■Ecdysis【5】 土浦

 翌日。
 梁太郎は午前中のレッスンを終え、昼食のために学内のカフェテリアへと急いで向かっていた。
 レッスンの時間が長引いて、休憩時間の半分がすでに過ぎようとしている。
 特に約束をしていたわけではないが、もしも香穂子を待たせていたら、と思うと気が焦った。
 カフェテリアの入り口で額に浮かんだ汗をシャツの袖で拭い、シンプルでありながら小洒落た内装の室内をぐるりと見渡せば、すでに食事を終えて席を立つ者がちらほらと見えた。
 が、香穂子の姿はない。
 もしかすると入れ違いになったのかもしれない。
 ちゃんと食べてればいいが── 香穂子の思い詰めた顔を思い出すと、祈りにも似た思いが湧いてくる。
 昨夜、結局梁太郎の携帯も部屋の内線電話も鳴らなかった。
 コンビニにひとっ走りして何か差し入れようかとも考えたが、今の香穂子はそういう気遣いをされるのを望んでいないような気がしてやめた。
 ホテルの隣室であり香穂子と同じクラスでクラリネット専攻の女子生徒と連れだって朝食を摂りにやってきた彼女は、一晩眠って多少すっきりしたのか、 幾分落ち着いた表情をしているように見えた。
 昨日はごめんね、と梁太郎の隣に腰を下ろした香穂子の持ってきたトレイの上には小さなクロワッサン1つとコップ1杯のオレンジジュース、ほんの少しのグリーンサラダだけ。
 楽器の演奏は意外に体力を使うから、たったそれだけでは持たないとは思うが、全く食べないよりはマシだろう、と梁太郎は何も言わなかった。
 今朝のことを思い出しつつ5分ほど待ってはみたものの香穂子は現れず、電話待ちで減ってしまった睡眠時間のせいでこみ上げてくるあくびを噛み殺すと、梁太郎は諦めて食事を取ることにした。
 今日の午後から始まるオケ練習を見学するため、無理を言って午後のレッスンを1番に変更してもらったのだ。遅刻するわけにはいかない。
 カウンターで受け取った食事を大急ぎで口の中に掻き込むと、もう一度カフェテリアの室内をゆっくり見回してからその場を後にした。

*  *  *  *  *

 昼休憩の始まる数分前──
「では、今日はここまでにしましょう。午後からのオケ練習、しっかり頑張ってくださいね」
 講師の声を合図にわらわらと楽器を仕舞い始め、さあ昼メシだ、とレッスン室が活気付いた。
 香穂子もゆるゆると楽器を片付け、部屋を出ようとすると、日野さん、と後ろから講師に呼び止められた。
 足を止めた香穂子をすり抜けるようにして、他の学生たちはさっさと外へ出てしまっていた。
「……はい、何でしょうか」
「あなた、オケのソリストになっているから」
「……は…?」
 眉をひそめて聞き返した香穂子は、講師の言葉が知らない言語をしゃべっているかのように理解できずにいた。
「ソリストって……」
「曲はヴァイコンですもの、ヴァイオリンを弾くソリストが必要でしょう?」
 反応の鈍い香穂子に苛立ったのか、講師はピクリと眉を上げ、じれったそうにそう言った。
「ちょ……ちょっと待ってください! なんで…どうして私なんですかっ !?」
 急に声を荒げた香穂子に、講師はたじろいで半歩後ずさる。
「……わ、悪いけど、私にも選考基準は知らされてないのよ」
 講師自身、今朝オケの編成を知らされた時に驚いたのだ。
 香穂子の演奏は、高校生にしては確かにレベルは高いほうだろう。
 音楽祭に参加している他の大学生の演奏と聞き比べても遜色ない演奏だ。
 だが、聴いていて重苦しい感じがするし、音に迷いがあるようで落ち着かない。
 その迷いが吹っ切れた時には彼女はいい演奏家になるだろうに、と思ってはいたのだが。
 今の時点での演奏ならば他にソリストにふさわしいヴァイオリニストがいるのに、とも思う。
 しかし昨日のレッスン中、オケ指導をする千秋がレッスンを聴いていたのを知っている彼女は、その上で彼が香穂子をソリストに推したのならば、と特に異論を唱えることはしなかった。
「──とにかく、これは決定事項です。大丈夫、あなたちゃんと弾けてるから。自信を持って演奏に取り組みなさい」
 そう言うと講師は足早にレッスン室を出て行き、俯いて唇を噛み締める香穂子がひとり取り残された。

