■Ecdysis【2】 土浦

 予約していなかった上に出遅れたせいで、香穂子も梁太郎も練習室を確保することができなかった。
 今日の放課後は自宅で練習することにしてその前に、と二人はカフェテリアに来ていた。
 昼休みの喧騒が嘘のように静まり返った室内には、他愛無いおしゃべりをしている生徒たちの姿がちらほらと見えるだけだった。
 自販機で買ったジュースを手に、ガラガラのテーブルのひとつに隣同士で腰を落ち着ける。
 座るやいなや、梁太郎は受け取ったばかりの資料をめくりながら、『へぇ』とか『ほぅ』とか一人で盛り上がっているように見えた。
「梁、なんか楽しそうだね」
「そうか? まぁ、楽しくないと言えば嘘になるだろうな。ほら、冬にお前と行ったコンサート、あの時の指揮者が千秋真一なんだよ。 お前だってあのコンサートに感動して、音楽の道を選んだんだろ?」
「そうだけど……私が感動したのはあの『カルメン』のヴァイオリニストだもん」
「そりゃあのソリストの技術はすごかったが、曲を纏め上げたのは指揮者だ。学生オケとはいえ、あの千秋真一がどう曲を組み立てていくのか、今から楽しみでしょうがないぜ。 あ、そうだ、明日お前暇か? オケの課題曲の総譜買いに行くから付き合えよ」
「……いいけど」
 見るからに浮かれている梁太郎は、今にも鼻歌でも歌いだしそうだった。
 香穂子は目の前に置かれた紙の束── 音楽準備室を出る時に金澤に渡された課題曲の楽譜── の表紙を指先でつまんでめくり、すぐに閉じて大きな溜息を吐いた。
「なんだよ、やけに憂鬱そうだな。そんなに嫌か、音楽祭?」
「嫌っていうか……今は人前で弾きたくないっていうか……」
 きゅっと結んだ口の端を不機嫌そうに下げ、指は所在なげにテーブルの上の紙コップを弄んでいる。コップが揺れてオレンジ色の小さな丸い水面に波紋が浮かび上がった。
「スランプか? それともなんか悩みでもあるのか? 話してみろよ」
 梁太郎の言葉に香穂子はうーんとしばらく考えて、紙コップのオレンジジュースを一口飲むと、テーブルの上に両手で頬杖をついた。
「スランプというより欲求不満っていうか……最近考えちゃうんだよね」
「何を?」
「── 私、音楽科に編入してよかったのかな、って」
「はぁ !? 何を今更──」
 香穂子は大きな溜息を吐いた。
 あのキラキラと輝く、というよりギラギラと燃え盛るような目で音楽科行きを宣言した香穂子はどこへ行ったのだろう。
 梁太郎は眉根を寄せて、ぼんやりと宙を見つめる香穂子の横顔をじっと見つめた。
「── 私ね、もっともっとヴァイオリンうまくなりたいんだ」
「……だろうな」
「なのにね、永山先生ったら基礎練習にたっぷり時間とった上に、すごい簡単な練習曲しか弾かせてくれないんだよね」
 永山、というのは香穂子の担当のヴァイオリン教師の名前である。壮年の、いかにも頑固といった風貌の男性教師で、その厳しさは学内一と言われている。 その厳しさ故に煙たがられる存在ではあるが、優秀なヴァイオリニストを何人も育て上げていて尊敬もされている。
「そりゃ…永山にもなんか考えがあるんじゃ──」
「でもさ、梁が今、『さぁ今日から君の課題はバイエルだ!』なんて言われたらどうする?」
 頬杖のままちらりと視線を寄越してくる香穂子に、梁太郎はうっと言葉を詰まらせた。
 梁太郎はくしゃりと前髪を掻き上げると、
「…そんなこと考えたこともないし、ありえない話だが── そう言われたら『ふざけるな!』ってキレるかもな」
 でしょ?と香穂子は小さく笑って、再び正面の宙に視線を戻した。
