■Ecdysis【1】
7月初旬のある日、日野香穂子は音楽準備室へと向かっていた。
掃除当番だったために教室を出るのが少し遅くなったせいで、少々駆け足気味で。
昼休みにふらりと教室にやって来た金やんこと音楽教師の金澤に『放課後、準備室へ来てくれ』と呼び出しを食らったからである。
以前コンクール担当として世話になったとはいえ、普通科の選択教科の音楽を教えている金澤に呼び出されるような心当たりはない。
香穂子は音楽を選択していないのだから。
ましてや今の香穂子は普通科でもない。
去年の春、たまたま見えてしまった妖精という存在でヴァイオリンを始めることになった香穂子が教師たちの勧めで音楽科に編入してから3ヶ月。
2年間身に付けた制服の色とは上下逆の組み合わせの制服にもすっかり慣れた。
ふと目をやった窓に映る自分の姿に足が止まる。
今はいているボックスプリーツのスカートはそれはそれで可愛いけれど、自分には前の短いプリーツスカートの方が似合うのではないだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら眺めた窓の外はまだ明けぬ梅雨の長雨。
どんよりと暗い空から落ちてくる雨粒に、思わず溜息が零れた。
こんな日はヴァイオリンの音も湿ったような篭った音がする。
── まるで私の心の中みたいだ。
俯いた視線の先に見えたのは、自分の手が掴んでいるヴァイオリンケース。
香穂子はもう一度深い溜息を漏らすと、無理矢理背筋を伸ばして、再び歩き始めた。
音楽室に入ると、いたるところで生徒たちが手にした楽器で音を出していた。
ああ、そういえば今日は金曜日だったっけ。
月水金の週3日、音楽室ではオーケストラ部が活動している。
天気が悪いこともあってか、今日はほとんどの部員がこの部屋にいるらしかった。
もしかすると、今日は全員で合わせるのかもしれない。
部屋中に散らばっている部員たちの間を縫って、知っている顔には声をかけながら、奥の準備室へと向かった。
準備室の扉をそっと開け、おずおずと頭を突っ込んでみる。
中には音楽科の生徒が数人、会議机を囲んで座っていた。
「なんだ香穂、お前も呼ばれてたのか」
聞こえてきた耳慣れた声。
資料棚にもたれて腕を組み、不敵な笑みを浮かべているのは香穂子の恋人・土浦梁太郎だった。
故あって幼い頃から続けていたピアノを人前では封印してきた梁太郎は、香穂子に巻き込まれる形でコンクールに出場し、秋のコンサートを経て、
香穂子と同様4月から音楽科の生徒となっていた。
香穂子は3年A組、梁太郎は3年B組── クラスが違うせいで、まさかここで会うとはお互いに思いもしていなかった。
「え…… 梁っ !? お前も、ってことは梁も?」
「ああ── ったく、今度は何企んでんだか」
梁太郎は不機嫌そうに眉をしかめた。
「おいおい土浦、失礼なこと言うなよ〜」
一番奥のデスクチェアに座った金澤が苦笑交じりに首筋をボリボリと掻く。
「よ、日野。遅かったな」
「あ、すみません、掃除当番だったもので……」
「そうかそうか、そりゃ忙しいところ悪かったなー」
「いえ……」
まだ扉から首だけ出した状態だった香穂子に、金澤はクイクイッと手招きをする。
するりと部屋の中に入り、空いていたパイプ椅子に座って足元に鞄とヴァイオリンケースを置くと、
ヨレヨレの白衣を翻して立ち上がった金澤が数枚の紙を綴じた資料のようなものを配り始めた。
「なんだよ、ここにいるのは全員楽器がバラバラみたいだし、またコンサートでもやれって言うのか?」
腕組みのまま憮然と訊く梁太郎に、金澤は手元に残った最後の1部となった資料でポンと胸を軽く叩いてから手に押し付けた。
「いや、今回はちょっと違うんだな〜」
「は?」
金澤はガラガラとデスクチェアを引きずってくると、だるそうにドサリと腰をかける。長い足を組んで背もたれに体重を預ければ、椅子はギシリと軋んだ。
「東京に桃ヶ丘音大ってのがあるんだが、そことうちの付属大学がこの夏、合同で音楽祭をやることになった。まあ、祭と言っても合宿みたいなもんだ。
そこに特別枠でお前さんたちを送り込むことになったそうだ。で、俺がお前さんたちの引率兼お世話係、と── ったく面倒なこと押し付けやがって」
最後の金澤のぼやきには誰ひとり耳を貸さず、生徒たちはパラパラと資料をめくりながら困惑そうに顔を見合わせていた。
香穂子が振り返ると、梁太郎も眉間に皺を寄せて香穂子の方を見ていた。
ざっと顔を見渡すと、ここに集まっているのは全員が3年生。
夏と言えば、今後の進路にとって重要な時期となる。
付属大学への内部進学組はともかく、外部受験を考えている者にとっては至極迷惑な話である。
「資料に目を通して、参加するか辞退するかは1週間後までに返事してくれたらいいさ」
じゃ解散、と金澤がパンッと手を叩くのを合図に、ブツブツと文句を口にしながら、ぞろぞろと生徒たちが準備室から出て行った。
