■Ecdysis【6】
香穂子はヴァイオリンを弾く手をふと止め、ふぅ、と深い息を吐いた。
練習室棟の2階にあるこの練習室は管弦楽器用であるのかピアノも置かれておらず、幾分狭くて、なんとなく息苦しさを感じていた。
千秋に言われて図書館で書籍を読んでみたけれど、何度読み返しても香穂子には『だから何なのよ』程度にしか頭に入らなかった。
聞き比べたCDのような柔らかな音色を出そうとしてもうまくいかない。
そんな苛立ちからか、やけに喉が渇いていた。
今頃まだオケの練習は続いているのだろう。ソリストの香穂子不在のままで。
自分の演奏に自信のある人ならば『どうして私がこんな目に!』と憤慨する状況ではあるが、自信を失っている今の香穂子は『私なんかをソリストにしなきゃいいのに』という思いしかない。
2ndヴァイオリンの隅っこにでも座らせてくれていたなら、こんな思いをせずに済んでたのに。
歯噛みして、苛立ちをぶつけるように力任せに弓を引いた。
2本の弦が同時にこすられて生まれる耳障りな不協和音。
「─── っ!」
ブチンと嫌な音を立てて弦が弾けたのが見えて、香穂子は咄嗟に目を瞑り、首を竦めるようにして顔を逸らす。
その瞬間、左の頬骨の辺りに走るチクリと刺すような痛み。
目を開けて顔を戻すと、糸巻きからダラリと垂れた弦が、切れた部分からくるりと輪を作って揺れていた。
その時、ガンガンガンッとドアが殴りつけられ、すごい勢いで開かれた。
「大丈夫っ !?」
「え……火原先輩…?」
練習室に飛び込んできた火原がおろおろして香穂子とヴァイオリンを代わる代わる見比べている。
「うわっ日野ちゃん、ほっぺ血が出てるっ!」
「え…」
そういえば、と香穂子がさっき痛みを感じた部分にそっと触れた指先を見ると、赤い筋がくっきりとついていた。
「保健室! 保健室行こう、日野ちゃん!」
香穂子の腕をがしっと握ると、火原は引っ張っていこうとした。
「え、だ、大丈夫ですよ、これくらい」
「でも、もし化膿とかしちゃってもマズイし、せめてバンソーコーくらい貼っとかないと! あっ、おれ持ってる!」
火原は香穂子から手を離し、ごそごそとポケットの中を探って1枚の絆創膏を取り出した。
包装紙がずいぶんシワになっているのが彼らしくて、香穂子は気が抜けたようにふっと笑みをこぼした。
「ここ、鏡ないでしょ? 貼ってあげるからさ、じっとしててよ」
「え、でも」
「いいからいいから」
すでに包装紙から取り出した絆創膏を摘んでひらひらさせる火原がニカッと笑う。
「じゃあ……お願いします」
「うん、まかせといて!」
絆創膏のガーゼ部分が傷からずれないように見極めようとしているのだろう、思いがけず近くなった真剣な火原の顔を見つめたままというのも気まずくて、香穂子は思わず目を瞑った。
乾いた感触が頬に触れ、粘着部分をそっと撫でるようにして貼り付けられたのがわかった。
「よしっ、カンペキ!」
ゆっくりと目を開けると、火原は腰に手を当てて満足そうにニコニコと笑っていた。
「ありがとうございました……でも先輩、今はオケの練習中じゃ……」
「うん、今は休憩中だよ。おれ、午前中にこの先の練習室使った時に忘れ物しちゃって、取りに来たんだ。で、前を通る時に日野ちゃんが見えて、
頑張ってるなーと思ったら急に弦が切れて。びっくりしちゃったよ」
「すみません、ご心配おかけしました」
「気にしないでよ。おれが勝手に慌てただけだからさ」
ぺこりとお辞儀する香穂子の肩を、火原はポンポンと優しく叩いた。
「じゃあおれ、そろそろ戻るね」
外へ出ようと扉を開けた火原が、あ、と声を上げてくるりと振り返った。宙に視線を泳がせて何かを考えていたかと思うと、
「えーと……日野ちゃんの音、早く戻ってくるといいね!」
ニコリと笑うと、ブンブン音がしそうなほどに手を振って、火原は部屋から出て行った。
ドアがゆっくりと閉じ、ガチャリと鈍い音を立てる。
「……私の……音…?」
火原の言葉を口の中で反芻し、たった今閉じられた扉をじっと見つめたまま、香穂子はただ立ち尽くしていた。
* * * * *
梁太郎は自分の練習を終え、オケ練習が行われているホールへと向かっていた。
午後のレッスンはお世辞にも本調子とは言えない出来だった。
香穂子のことが気にかかっていたから、というのを理由にしたくはないが、実際それが事実だった。
『集中せんかっ!』と講師に怒鳴られもしたが、確かに集中できていないのは本人が一番よくわかっていた。返す言葉もない。
指揮者になるための勉強は始めているが、ピアニストへの道も捨てたわけではない。
できることならプロのピアニストとしても活動できる指揮者になりたいのだ。
本当ならレッスンが終わってからすぐにホールへ行こうと思っていたのだが、もう少し、ある程度納得できるまでピアノを弾きたいと思った梁太郎は、しばらくの間練習室に篭っていた。
しかし、やはり集中力は戻ってこない。このまま弾き続けても、実のある練習になりはしないだろう。
ここは気分を切り替えてオケの練習を見学し、香穂子の顔を見てから夜にでもまた練習すればいい、と練習室を出てきたのだ。
ピアノ科用の練習室のある3階から降りてきたところで、2階の廊下に『あっ!』と大きな声が響いた。
── この声は…?
