■レインドロップ

 それは、乾いた大地を潤す恵みの雨の雫にも似た──

*  *  *  *  *

 梓が熱心に窓の外を眺めていた。
「── 何が見える?」
 彼女の後ろに立って、華奢な両肩に手を乗せて、同じように外を眺めた。
「うん、雨が降ってるな、って」
 しとしとと降る雨が、森の木々を青々と濡らしている。
 置き忘れた鉢の受け皿には、溢れそうな水に雨の雫が波紋を描いていた。
「雨は、嫌い?」
「ううん、今日は天気がよければ、シーツとか洗いたいと思ってたから。 ちょっと残念」
「そう── 俺は、雨は好きだよ」
「そうなの?」
「ああ」
 肩に乗せていた手を腕の方へと滑らせて、そのままそっと抱き締める。
「── ふふっ」
「ど、どうしたの?」
「ちょっと思い出してね」

*  *  *  *  *

 梓が邸に来てまだ数日の頃のこと。
 夕食を終えて、各々が自室や自分の部署に引き上げていく中、ダリウスはまだ食卓で食後のお茶を楽しんでいた。
「あの、ダリウス……今、ちょっといい?」
 部屋に引き上げたと思っていた梓が食堂に戻ってきていた。
 くだけた言葉遣いには少し慣れたようだが、まだまだ遠慮がちに尋ねてくる。
「どうかしたの、梓?」
「手を……見せてもらってもいいかな?」
 不思議に思いつつ、カップを置いて両手を差し出した。
 彼女は壊れ物に触るかのように慎重に手を取ると、顔を近づけて何かを探すようにじっくりと観察している。
 しばらくして両手の裏も表も満足に観察できたのだろう、ふう、と息を吐いて、顔に浮かんでいた緊張が薄らいだように見えた。
「ふふっ、くすぐったいね。 俺の手に何かあった?」
「あっ、ごめんなさい!  あの……初めて会った日に、私……ダリウスの手に噛み付いて逃げたでしょう?  もしかして傷になってたらどうしようと思って」
 言われて、そういえば、と思い出す。
「たいして痛くもなかったし、すっかり忘れていたよ」
「そ、そうなの…?」
「ああ、だから気にしなくていい。 あの時は、俺も君に手荒な真似をしてしまったからね。 どうにかして逃げようと思ったのも理解しているよ」
 よかった、と呟いた彼女の顔に微笑が広がる。
「でも噛んだのは事実だから。 本当にごめんね」
「こちらこそ、すまなかったね。 ── ではこれで、その件は終わりということにしようか」
「うん。 じゃあ……また明日ね」
 彼女は胸のつかえがが下りたのか、明るく笑って走っていった。
「── 優しい子だね、梓は」
 ぽつりと呟いたダリウスの顔に、梓とは逆に暗い影が差す。
 彼女を見ていると、罪悪感が押し寄せてくるのだ。
 その反面、胸の中に温かな何かが満ちてくるのも感じていた。
 乾ききった大地に降る恵みの雨のような。
 その最初の一滴が今落ちたのかもしれなかった。

*  *  *  *  *

 もしかすると、それが一因だったのかもしれない。
 彼女に似合うと思って選んだのが、桃色の濃淡が美しい、艶やかに磨き上げられた珊瑚のネックレスで── その中央を飾るのが雫の形に似た石だったのは。
 ただ、その雫は恵みの雨から悲しい涙へと変わってしまったけれど。
 廂から落ちる雨の雫を見ていると、ふとそんなふうに思えてきた。
「── 梓、あのネックレスは?」
「えっ、仕舞ってあるけど……持ってこようか?」
「ああ、そうしてくれるかい」
 部屋へ走っていった彼女は、そう時間もかけずに戻ってきた。
「── はい」
「ありがとう」
 手の上に置かれたネックレスにじっと見入る。
 辛い出来事を思い出さないわけではないが、今は色の持つ優しい印象の方が強かった。
「つけても?」
「うん」
 彼女はにこりと笑って後ろを向く。
 ピンク色の珊瑚が彼女の胸元を彩った。
「ふふっ、私の世界だとね──ネックレスは『束縛アイテム』なんだよ」
「束縛……アイテム?」
「うん、ネックレスを贈るのは、相手を束縛したい、っていう意味なんだって」
「それは……言い得て妙だね」
 今思えば、彼女にこれを贈ろうと思った時には、すでに彼女を手に入れたいと思っていたのだ。 『黒龍の神子』としての彼女ではなく、『高塚梓』というひとりの女性としての彼女を。
 もう一度彼女を抱き締めて、ネックレスと肌に同時に触れるように唇を落とす。
「ひゃっ !?」
「ふふっ、色気に欠ける声だね」
「色気って……もうっ」
 拗ねる彼女の珊瑚よりも赤く染まった首筋へもう一度口付ける。
「── あ、残念」
「何が……?」
「結婚式の時……このネックレスつければよかったな」
「けれど、純白のドレスには、ルードが揃えてくれたあの真珠の方が合っていたよ」
「それでも!  ……だって、このネックレスは大事な思い出の品だもの」
 彼女は俯いて、珊瑚にそっと触れる。
 こんなにも大切にしてくれているのかと思えば、嬉しくて仕方がなかった。
 心に温かい何かが満ちる感覚は、今も変わらない。
 長いまどろみの間、語りかけてくれる彼女の声は、邪神に浸食され荒廃した心を温かく潤してくれた。
 もちろん触れることはおろか、姿を見ることさえかなわないのはもどかしかったけれど。
 そしてずっと気丈だった彼女の流した涙の一滴で満ちた想いが溢れて、きっと目覚めることができたのだ── 少なくともダリウスはそう感じていた。
 これまでの全てが大切な愛おしい想いの積み重ねになった。
「── そうだね」
「ねっ!」
 同意されたのが嬉しかったのか、彼女は首を捻って笑顔で見上げてくる。 その額に口付けた。 背後から抱きしめている今の体勢では、唇に届かなかったのが残念だが。
「……あ」
 頬を染める初々しさも相変わらず可愛らしい。
 改めてもう一度口付けた。 もちろん今度は唇に。
「── そうだ、もう一度結婚式をやろうか。 今度はそのネックレスをつけて」
「えっ !?」
「二人きりなら、かまわないだろう?」
「…………うん、いいけど」
「ふふ、よかった。 なら、部屋に戻ろうか」
 おもむろに彼女を抱き上げた。
 きゃっ、と小さく悲鳴を上げた彼女の胸元で、桃色の雫が揺れる。
 窓の外ではいつしか雨も止んでいて、雲の隙間に青い空が見えていた。

〜おしまい〜

ネックレスに関するあれこれ。
結婚式であのネックレスつけてほしかった派。

【2015/05/06 up】