■Ecdysis【4】
午後から早速開始されたグループレッスン。
香穂子は座り心地の悪いパイプ椅子に座り、膝の上に置いたヴァイオリンをぼんやりと見詰めていた。
ヴァイオリンと膝の間に挟まれているのは課題曲として与えられているベートーヴェン唯一のヴァイオリン協奏曲の楽譜。
音楽祭特別編成オーケストラで演奏する曲でもあり、この曲のソロパートでレッスンを受けることになっている。
広いレッスン室にはヴァイオリンを持った学生が香穂子を含めて5人。
そのうちの一人が無理に若作りしていると思しき女性講師の指導を受けていた。
こうやってぼーっとしてるくらいなら、どこか他の場所で練習させてくれればいいのに。
ヴァイオリンのネックを掴む手に力がこもる。
音楽祭参加を申し渡されてから1ヶ月、担当の永山から香穂子の演奏に満足する言葉は一度も出なかったのだ。
香穂子が意地になって練習すればするほど、演奏を聞いた永山の表情は曇っていった。
必死になったが故に、激しい曲でもないのに演奏中に弦が切れてしまったことも何度もある。
結局、一度も合格点をもらえないままここに来てしまった香穂子は自分の演奏に自信を失っていた。
「次、日野さん、日野香穂子さん」
「……はい」
香穂子は立ち上がると、講師の前に置かれた譜面台に楽譜を乗せた。
「では1楽章の最初から」
ゆっくりとヴァイオリンと弓を構え──
弾きたくないわけじゃないけれど─── 今は、弾きたくない……
「どうしたの、早く弾きなさい」
講師の少々怒気の混じった急かす声に、香穂子はぎゅっと目を瞑って弦の上に弓を滑らせた。
ちょうどその時、静かに開いたドアから滑るように入ってきた人影に香穂子が気づくことはなかった。
* * * * *
レッスン室を出た千秋が講師控え室に戻ると、部屋の中にはコーヒーの香ばしい香りが充満していた。
「どうでした?」
癖のある長髪を後ろで束ね、無精ひげを生やした、およそ教師には見えない男が置いたカップがソーサーの上でカチャリと小さな音を立てた。
「どうもこうも……彼女をソリストに、という星奏さんの意図がわからない、としか僕には言えませんね」
ふむ、と唸ると、金澤は再びカップに口をつけた。
千秋が金澤の隣の椅子に腰を下ろすと、すぐさま桃ヶ丘の職員らしい女性がコーヒーを運んできて、辺りに漂う香りが一段と濃くなった。
「無理に特別参加の高校生をソリストにするより、大学生の中から選んだほうがいいと思いますが」
再び、ふむ、と唸り、金澤は手元においてあったポータブルのCDプレイヤーをすっと千秋の方へ押しやった。
「何ですか?」
「まあ聴いてみてくださいよ」
訝しげな顔をしつつ、千秋はイヤホンを耳につけるとPLAYボタンを押した。
シャーッとディスクが回転する音が聞こえたと同時に千秋の目がハッと見開かれ、その後は真剣な面持ちになっていった。
一音も聞き逃すまいと耳に手を添えて聞き入っている千秋の傍で、金澤が音を立てずに静かにコーヒーを啜る。
そうして数分が過ぎた時、千秋は両耳からイヤホンを外して、ふぅ、と息を吐いた。
「── こういう演奏なら、文句ないんですが」
「………恐らく、肩に力が入りすぎてるんでしょう。以前、発破かけてやったことがあるんですが、それが効き過ぎたのかも……ははは、お恥ずかしい」
後ろ頭をボリボリと掻いて、金澤は口元を苦笑に歪めた。
「去年のことなんですがね── 『あと3年』、20歳までが重要だぞ〜、なんて。まぁ、俺の言葉そのもので悩んでる訳じゃないんでしょうが、どこか心の片隅にでも残ったんでしょうな。
大きな壁に直面して、明らかに焦ってる。それも音楽家として不可避な壁じゃなく、自分で作り出してしまった壁に」
頭の後ろで手を組んで椅子の背凭れに体重をかけて天井を見つめながら話していた金澤がふいに口を噤んだ。
そのあまりの無表情さに、千秋は僅かに眉を寄せた。
「ま、その壁を乗り越えられたら、一段と成長すると思うんですがね── 彼女の場合、事情が特殊すぎるもんで」
「特殊……?」
鸚鵡返しに呟いた千秋の顔をちらりと見ると、金澤は様子を覗うようにキョロキョロと辺りを見回して、グイッと乗り出してきた。
「ナイショにしといてくれます?」
イタズラっ子のようにニヤリと笑う金澤に、思わず身を引いた千秋はゴクリと生唾を飲んで小さく頷いてしまっていた。
