■Ecdysis【3】 土浦

 梁太郎は心地よい電車の揺れに身を任せながら、車内をぐるりと見回した。
 ひんやりとエアコンの効いた車両には、楽しげにはしゃぐ一団。
 もちろん音楽祭に参加する星奏学院の生徒たちである。
 正確には、高等部から参加する数人の生徒と、残りは付属大学の学生たち。
 久々の再会だったのか、引率のやる気のない音楽教師は大学生たちに囲まれ談笑している。
 学生たちは大きなバッグに、ほとんどが何かしらの楽器のケースを大事そうに抱えている。
 まるで遠足に行く子供たちの貸切列車だな、と溜息を吐いて、ふと隣を見た。
 隣に座っているのは香穂子。
 窓枠に頬杖をつき、車窓の外を通り過ぎていく景色をぼんやりと見つめている。
 膝の上のヴァイオリンケースを支える左手の指が、ヴァイオリンの弦を押さえるように微かに動いていた。
 きっと香穂子の頭の中では何か音楽が流れているのだろう。
 ただ座席に座っているのにも疲れてきて、ほんの少し身じろぎすると、僅かに肩がぶつかってしまった。
 はっと目を見開いた香穂子が振り向いて、小首を傾げて口元に笑みを浮かべた。
「ん、どうかした?」
「あ、いや…悪い」
「あっ、もしかしてお腹空いた? おやつ持ってきたんだけど食べる?」
「ガキの遠足じゃあるまいし」
「えー、おいしいのにー。新発売のチョコなんだけどなー」
 香穂子は梁太郎の反応が不満だったのか、少し唇を尖らせながらバッグの中をゴソゴソと探る。
 無造作に突っ込まれていた飲みかけのペットボトルのお茶が落ちそうになった。
 慌てて掴んだペットボトルを梁太郎の手に押し付けると再びバッグの探索に戻り、お目当てのチョコレートを発掘するとパッケージを開けて、あーっと声を上げた。
「どうしたんだ?」
「……ちょっと溶けかけてる。さすがに夏だねぇ。でも── ふふっ、おいしいのには変わりはないもんね!」
 チョコレートを一欠片口に入れ、幸せそうな笑みを浮かべた。
 そんな香穂子には悩みなど欠片もないように見えた。
 1ヶ月前に打ち明けられた悩みはすっかり解決した── などという楽観視を梁太郎はしていない。
 溜め込んでいたレッスンでの不満を吐き出したことで、多少心は軽くなったのかもしれないが、根本的に香穂子の状況は1ヶ月前とほとんど変わっていないと思われた。
 一人篭って練習室でヴァイオリンを奏でる香穂子の表情は晴れやかなものではなかったから。
 目の前の重いドアを開けて、『聞いてやるから話せ』と愚痴を聞くことも、『そこはこうしたほうがいいんじゃないか』と助言を与えることも、やろうと思えばできたはずだ。
 そうしたとしても、今の香穂子が素直に口を開くことも、聞き入れることもないだろうことは容易に予想できたが。
 決して遠慮しているわけではなかった。
 元々出会った頃から言いたいことを言い合える相手だったし、だからこそ梁太郎は香穂子に好意を持つことになったのだから。
 だが、今は自分が口を出す時ではないと思っていた。
 香穂子の音楽は香穂子のもの。
 香穂子が目指す音楽の道の行く先を思い悩むのは香穂子自身であり、決めて目指すのも香穂子自身。
 行く先が同じ場所ならばいいと思いこそすれ、先人の道案内に耳を傾けることはあろうとも音楽の道を歩み始めたばかりの自分が口を挟むことではない。
 決して手を抜いていたわけではないがあくまでも趣味の範疇でやっていたコンクールやコンサートの頃と、今現在は違うのだ。
 例えば今、香穂子が目も眩むような高い断崖絶壁からぶら下がってるとしても、手を差し伸べてその手を掴み、引っ張り上げてやるほどの力はない。
 今の梁太郎には、香穂子が諦めて岩を掴む手を離さないように傍で励まし、香穂子が這い上がってくるのを見守っていてやることしかできないのだ。
 だから音楽以外のことでは絶対に香穂子を守ってやろうと思った。
 簡単に守らせてくれるような弱い女でもないが、と笑いがこみ上げてくると同時に『音楽以外』ってなんだ?守るってなんだ?と疑問が湧いてくる。
 音楽を通じて出会い、音楽と共に育っていった気持ち── 音楽とは切り離すことはできないのに。
 守るにしても一体何から守ればいいのだろう?
 改めて感じた自分の無力さに苛立ちながらも、梁太郎は夢の中で再会した妖精の言葉に賭けてみるしかないと思った。
 この音楽祭で何かを掴んだ香穂子が、作り笑いでなく心から笑えた時、誰よりも一番近くにいて、『よかったな』と抱きしめてやれたらそれでいい──。
「── 梁?」
「んあ?」
「何ひとりで百面相してるの?」
「は !?」
「ずっと眉しかめてたと思ったら、へらっと笑ったり」
「へら……ってお前なぁ、誰のせいだと──」
 思わず口走ってしまいそうになるのを必死にこらえ、ふと目に付いた香穂子の手元のチョコレートを一欠片つまみ上げた。
 口に放り込めば、カカオの苦味よりも先に襲ってくる口の中にまとわり付くような甘さ。
「甘っ!」
「それがいいんじゃないの」
 お茶もらうぞ、と梁太郎は手に持たされていたペットボトルのお茶で口の中の嫌な甘さを洗い流す。
……私の考えも……甘いのかな…
「ん?」
「な、何でもない」
 香穂子は慌てて硬い笑みを浮かべ、小さく肩をすくめた。

