■Ecdysis【7】
女性は『のだめ』と名乗った。
怪訝な顔をした香穂子に、本名は野田 恵デスよ、と笑っていた。
年齢が一回りも上の相手にニックネーム呼びも失礼だろうと思い、野田さん、と呼びかけると、のだめデス、と訂正され、それからは香穂子も諦めて『のだめさん』と呼ぶことにした。
「香穂子ちゃんは音楽祭のオケの人ですよね? 今は練習の時間じゃ── あ、弦が切れちゃってたんでしたね、ごめんなサイ」
のだめは気まずそうに笑うと、ぽりぽりと頭を掻いた。
そんな仕草もなんだか子供っぽくて。
時々彼女が発する意味不明な言葉に思わず首をひねることもしばしば。
けれど、隣を軽やかに歩くのだめという女性は柔らかい不思議な雰囲気を纏っていて、初対面にも関わらず、一緒にいて安心感を感じさせる人物だった。
香穂子はくすりと笑って、
「いえ、いいんです……練習、追い出されちゃいましたから」
「ええっ !?」
「どういうわけかコンチェルトのソリストにされちゃって。第1楽章が終わったところで指揮者の人に、曲のこと調べてCD聞いて一人で練習してきなさい、って言われて」
「ムキャーッ! ……また鬼千秋発動…? あ、あのっ、指揮棒折りませんでした? 楽譜飛んできませんでした?」
ブツブツと呟いた後ののだめの慌てっぷりに、香穂子は首をひねる。
「? いえ、そんなことは……別に怒られたわけでもないですし…」
「はふー、よかったよかった」
「それに……私、ずっとスランプ気味っていうか…音を出すことにばかり必死になってて、曲について勉強不足だったのは本当のことですから」
えへへ、と照れくさそうに笑う香穂子を見て、なぜかのだめは嬉しそうな笑みを浮かべていた。
楽器店目指して歩きながらの話の中で、香穂子はのだめがパリ在住のピアニストだと知った。CDも何枚か出しているという。
ピアノ曲は梁太郎のお陰でよく聞いていたけれど、香穂子にとってピアノといえば梁太郎だったし、彼に借りたCDを聞く時も特に誰の演奏だと気にすることもなかったから、
もしかすると彼女の演奏を耳にしたことがあるのかもしれない。
プロの音楽家に道案内をさせてしまったことを香穂子は大慌てで詫びたが、のだめの方は全く気にしていないようだった。
音楽祭最終日の発表会のサプライズゲストとして呼ばれていて、学校で練習を終えた後に香穂子と出会い、久しぶりに母校の周辺を歩けて楽しかった、と。
のだめのこと内緒デスよ?とウインクする彼女と顔を見合わせ、もちろんです、とクスクス笑い合った。
学校から10数分歩いて辿り着いた楽器店は、店構えはさほど大きくないものの、さすが音大の近くにあるだけあって小物類の品揃えは大したものだった。
買い物を終えて店内を見回すと、外で携帯電話をかけているのだめの姿がウィンドウ越しに見えた。
香穂子が外に出ると、のだめは携帯をパカンと畳み、肩にかけていた鍵盤バッグの中にストンと落とし、香穂子に向かってふにゃりと笑った。
「買い物終わりましたか?」
「あ、はい、いろいろお世話になりました。ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をする。
「それじゃあ、私はこれで──」
「じゃ、今度はのだめに付き合ってくだサイ」
「え…えぇっ !?」
のだめはにこりと笑って香穂子の手首をがしりと掴むと、学校の方へ向かって引き返していく。
「あ、あのっ!」
「香穂子ちゃんに合わせたい人がいるんデスよ。さぁ、行きましょう!」
一旦、桃ヶ丘音大まで戻り、ついさっき出発した正門から入ってキャンパスを横切り、裏門へ抜ける。
ふわりと漂ってくるのはゴマ油の香ばしい香りとよく煮込んだスープの香り── これは鶏ガラかな?