「でね、その簡単な曲の練習中も注意ばっかりされるの。『正しい姿勢で!』『正しいボウイングで!』って。私のヴァイオリン、全否定された気分になっちゃって。 ヴァイオリン弾くのって、こんなにつまんなかったのかな、なんて思ったりして。こんな思いするなら、普通科のまま趣味で弾いてた方がよかったのかなぁ」
 ふぅ、と香穂子は溜息を漏らした。
 こんなに後ろ向きの香穂子を、梁太郎は初めて見た気がする。
 去年、春のコンクールの開催が発表された翌日、風に飛ばされた楽譜を拾ってやったのが香穂子との出会いだった。 もちろん同じ小学校に通っていた頃の大切な思い出はあるが、それは後で思い出したこと。香穂子を香穂子として認識したのはこの時が初めてだった。
 普通科在籍で選ばれるとは大したものだと思っていたら、まったくの初心者で。さすがに途方に暮れてはいたが、逃げ出すことはしなかった。 『助けてほしい』と泣きついては来たものの、それは前向きにコンクールに── ヴァイオリンに取り組もうという気持ちの表れに他ならない。
 そして秋から冬にかけてのコンサート。コンクールメンバーや音楽科の生徒を率いて4回のコンサートを完遂した根性のある女のはずなのに。
 考えてみれば、4月に音楽科に編入して以来、香穂子と音を合わせることがなかった。
 登下校では必ず顔を合わせ、休日もほとんど一緒に過ごしているし、お互い新しい環境に慣れるのに精一杯であまり気にしていなかったが。
 おそらく香穂子には胸を張って披露できる曲がなかったのだろう。
 それにしても永山は何を考えているのだろうか。
 香穂子のヴァイオリンの基礎は初心者にも簡単に弾けるというファータ製の魔法のヴァイオリンによって作られたもの。 コンクール中に魔法のヴァイオリンが壊れてしまった後は、ファータ製ではあるが魔法のかかっていない普通のヴァイオリンに持ち替えた。 それ以来、香穂子は自己流でヴァイオリンを弾き続けてきたのだが、演奏レベルは高いほうだと梁太郎は思っていた。
 しかし、教師から見れば香穂子の技術には正すべきものが多かったのだろうか。
 それとも、ヴァイオリンを始めて1年にしかならないという話をどこかで聞きつけてのことなのだろうか。
 梁太郎自身、ピアノ講師の母親から基礎の大切さを耳にタコができるほど聞かされて育ったから、香穂子に基礎を指導する永山のやり方もわからないでもない。 が転科して3ヶ月も経つのに未だそんな状態だというのはいまいち理解できなかった。
「……まあ、お前の場合、ヴァイオリンを始めたきっかけが特殊だからな。今は基礎を見直す時だと思って頑張るしかないんじゃないのか?」
「それはわかってるんだけどね。『基礎は大事』── 梁に何度も聞かされて耳タコですから」
 香穂子は残ったオレンジジュースを一気に飲み干すと、空になった紙コップを勢いよくテーブルに置いた。カンッと軽く乾いた音が広い空間に響き渡る。
「まあでも、音楽祭まではレッスンで課題曲見てもらえるらしいし、頑張ろうかな、うん」
 まるで自分に言い聞かせているかのような香穂子の言葉。
 ぐしゃりと紙コップを握り潰すと、すっと立ち上がった。
「さてと、家に帰って練習でもすることにしますか」
「……おう」
 梁太郎も慌てて残ったコーヒーを喉に流し込み、席を立つ。
 香穂子の手の中から潰れたコップを抜き取ると、自分のコップの中に落として、まとめてゴミ箱に放り込んだ。
 空いた手をそのままポンと香穂子の頭の上に乗せる。
「まあ、その、なんだ……あんまりひとりで溜め込まずに、愚痴くらい零せよ。いくらでも聞いてやるからさ」
 一度足元に視線を落とした後、香穂子はゆっくりと梁太郎の顔を見上げた。
「……うん、そうする…。ありがと、梁」
 そう言って、香穂子は弱々しく微笑んだ。

