないのか、ポケットから何かを取り出して梁太郎に差し出した。
「これさ、日野ちゃんに渡してあげてよ」
「は…?」
火原の手のひらの上には数枚の絆創膏が乗っている。
「女の子ってこういうのちゃんと用意してるのかもしれないけど、もしも持ってなかったらと思って保健室でもらってきといたんだ」
話が見えない。
てっきり宣戦布告でもされるか、勝利宣言でも聞かされるかと思っていたのに。
肩透かしを食らったようで、ふっと身体の力が抜ける。
少し戻ってきた冷静さが、香穂子に渡してと言われた絆創膏の用途を思い出させた。
「………あいつ、どこか怪我でもしたんですか」
「うん、切れた弦でこのへんをちょっと切っちゃってた」
火原は自分の左目の少し下を指でなぞる。
「── っ !?」
「休憩中に練習室に忘れ物取りに行った時、たまたま見ちゃったんだよね、日野ちゃんのヴァイオリンの弦が切れるとこ。おれ、びっくりして思わず練習室に飛び込んじゃったよ。
そんなにたいした傷じゃなかったんだけど、ほら、今の季節って汗とかかくじゃない? 化膿したりしたらまずいと思ってさ、ちょうど1枚持ってたバンソーコー、貼ってあげたんだ」
火原はへへっ、と笑って鼻の下を指でこすった。まるで小さな子供が大人に褒めて欲しい時にするような、自慢げな顔で。
そういえば── ちょうど練習棟の2階に差し掛かった時に、火原の驚いた声と『大丈夫 !?』という切羽詰ったような声が聞こえたのを思い出した。
なんだ、そういうことか……。
そんな器用な人間ではないことは知っていたはずなのに── 目の前の先輩も、香穂子も。
まだすべてを納得できたわけではないけれど、とりあえず真相がわかってみると完全に気が抜けて、思わずしゃがみこんでしまいそうになるのを必死にこらえた。
「でさ、オケの練習終わって保健室行った後で日野ちゃんに届けようと思ったんだけど、もう練習室にいなかったんだよね。ここにもまだ戻ってきてないみたいだし。
ってことで土浦、頼んだよ!」
「……わかりました」
火原の手のひらから絆創膏と摘み上げようとして、ふと手が止まった。
忘れ物を取りに行った火原はともかく、なぜ香穂子は練習室にいたのかが妙に気になった。
まさかオケの練習をエスケープして…?
「どうしたの、土浦」
「あの、火原先輩……俺、朝以来あいつに会ってないんですけど、なんでオケの練習中にひとりで練習室に…?」
「あ…っ、あー、えーっと……」
口ごもる火原は、辛そうに眉をしかめた。
「先輩?」
「あ、うん……日野ちゃんね、ソリストに選ばれたんだ」
「── っ !?」
「でも、なんだか調子悪いみたいで……千秋さんにひとりで練習するように言われて── あっ、でも弾けてないわけじゃないんだよ! おれ、ヴァイオリンのことはあんまり詳しくないけど、
前よりもうまくなってたと思う! でもなんていうか……日野ちゃんらしくないっていうか── 音がね、キラキラしてないんだ」
『音がキラキラしていない』── 火原の言いたいことが梁太郎にもわかる気がした。
コンクールの時も、コンサートの時も、香穂子の演奏を聴いていると、見えないはずの音の粒がキラキラと輝いて降ってくるような感覚を覚えることがあった。
だが、今の自分の状況に疑問を感じ、演奏に自信を失っている香穂子の音が、人の心を捉える光を放つはずがない。
梁太郎は小さく溜息を吐いた。
「……あいつ、今スランプなんですよ」
「やっぱそうなのかぁ……早く立ち直るといいね。あ、おれに手伝えることがあったら何でも言って!」
「ありがとうございます……じゃあ俺、あいつ探してきます」
火原の手に握られたままになっていた絆創膏をすっと抜き取ると、梁太郎は踵を返す。
日野ちゃんによろしくねー!と背後で叫んでいる火原に、あらぬ疑いをかけてしまったことを心の中で詫びながら、ホテルを飛び出した。
桃ヶ丘のキャンパスに向かって走りながら、梁太郎は別の怒りがふつふつと湧き上がるのを感じていた。
音楽祭強制参加の上にソリストまで── 『何かが変わる』と言いながらどれだけあいつを追い詰めたら気が済むんだ!