続けてガンガンガンと思いっきり扉を叩く音。
ガチャッと扉を開く音がして、『大丈夫っ !?』という声が聞こえた。
それから扉が閉まり、音は何も聞こえなくなった。
今の声は火原のもの。
その慌てっぷりに、何かあったのだろうか、と梁太郎は火原が入っていったと思われる部屋の中を覗いてみた。
間違いない、そこに見えたのは火原の後ろ姿。そして、その向こうにちらりと見えたのは──
「……香穂… !?」
今は二人ともオケの練習中のはずなのに、こんなところで何をしているのだろう?
防音の効いた部屋の中の会話は全く聞こえてこない。
その上、火原の背中に隠れて香穂子の表情が見えないことが、梁太郎をますます苛立たせた。
ふいに火原が香穂子の腕を掴む。
慌てて中に踏み込もうとドアのレバーを探して握り締め、動かす前にもう一度部屋の中を見た時には、火原の手は香穂子から離れていた。
火原の身体が少しずれて、うっすらと笑みを浮かべている香穂子の顔が見えた。
それから火原は香穂子にかぶさるように近づき、香穂子の姿が再び隠れる前の一瞬、彼女は目を閉じた。
火原の手は香穂子の頬に触れているように見えた。
梁太郎はゆっくりとレバーから手を離し、2、3歩後ずさると、元来た廊下を引き返した。
3階に駆け上がると、さっきまで使っていた練習室に入り、乱暴にピアノの蓋を開ける。
手のひらに爪の跡がつくほどに握り締めていた指をじわりと開き、整然と並ぶ白と黒の上にその手を叩き付けると、滅茶苦茶な音の塊が練習室に響き渡った。
* * * * *
日は傾きかけていたけれど、まだまだうだるような暑さの残る中、香穂子は汗だくになってキャンパス内を彷徨っていた。
この学校の関係者がいる場所を探して。
弦が切れたままでは練習もできず、張り替えようと思ったところで用意しておいたスペアの弦を自宅の自分の机の上に置き忘れてしまったことに気がついたのだ。
最近よく弦を切ってしまうことがあったから、せっかく買っておいたのに。
うっかりミスをいつまでも悔やんでいても仕方がない、と楽器店に行こうとしたのだが、何せ場所がわからない。
桃ヶ丘の学生に聞けばいいのは判っているがオケの練習中に聞きに行くのも憚られて、職員室のようなところを探しているのだが辿り着けず、ほとんど迷子状態になっていた。
探し始めて3つ目の建物からぐったりとして出てきたところで前を横切る人影を見つけた。
涼しげな空色のワンピースに白いサンダルを履き、小さな向日葵の造花があしらわれた白い帽子をかぶった女性が、黒地に鍵盤の模様の入った大き目のカバンを振り回しながら
鼻歌混じりに楽しげに歩いている。
香穂子は迷うことなく女性に向かって駆け出していた。
「あのっ! すみませんっ!」
「むきゃっ !?」
突然声をかけられて驚いたのか、女性はぴょんと小さく跳ねて身体を竦ませた。その動きはなんだか小動物のように見えて可愛らしい。
「あのっ、この学校の方ですかっ?」
「いえー、昔通ってましたけど」
ぜいはあと息を切らす香穂子の質問に、女性はのんびりとした口調で答えた。
その答えに香穂子の眼に光が戻る。
卒業生なら、この周辺の地理に詳しいはず!
「すみませんっ、ここから一番近い楽器屋さん、教えてくださいっ!」
「あー、それなら正門を出て右に曲がって── あれ?」
言葉に合わせて動いていた手がピタッと止まった。
忘れてしまった道順を思い出そうとしているのか、小さく眉間に皺を寄せて小首を傾げている。
香穂子の顔をちらりと見て、申し訳なさそうにへらりと笑うと、
「えと……うまく説明できないので、一緒に行ってあげマス。ちょっとわかりにくい場所にあるんですよ」
「あ、いえ、大体の場所を教えていただければ」
「大丈夫ですよ、帰り道の途中ですから。さぁ行きましょー!」
女性は空に向かって拳を突き上げると、正門の方へ向かってずんずんと歩き始めた。
「あ、あのっ!」
ここは無理に場所を聞いて迷子になって無為な時間を費やすより、親切な女性の言葉に甘えてさっさと弦を調達して練習を再開したほうがいいだろうと判断した香穂子は、
おとなしく彼女についていくことにした。
【プチあとがき】
あぁっ! ついに事件が起きましたっ!
今回のテーマは『音楽に悩む香穂子』と『恋愛に悩む土浦』(笑)
あーんど、罪な男・火原。
そして香穂子と変態ピアニストとの邂逅。
【2007/06/30 up】