*  *  *  *  *

『─── ろう…』
 どこからか声が聞こえる。
 ぼんやりとした意識の中で、耳だけで声のした方向を探ってみるがわからなかった。
『── りょうたろう』
 自分の名前?
 きょろきょろと辺りを見回しても何も見えなかった。
 右も左も、上も下も、見渡す限り真っ白な空間が広がっている。
 下を見たときに、見えるはずのものが見えなかった── 自分の身体が見えなかったのだ。
 何もない空間にポツンとカメラが置かれ、その映像を見ているような感じ。
 それでいて自分はここに存在しているという感覚もあった。
 それよりも、ただすべてが真っ白な空間で本当に上下左右を見たのだろうか?
 そんな疑問も湧き上がってくる。
『── 土浦梁太郎!』
 やはり呼ばれている。
「……誰だ?」
『おおっ! 我輩の声が届いたのだな!』
 聞き覚えのある声と口調──
「……リリ、か?」
『そうなのだ! 久しぶりだな、土浦梁太郎!』
 身体の力が抜け、がくんと頭をうなだれた── ような気がする。
「……今度は何の用だ? また厄介なことに巻き込むつもりじゃないだろうな? それより何だこの空間は !?」
『我輩、お前に頼みたいことがあるのだが、コンクールを開催していない今、我輩は人間の前に姿を見せるわけにはいかないのだ。 だから強力な夜の魔法に我輩の想いを乗せて、お前の夢に送り込んだのだ』
「ははっ…、じゃあ俺は今、夢の中にいるわけか。それなら納得── するわけねぇだろ!」
『むむっ、相変わらず気の短いヤツなのだ……』
「うるせぇっ! それよりも夢に入り込むんならあいつの方に直接行きゃいいだろうが!」
『何度も試したのだ……だが日野香穂子は我輩に心を閉じてしまったようなのだ……』
 姿の見えない妖精の声が明らかに落胆の色を帯びた。
 その気配にただならぬものを感じて、梁太郎は居ずまいを正し(たつもりで)声に耳を傾けることにした。
「── で、頼みたいことってのは何だ?」
『うむ……最近、日野香穂子の音が我輩の心に響かないのだ。我輩、日野香穂子の音を見失ってしまったのだ』
「……!」
 香穂子本人から『基礎ばかりやらされてヴァイオリンを弾くのがつまらない』と聞いたのは今日のことだ。
 そんな彼女の奏でる音が、音楽の楽しさを広めることが使命であるファータの心に響くはずはない。
 梁太郎は昼間の出来事をかいつまんでリリに話した。
『なるほど……日野香穂子は今、音を奏でる楽しさを失っているのだな…』
「だろうな」
 梁太郎はふと頭に浮かんだ疑問を妖精にぶつけてみることにした。
「なあリリ── 確か、魔法のヴァイオリンは魔法が劣化して壊れちまったんだよな?」
『うむ、その通りなのだ』
「だったら、魔法がなくなったことで香穂の技術も劣化していったってことなのか?」
『いや、そんなことはないのだ! あのヴァイオリンの魔法はあくまでサポート、自転車で言えば補助輪の役割なのだ。 日野香穂子の技術は日野香穂子が練習を重ねて身につけた、紛れもない本物なのだ!』
「じゃあ、なんで永山は香穂に基礎ばかりやらせるんだ? 自己流で妙な癖でもついちまったのか、それとも別の理由があるのか……?」
『むむぅ、それは我輩にもわからん……』
 リリはうーん、と唸って黙りこくってしまった。
『── だが、今度の音楽祭で何かが変わるような気がするのだ』
 あ、と梁太郎は小さく声を上げた。
 昼間の金澤の口振りでは、リリが吉羅に香穂子を音楽祭に参加させるよう命令した、というのは明らかだった。
「……香穂の絶対参加はやっぱりお前の差し金か?」
『うむ、そうなのだ。この音楽祭で、日野香穂子が自分の音を取り戻してくれればいいのだが……というわけで土浦梁太郎、お前には我輩の代わりに日野香穂子を見守ってやってほしいのだ』
「は !?」
 もちろん頼まれなくたって見守ってやるし、今までもそうしてきたつもりだ。香穂子に何事かあれば、身を挺して守ってやりたいとも思っている。
『とにかく、日野香穂子と絆を結んだお前にしか頼めないのだ── ん? そろそろ魔法が切れる時間だな。ではな、土浦梁太郎、頼んだぞ〜』
「お、おいリリ! 待てコラッ!」

 一方的に頼みごとをして気配を消した妖精を追って伸ばした手は、天井に向けて突き出されたまま虚空を掴んでいた。
 ぱちぱちと瞬きをして目だけで周りを伺えば、そこは自宅の自分の部屋。カーテンの隙間が明けきらぬ朝の光でぼんやりと帯のように光っていた。
 伸ばした手をストンとベッドの上に落とし、ゆっくりと身体を起こして頭を振る。
 今のが夢であろうと、そうでなかろうと、自分が香穂子にしてやれることはなんだろう、と梁太郎は必死に思考を巡らせていた。

〜つづく〜

【プチあとがき】
 なんでもアリなファンタジーってス・テ・キ♥
 いやあ、ここまで書くのに時間かかっちゃった、テヘッ♥
 リリは出すつもりなかったんだけどなぁ……
 さぁて、どう続くんでしょうか。
 のだめメンバーはどう絡むんでしょうか。
 ふふふ、生温い目で見守ってやってくださいな。

【2007/04/26 up】