 最寄りの駅で電車を降り、ぞろぞろと列になって桃ヶ丘音大を目指す。
 香穂子はヴァイオリンケースを持ち、貴重品や細々したものを入れたバッグを肩からたすきがけにしている。
 というわけで、当然梁太郎の両肩には二人分の大きな荷物。
 自分から申し出たこととはいえ、香穂子の荷物は何が入っているのか見た目以上に重い上、まだ午前中だというのにジリジリと肌を焼くような日差しに辟易としながら目的地を目指す。
 桃ヶ丘に着くと、学校名の刻まれたプレートが埋め込まれた正門のそばには『音楽祭参加者受付はこちら』と書かれた立て看板が置かれていた。
 星奏学院とは違う雰囲気に圧倒されながら矢印の指す方向へと進んでいく。
 進んだ方向に貼られた矢印にまた従っていく様子はまるで小学生の頃にやったことのあるオリエンテーリングのようだと思わず笑みがこぼれた。
 やっと辿り着いた建物の中へ入ると、夏の強い日差しから解放されてほっと人心地つく。
 荷物を床に降ろすと、悲鳴を上げていた肩が負荷から解放されて、身体が軽くなった。
 適度に効いたエアコンのお陰でロビーは涼しく、身体に蓄積された熱を早く外へ逃がそうとして吹き出す汗を拭きながら、受付の順番待ちの列の最後尾へと並んだ。
「あっ、日野ちゃん! 土浦!」
 ふいに聞き覚えのある大きな声が列の先頭の方から聞こえてきた。
「あ…火原先輩…?」
 ぱたぱたと駆け寄ってきたのは火原和樹。
 現在付属大学の1年で、去年の学内コンクールに共に出場して以来の付き合いである。
 卒業式以来数ヶ月振りに会う火原は相変わらず飼い主を見つけて駆け寄ってくる子犬のように無邪気で、梁太郎と香穂子は思わず顔を見合わせてクスリと笑った。
「二人とも久しぶり! 会えて嬉しいよ!」
「どうも。先輩も参加だったんですね」
「うん、おれは前乗りだったんだ。音楽祭実行委員ってのになっててさ、準備とかいろいろあって」
 そう言いながら火原は左腕につけた腕章を指で引っ張って二人に見せた。鮮やかなブルーの布に『実行委員』とマジックで書いてある。
「今は受付やってるんだけど、名簿に二人の名前見つけてずっとワクワクしてたんだ。早く来ないかな〜って気になっちゃって」
「金やんも来てますよ、俺たちの引率とかで」
「えっ、そうなの !? 後で会いに行こうっと」
 3人で懐かしさに浸っていると、列の前方から火原を呼ぶ怒鳴り声が聞こえた。
「火原ーっ! サボるなーっ!」
「はーいっ! すぐ戻りまーすっ!── ってことでおれ、戻らなきゃ。あ、そういえば日野ちゃんとオケで一緒に演奏できるのって始めてだよね。 あー、ヴァイコンじゃなくてピアコンだったら土浦とも一緒にやれたのになー、残念」
「はははっ、大学生を差し置いてソリストになんて選ばれませんって。でも、オケの練習は見せてもらいますよ」
「えっ、なんで土浦がオケ?」
「ま、まあ……いろいろあってオケの勉強中ってところです。今はピアノだけじゃなくていろんな音楽に触れたいもんで」
「へー、すごいなぁー」
「おい火原っ!」
 再び火原を呼ぶ声。
「うわっやべっ! じゃ、二人ともまた後でゆっくりね!」
 ぶんぶんと手を大きく振りながら、火原は走って戻っていった。
「── ったく、相変わらずだな、火原先輩」
 慌しい後姿を見送りながら、梁太郎は苦笑混じりにつぶやいた。
 すぐに隣から聞こえるだろうと思っていた同意の言葉はなかなか返ってこない。
 見れば香穂子は眉根を寄せて、じっと足元の床を見つめていた。
「香穂……?」
「……………」
「おい、香穂」
 細い肩をやんわりと掴んで軽く揺すると、香穂子はビクリと身体を震わせてハッと梁太郎の顔を見た。
「どうした、大丈夫か?」
「え……あ、うん、平気── あれ? 火原先輩は?」
 香穂子は我に返ったように、周りをきょろきょろと見回した。
「受付に呼ばれて戻ってった……って、ほんとにお前、大丈夫か?」
「だ、大丈夫だってば! もう、梁ってば心配性なんだからー。あ、前進むよ」
 いつの間にか出来ていた間隔を詰めるべく、香穂子はちょこちょこと小走りで進んでいく。
 梁太郎は小さく溜息を吐くと、二つの重いカバンを持ち上げて、後に続いた。