「日野ー、土浦ー、ちょっといいか」
最後尾で部屋を出ようとしたところを呼び止められ、ふたりはちらりと顔を見合わせて金澤のところまで戻った。
「まだ何かあるんですか」
「そう怖い顔するなよ、土浦。お前さんたち二人には言っておかなきゃならんことがあるんだよ」
手をひらりと動かして座れと促す金澤に、二人は仕方なくさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。
香穂子は再びヴァイオリンケースと鞄を足元に置き、梁太郎は足を組んで身体を椅子に沈めると不機嫌そうに腕を組んだ。
金澤は手に持っていた資料をくるりと丸めて、その先端を香穂子の方へ向けた。
「んーとだな、日野── お前さんに選択の余地はない。絶対参加な」
「は !? なんで !?」
「えっ、どうしてですかっ !?」
「それはだな── 俺も知らん」
驚きに腰を浮かした二人に帰ってきたのはあまりにもあっさりとした答え。
「知らん、って……そんなぁ……」
がっくりと肩を落とす香穂子を見て、金澤は溜息を吐いた。
「そう落ち込まれてもなぁ……吉羅の── いや、理事長様の直々のお達しなもんでな」
「なんでそこに理事長が出てくるんだ?」
金澤はうんざりした顔で白衣のポケットからタバコとライターを取り出した。が、生徒二人を目の前にして吸うのもマズイと思ったのか、
ポケットの中にストンと戻すと、だるそうに机の上に頬杖をついた。
「アイツには俺たちには見えないものが見える── それが答えってことだろ」
「まさか……」
「日野はあのちっこい羽根付きに相当気に入られてるんだな〜。ま、それは別として、大学生に混じってヴァイオリンを習えるってのもそうそうある機会じゃないし、
得る物は大きいぞ。そういうことで頑張ってくれや」
悪戯っぽくニヤリと笑う金澤に、香穂子は溜息と共にますます深くうな垂れた。
「で、次は土浦」
丸められた資料の先端は今度は梁太郎に向けられる。
「お前さんが行くか行かないかは自由。だが、行けばいいことがあるかもしれん」
「は?」
「一応お前さんはピアノでの参加だが、頼めばオケの練習の見学が可能だ。お前さん、指揮者志望ならいい勉強になると思うぞ?」
金澤の手に握られた資料はタクトに早変わりし、4拍子のリズムを刻んでいた。
コンサートでのアンサンブルによって指揮者という夢を持つようになったことを、梁太郎は香穂子にしか語っていない。
別に隠すことでもないが、何かの雑談中に香穂子がそれを口にしたのかとも思って彼女を見れば、香穂子もきょとんとした顔で梁太郎を見ていた。『話したの?』と問いたげに。
梁太郎は小さく首を横に振って、金澤の方へと向き直る。
「…なんでそれを金やんが知ってるんですか」
「おっ、当たりか? いやぁ、図書室でお前さんが指揮法の本借りてるのを目撃しちまってな、推理してみたのさ。冴えてるなー、俺」
わっはっは、と満足そうに高笑いする金澤を睨みながら、梁太郎は口の中で『何が推理だ』と吐き捨てた。
「お前さん、誰を目指してるんだ? カラヤンか? フルトヴェングラーか? 世界の小澤か? フルトヴェングラーはやめとけよ、『振ると面食らう』なーんてな」
「ぷっ、先生うまい! 座布団一枚!」
「おっ、俺の高尚なダジャレについて来れるとは、お前さんもなかなかやるな、日野〜」
くすくす笑っている香穂子と、ウケたことが相当嬉しかったのか満面の笑みの金澤をよそに、梁太郎は苦々しい顔で頭を振った。
「もう話がないんなら帰りますよ」
「あー待て待て土浦、お前さん『千秋真一』って知ってるか?」
立ち上がろうと浮かせた腰を再びストンと降ろす。
金澤が何の意図でその名前を出したのか推し量りながら頭の中で言葉を選んだ。
「……そりゃ知ってますよ、パリを拠点に世界で活躍してる若手指揮者だし──」
憧れてますから、という言葉を梁太郎はあえて飲み込んだ。言えばまたからかわれるに違いない。
「その千秋真一が音楽祭のオケの指揮をするそうな」
「な……っ !?」
「千秋真一は桃ヶ丘の卒業生でな、向こうの理事長のオファーを快く受けたらしい。世界で活躍する指揮者の練習風景なんて滅多に見れるもんじゃないぞ?」
ガタンと椅子が大きな音を立てた。
「行きます── 参加させてください!」
立ち上がった梁太郎は拳を握り締めて、力強くそう宣言していた。
【プチあとがき】
えー、このお話は以前UPした「ターニングポイント」「Lips」と繋がっております。
未読でも問題はないとは思いますが、とりあえずそちらからどーぞ。
金やんのオヤジギャグは中学時代の音楽の先生が言ってたのを拝借。
むふふっ、千秋さま出しちゃいました。まだ名前だけですけど。
他分野キャラ混在が苦手な方にはツライかもしれませんが、
そういう場合はオリキャラ扱いで華麗にスルーしていただけるとありがたいです。
【2007/04/16 up】