昨夜からほとんど食事を取っておらず、今日の昼に至っては水の1滴すら口にしていない香穂子は、匂いに釣られてぐぅと小さく悲鳴を上げた腹を押さえて顔を赤らめた。
のだめは匂いの発信源であると思われる1軒の店に躊躇うことなく入っていく。
小奇麗な3階建ての建物の1階と2階の間に店名の看板がかかり、1階の店の入口に出された暖簾がひらひらと風に揺れる。
看板と暖簾に書かれた屋号は── 『中華裏軒』。
なんでこんな場所に? まだ夕食にはずいぶんと早い時間なのに。
考えても判るわけもなく、すでに店の中へ飲み込まれてしまったのだめを追って香穂子も暖簾をくぐった。
「おう、待ってたぜ! お〜い、のだめ来たぞ〜!」
店の中に入ると、金髪にピアスの男がカウンターの中から店の奥に向かって叫んでいるところだった。
はーい、と女性の声が聞こえ、バタバタと階段を降りてくる足音。
緩く捻った長い髪を頭の後ろで無造作に留めた、タンクトップにサブリナパンツの女性が飛び出してきて、いきなりのだめに抱きついた。
「きゃーっ、のだめちゃん久しぶりーっ!」
「むきゃぁ清良さん、ご無沙汰でしたー!」
女性二人が手を取り合って、ぴょんぴょん跳ねながら再会を喜んでいた。
その光景を見つめながら、香穂子はあれ?と首をひねる。店の奥から出てきた女性にどこかであったことがあるような気がしたのだ。
「……………あっ!」
当然ながら、突然大声を出した香穂子に注目が集まる。
「えっ、な、何っ !?」
「どうかしましたか?」
「……『カルメン』の…?」
そう、女性は冬に梁太郎と行ったコンサートで『カルメン幻想曲』のソリストを務めていたヴァイオリニストだったのだ。髪型と服装が違うせいで最初はわからなかったけれど間違いない。
「カルメン? あ、もしかして冬のコンサート聴きに来てくれたんだ!」
「は、はい! なんていうかその、とっても情熱的で── 私、すごく感動したんです!」
「やーん嬉しい! ありがとう!」
ヴァイオリニストはのだめから離れると、香穂子をがしっと抱きしめた。
迷っていた香穂子に決断をもたらした人物との対面だけでなく抱擁までされて、香穂子は眩暈がして倒れそうだった。
「── で、この子がのだめちゃんのお友達?」
香穂子の肩に手を置いて身体を離したヴァイオリニストがのだめに尋ねた。
「え…… !?」
「はい♪ 音楽祭のオケでやるベトベンのヴァイコンのソリストさんデス」
「わー、そうなんだ〜!」
ヴァイオリニストは胸元でパチンと手を合わせ、嬉しそうに笑った。
「は、初めまして、星奏学院の日野香穂子と言いますっ」
「わたしは三木清良、ヴァイオリンやってまーす。よろしくね。で、こっちが──」
清良がカウンターの中にいる金髪男に振り返ると、男はニカッと笑い、
「オレは峰龍太郎、この店の看板息子だ! それから、R☆Sオケでヴァイオリンやってま〜す♥」
清良の口真似をする龍太郎に、のだめと清良がぶはっと吹き出した。
香穂子は二人の自己紹介ごとにガバッと頭を下げる。ここにいる三人は三人ともプロの音楽家だと思うとひたすら緊張して、笑う余裕などあるはずもなく。
「よし、清良のファンなら特別待遇だ! ちと時間が早いけど何でも好きなもん食わしてやるぞ! のだめも食ってくだろ?」
「のだめマーボ! マーボがいいデス!」
「よっしゃ! 親父ぃ、厨房頼む!」
店の奥から、あいよ、と声が聞こえ、料理人姿の初老の男性が姿を現した。
「おっ、のだめちゃんいらっしゃい!」
「峰パパ、お久しぶりデース!」
のだめはカウンターに座り峰の父と楽しそうに話し始め、中華鍋とお玉がカツカツと音を立て、辺りにいい匂いが漂い始める。
「あ、あのっ……私は……」
「遠慮しない、遠慮しないっ♪」
後ずさりする香穂子の背後に回った清良が背中を押す。そのままテーブル席へと座らされ、すかさず龍太郎が氷が浮かんだ水の入ったコップをカンッと音を立てて香穂子の目の前に置いた。
「じゃあわたしは飲み物を……えーっと、香穂子ちゃんって何年生?」
「え、あ……3年、です」
「よし、じゃあアンズとリンゴとレモン、どれがいい?」
「……アンズ…」
「りょーかい♪」
清良が鼻歌を歌いながらカウンターの中に入っていくのをぼんやりと眺めつつ、香穂子は『練習、どうしよう…』とこっそり溜息を吐いた。
* * * * *
思わぬミスタッチに梁太郎はピアノを弾く手を止めた。
弾いても弾いてもどこかで間違えてしまう。
手を止めれば、さっき目の当たりにした光景がビデオ録画した映像のように頭の中で再生され、その度に奥歯をギリリと噛み締めた。
拒絶するでもなく目を閉じた香穂子。
あの二人はこの音楽祭で再会して『その気』になったのだろうか?
それとも知らなかったのは自分だけで、二人はずっと隠れて付き合っていたのではないのか?
ひとつ年上だとは思えないほど無邪気な先輩は、実はしたたかな男だったのか?
自分に向けられた香穂子のあの笑顔も、実は作り物だったのだろうか?
自分はずっと二人の手のひらの上で道化を演じていただけで、二人はそれを見てほくそ笑んでいたのだろうか?
「は……滑稽だな」
ニヤリと口の端に笑みを浮かべてみても、腹の底から湧き上がってくるドロドロした感情は抑えられなかった。
この場にサッカーボールのひとつもあれば思いっきり蹴飛ばしてやるのに── 同じ白と黒でもさすがにピアノを蹴り飛ばすわけにもいかず。
ふと、部屋の中がずいぶん暗くなっていることに気づいて、窓の外に目を向けた。
西の空に僅かに残る茜色が刻一刻と闇に飲み込まれ、濃紺へと移るグラデーションの空には星がきらめいていた。
普段なら美しいと思える風景は、今の梁太郎を更に苛立たせるだけだった。
【プチあとがき】
のだめは天使なんですっ! 対千秋だけでなくっ!
……と言い張ってみる。
そして『アンズ』と『リンゴ』と『レモン』。
お気づきの方もいらっしゃるでしょうが(笑)
ええ、もちろん法律違反行為ですよ。逮捕されちゃいますよ。
あれって限りなく中華っぽいけど純日本産だって聞いたような気がするんだけど。
おや? 違ったか?
【2007/07/07 up】