*  *  *  *  *

 《P&S音楽祭》── 誰が名付けたのか、Peach(桃ヶ丘)とStar(星奏学院)の頭文字を単純に組み合わせただけの名を冠された音楽祭。
 記念すべき第1回目となる今年は桃ヶ丘音楽大学のキャンパスを使って開催される。
 当面は両大学を1年ごとに使う予定で、軌道に乗れば桃ヶ丘と星奏だけでなく他の大学からの参加者も募り、 某世界的ピアニストの名を冠した音楽祭のようにどこかの避暑地の研修施設のような場所で大々的に開催することも視野に入れている。
 10日間の日程で、各楽器の個人レッスンをしつつ、最終日には管弦での参加者によるオーケストラ、ピアノでの参加者の代表によるコンサート形式の発表会が行われる。
 今回の目玉はオケ指導に世界で活躍する若手指揮者、千秋真一が招かれていることだろう。
 アイドル張りのルックスで、彼が振るコンサートの会場には若い女性が殺到するらしい。
 それに実力が伴っているのだから、チケットにプレミアが付くのも頷けた。
 おまけに今回はサプライズゲストで有名な演奏家も来ているという噂もあった。
 そのせいか、開会式として全員が集められたホールは外の暑さに負けないほどの熱気に包まれていた。
 司会者の進行により、桃ヶ丘の桃平理事長が挨拶をし、星奏の吉羅理事長が同じく挨拶をする。
 そして、司会者が『みなさんお待たせしました!』と会場を煽ると、舞台袖にピンスポットが当たり、一瞬会場がしんと静まり返る。
『今回、オーケストラを指導してくださる指揮者、千秋真一さんです!』
 一斉に会場を震わせる悲鳴のような声と、盛大な拍手に迎えられ、千秋真一が舞台袖から颯爽と歩み出て中央で一礼すると、スタンドマイクの前に立った。
『千秋真一です』
 きゃーっとあちらこちらから聞こえてくる黄色い声に千秋は面食らったように目を見開くと、ぱっと顔を赤らめ半歩後ずさって、声を制するようにぎこちなく片手を挙げた。
 世界を飛び回る有名指揮者ならもっと鷹揚な態度だろうと思っていた梁太郎は、意外な千秋の反応に好感を持った。
 会場が静かになってくると、ゴホンと咳払いをして先を続ける。
『── 今回、栄えある第1回目の音楽祭に招いていただいて、大変感謝しています。 僕が指揮者としての第一歩を踏み出したこの場所で、音楽家への道へ進み始めた皆さんと一緒に音楽を作っていけるのを楽しみにしてきました。 10日間という短い期間ではありますが、一緒に楽しい音楽の時間を過ごしましょう』
 再び一礼して後ろに下がる。
 会場は割れんばかりの拍手と歓声が響き渡った。
 その中の一人、梁太郎も尊敬と憧れの眼差しで、痺れを感じるほどに手を叩いていた。
 隣の香穂子は、ぼんやりとした目で興味なさげにおざなりな拍手をパラパラと送っていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 書き直すたびに、どんどんドツボに嵌っていくぞ。
 こんだけ書くのに1ヶ月以上だよ、とほほ……
 火原出しちゃったし。
 一応重要な役回り、かも。
 さて、千秋様、本格的に登場?
 ちょっと持ち上げ過ぎかもしれませんが、まあ学生さんたちにとっては憧れの人でしょうから。

【2007/06/01 up】