* * * * *
ピアノクラスも弦パートと同じように5人グループでのレッスンとなっていた。
決して間違ったことは言っていないがやたら大きな声で怒鳴り散らす関西弁の髭面の講師にうんざりしながら、梁太郎は自分の順番が来るのを待っていた。
ちらりと後ろに視線をやると、一人の女性が目を瞑り唇を尖らせながら、流れるピアノの音に合わせて見えない鍵盤の上で指を滑らせている。
レッスン開始時に講師と一緒に入ってきたその女性は、レッスン生用に並べられた椅子の後ろに余っていた椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。
どこかで会ったことがあるような気もするが、梁太郎は思い出すことが出来なかった。
やがて名前を呼ばれ、持っていた2冊の楽譜のうちの1冊を椅子の上に置くと、梁太郎はよろしくお願いします、と一礼してピアノの前に座った。
梁太郎が弾き始めると、圧倒的な音の奔流にその場にいた者たちが息を呑んだ。
目を丸くしていた女性は、ふおぉ、と小さな声を上げると、再び目を閉じてうっとりと聞き入った。
1楽章を弾き終えた時には、ブラボー、と小さく呟いて、胸の前で合わせた手の指先だけで音のしない拍手を送っていた。
梁太郎が講師から指導を受けている間に、女性は椅子の上に置かれた楽譜に視線を落とした。
表紙をじっと見つめた後、身体を乗り出してそっとページを摘んで中を覗き込むと、1ページに何段もある五線譜の上にはびっしりと書き込みがされていた。
指摘された部分を数回繰り返して弾く梁太郎の背中と、開いたページを代わる代わる見比べると、女性は嬉しそうに笑みを浮かべた。
静かにページを閉じると、女性は再び椅子に腰を下ろして、梁太郎のピアノに合わせて見えない鍵盤を弾き始めた。
* * * * *
すでに午後10時を回っているというのに、ホテルのレストランは大勢の学生で賑わっていた。
星奏学院の学生たちが音楽祭の期間中寝起きするホテルは、もちろんリゾートホテルなどではなく桃ヶ丘に程近いビジネスホテル。
ある程度の自由を知っている大学生にとって、適度な束縛感は意外に楽しいものらしく、あちらこちらで大きな笑い声が起きていた。
自然と同じテーブルに固まってしまった高等部の生徒たちも、2年生の時の修学旅行を思い出すのか、楽しげに談笑している── 2人を除いて。
自宅での練習ができない星奏組のために10時まで開放されていた練習室を後にしてから、香穂子は思いつめたように黙りこくっていた。
その傍にいる梁太郎の口数も自然と少なくなっていた。
溜息混じりに箸を置いた香穂子のトレイの上には、ほとんど手をつけられていない料理の皿が乗っている。
「おい、ちゃんと食っとけよ。明日、持たないぞ?」
「……大丈夫だよ、おやつあるし。最悪コンビニにでも行くから」
そういえば駅から桃ヶ丘までの間に数軒のコンビニを見かけたな、と思い出す。
と、香穂子がカタンと音を立てて席を立った。
「ごめん、私、もう休むね」
「ああ── コンビニ行く時は俺のケータイ鳴らせよ。ボディガードしてやるぜ?」
「…うん、その時はよろしくね」
「日野ちゃん、どうかしたのかな?」
「なんか元気ないよな」
弱々しく微笑んだ香穂子がレストランから姿を消すと、さっきまで談笑していた生徒たちが小さな声で囁き始めた。
香穂子と梁太郎の仲を知っている全員の視線が、黙々と箸を動かす梁太郎に集中する。
「── 夏バテでもしたんだろ」
梁太郎の一言に納得したのか、生徒たちは再び談笑に戻っていった。
初めからさして美味しいと思わなかった食事はますます不味くなり、梁太郎はただ機械的に咀嚼と嚥下を繰り返した。
【プチあとがき】
管弦の課題曲が出てきましたな。
ベートーヴェンのヴァイコン。
実はあたしは第3楽章しか聞いたことありません(笑)
つーか、持ってるCDに3楽章しかはいってなかったんだもん。
ロマンス1番と2番が入ってたから買ってみただけだったので。
さて、ピアノの課題曲は何だと思いますか?(笑)
あたしの中では、シューマンのピアノソナタ3番のつもりなんですが。
つっちーが弾いたらカッコイイだろうな、と思いまして。
いかがでしょうか?
【2007/06/18 up】