 あまりの事態にぼんやりとしていたせいであっという間に昼の休憩時間は過ぎ去り、香穂子がオケ練習が行われるホールに入った時には舞台の上ではバタバタと人が右往左往しているところだった。
「1stクラリネットの人〜、席ここでーす!」
「あ、はーい」
 数人の腕章をつけた実行委員が手に持った紙を見ながら座る席を指示し、それに応えた演奏者が慌しく席に座っていく。
 席についた者たちは、隣の人としゃべったり、楽器を鳴らしたりして準備が整うのを待っていた。
 幾分緊張の色が見えるのは、これから現れるはずの有名指揮者の指揮で演奏が出来るという興奮からなのだろうと思われた。
 管楽器の者でオケメンバーに選ばれなかった者たちが見学のために客席の前の方へ陣取っていて、楽譜を手におしゃべりに興じていた。
 レッスンのない講師たちの姿も見える。
 そんな様子がいたたまれなくなって、香穂子はこの場からいなくなってしまいたくなっていた。
 自分がここにいなければ、ソリストは他のヴァイオリニストの中から選びなおされるに違いない。
 香穂子はぎゅっと唇を噛みしめて、たった今入ってきた出入口へ向かおうと踵を返す。
「あっ、日野ちゃーんっ!」
 振り返れば、舞台の上で火原がぶんぶんと手を振っていた。その腕で『実行委員』の腕章が揺れる。
 火原は身軽に舞台を飛び降りると、香穂子目がけて通路の階段を駆け上がってきた。
「すごいよ日野ちゃん! ソリストに選ばれたんだね!」
「は……はぁ……」
「それ聞いたとき、なんかおれ、自分のことみたいにすっげー嬉しかった! あ、選ばれなかった人がどうこうって言うんじゃなくってさ。 でも、これだけいるヴァイオリニストの中から選ばれたんだもん、さっすが日野ちゃん!って感じだよね!」
 香穂子の困惑を余所に、火原は興奮気味にまくし立てた。
「あ……あの…」
「日野ちゃんの席はね、あの指揮台の横のところだよ。早くヴァイオリン準備しておいでよ!」
 舞台の上を指差していた火原は、来た時と同じように階段を駆け下りて、あっという間に舞台の上に戻っていた。
 逃亡に失敗した香穂子は深く長い溜息を吐き切ると、仕方なくヴァイオリンケースを客席の座席の上に置いて楽器の準備をし始めた。

 香穂子が舞台の脇の階段から舞台上に上がった時、反対側の舞台袖から千秋が颯爽と歩いてきていた。
 黒いスラックスに白いシャツをラフに着崩しているのに全くだらしなく見えないのは、そのスタイルとルックスの良さのおかげだろうか。
 オケメンバーは拍手の代わりに足をドンドンと踏み鳴らして、千秋の登場を熱狂的に迎えた。
 千秋が指揮台に上がり譜面台の上に総譜と指揮棒を置くと、舞台の上はしんと静まり返った。
 ぐるりとメンバーの顔を見回し、指揮台の隣の空いた椅子に気付くと、舞台の脇に立ちすくんでいる香穂子を見つけて身振りで席に着くように促した。
 香穂子が席に座ったのを見届けてから、千秋は口を開いた。
「改めて……千秋真一です。最終日の発表会を目指して、いい音楽を作っていきましょう。じゃあ、簡単に自己紹介をコンマスから」
 千秋に促され、一人ずつ名前と学校名と学年の簡単な自己紹介をしていく。
 人数が人数だけに一言ずつでも結構な時間がかかった。
「── 最後、ソリスト」
 ビクッと身体を震わせて、今にも泣き出しそうな顔で見上げている香穂子に、千秋は彼女を安心させるように口元に笑みを浮かべた。
 ゆるゆると立ち上がり、
「……星奏学院、高等部3年…日野です」
 ざわざわと空気が揺れた。
 『なんで高校生が?』と口々に囁き合っているのが香穂子の耳にも届いていた。
 震える手をぎゅっと握り締めて辛そうに俯いている香穂子に冷ややかな視線が投げかけられ、同じ高等部の生徒や火原を始めとする去年のコンクールやコンサートで香穂子のことを 知っている星奏の大学1年の学生たちは心配そうに見つめていた。
「静かに!」
 千秋の一喝で、再び静けさが戻ってくる。
「練習を始めます。まずは第1楽章から。今日は初合わせなので細かい技術なんかはあまり気にしないで伸び伸びと。ただしアンサンブルとハーモニーはちゃんと感じて。 それから曲が長いけど集中力を切らさないように」
 タクトが上げられると一斉に皆が楽器を構え── 振り下ろされると同時にオケが鳴り始めた。

 1楽章を演奏し終えたところで、千秋は各パートに簡単な指示を出した。
「それから、日野」
「……はい」
 眉間に皺の寄った千秋の険しい顔つきに、香穂子は小さくコクリと唾を飲み込んだ。
「この曲について調べてみた? 作られた背景とか」
「……いえ」
「アナリーゼは?」
 小さく横に首を振る香穂子。
 千秋は何かに思いを巡らせるように天井を見上げた後、客席の方へ振り返り、講師の一団に声をかけた。
「すいません、今日は図書館開いてますか?」
「いえ今日は……開けさせましょうか?」
「お願いします。適当な書籍とCDを── 演奏者の違うものがあればそれも。彼女を案内してやってください」
「わかりました」
 受け答えしていたのは香穂子のグループ担当の女講師で、客席から立ち上がると『日野さん、行きますよ』と声をかけて出入口のほうへ向かっていった。
 とぼとぼと歩き出した時、再び『日野』と呼ばれて足を止めて振り返った。
「調べたことを踏まえて練習して。成果は明日、聴かせてもらうから」
 静かな口調の千秋に一礼すると、香穂子は講師が扉を開けて待っている出入口へと向かった。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 完全後ろ向き、どん底の香穂ちゃん。
 さぁ、彼女が浮上するのはいつになるのかっ !?(笑)

【2007/06/27 up】