香穂子がソリストに選ばれたのではなく、香穂子をソリストにするためにヴァイオリン協奏曲が選択されたのだ、という確信めいたものがあった。
このことを仕組んだに違いない小さな羽根付きを捕まえて、首でも絞めてやりたい気分だった。
* * * * *
「── だからぁ、うちのガッコには妖精が棲んでるんですよぉ〜」
「むきゃっ、妖精っ !? プリリンってほんとにいるんデスかっ !?」
「はぁ? プリリンって?」
「『プリごろ太』に出てくる妖精のプリリンですよっ! 香穂子ちゃん、ごろ太知らないんですか !?」
「知りませんよぉ……それに、『プリリン』じゃなくて『リリ』です!」
「ぎゃぼっ、『プ』と『ン』はどこへ行ったんデスかーっ !?」
「だからー、最初から『リリ』なんですってばぁ〜」
『プリごろ太』というのは子供に大人気のアニメのタイトルで、映画化も何度かされ、海外でも人気を博している。原作マンガはのだめの愛読書でもあるのだが、
興味のない香穂子にとっては全くの未知のものだった。
とろんとした目に真っ赤な顔した香穂子とのだめが言い合う傍で、頬杖の上に同じような顔を乗せた清良と龍太郎が琥珀色の液体の入ったグラスを揺らしながらぼんやりと眺めていた。
「……ドリーミーすぎて、なんか、ついてけない…」
「こいつら、同類だったのか……二人とも黙ってりゃ可愛いのに……不憫だ…」
「同類って…?」
「変態の、に決まってんだろ」
「あぁ…なるほど── にしても、すごい妄想…」
龍太郎がテーブルに置いた底の厚いグラスがゴトンと音を立て、ちょうど一区切りついた香穂子とのだめの会話が途切れ、急にその場が静かになった。
「……私の考えって…やっぱり甘いんでしょうか…」
香穂子は淡いオレンジ色の液体の入ったグラスを両手で包み、水面に浮かんだ氷を見つめながら細い指先でグラスの表面についた露をなぞる。
水滴となった露はその重さに耐えかねてグラスを伝って落ちて、テーブルに小さな水溜りを作った。
それと同時に香穂子の口から深い溜息が零れ落ちた。
「甘いって…?」
あまりの深刻さにたまりかねて、清良が訊いた。
「清良さんのカルメン聴いて、私もあんな風に舞台の上でヴァイオリン弾きたい!って思ったんです。いつか梁が指揮するオーケストラで私もヴァイオリニストとして演奏してみたいって…」
『りょう?』『誰?』と3人が顔を見合わせるが、俯いたままの香穂子はそれに気づかない。
突然、香穂子はテーブルを両手でバンッと叩いて、勢いよく立ち上がった。テーブルの上の食器がガチャッと一斉に音を立てる。香穂子は片手を胸の前でぎゅっと握り締め、
「だから私はもっとヴァイオリンうまくなりたいんです!」
叫ぶような大声での宣言に驚いた音楽家3人はすくませた身体を寄せ合って、コクコクと頷くことしかできなかった。
そんな3人の様子もお構いなしに、香穂子は空気が抜けたようにすとんと椅子に腰を落として、再びうなだれた。
「……なのに、音楽科に編入しても先生はほとんど基礎練習しかさせてくれないし、音楽祭の曲の練習始めてからも全然合格点くれないし……弦が切れるほど練習してるのに……
そりゃあ私のヴァイオリンなんてリリからもらった『たなぼた』の結果だし、始めて1年ちょっとの私なんか子供の頃からやってる人から見れば初心者に毛が生えたようなもんだ……し……」
そこまで一気に吐き出した香穂子は身体をピクリと振るわせて、ハッと目を見開いた。
ゆっくりと顔を上げると、驚いた顔で自分を見つめる3つの視線にぶつかった。
「え…あ…私、何言って……や、やだなぁ私、ジュースで酔っちゃったみたいで…あ、あははははっ」
「…それ、思いっきりアルコールなんだけど」
「ええっ !?」
それを聞いた瞬間、香穂子の視界はぐるりと渦を巻き、そのまま闇の中に落ちていった。
「あら……寝ちゃったわね…」
「がぼん……きっといろいろあって疲れちゃってるんデスよ……」
テーブルに突っ伏しておとなしくなった香穂子を見ながら、3人ははぁ〜と大きな溜息を漏らした。
「…今日のオケの練習中に、千秋先輩に追い出されちゃったんだそうデス。今スランプみたいで、清良さんと話したら解決できないかなーと思って連れてきてみたんですけど…」
「なるほどー……確かに悶々としてるみたいだわね」
「でもこれってマズイんじゃねーか? 練習中に連れ出したんだろ? コイツ、明日千秋に怒られるぞ、たぶん」
「練習中じゃありませんでしたよ。弦を買いたいって楽器屋さんの場所聞かれて……」
「だぁーっ! そういう問題じゃねぇって! …にしてもなんかスゲーこと言ってたよな。『始めて1年ちょっと』って、ヴァイオリンのことだろ? オレだってガキの頃からやってるんだぜ?
たった1年で学生オケとはいえソリストが務まるもんか?」
「常識的に考えれば無理、よね。でもこの子、音大生なんでしょ? 演奏を聞いてないからなんとも言えないけど、音大に入れるくらいならそこそこ弾けるんじゃないの?」
「きっと天才なんデスよ」
「あのなぁのだめ、ヴァイオリンってのはそんな簡単なもんじゃ──」
その時、頭を寄せ合う3人の会話を遮るように、誰かの携帯が着信を高らかに告げ始めた。
【プチあとがき】
ああ、言っちゃった(笑)
さあどうする、香穂子さん。
そして、妙に常識的な峰くん(笑)
【2007/07/12 up】