■マシェリ

 怨霊の気配もなく、次の場所へ移ろうとしたその時── にわかにかき曇った空から大粒の雫が落ち始めた。
 夕方と呼ぶにはまだ早い時間だが、雨宿りしてもすぐに止むという確証もない。
「── 今日はもう終わりにしようか」
 ダリウスの提案に、同行していた政虎が面倒事から解放されたと言わんばかりにニヤリとほくそ笑む。
「虎、俺たちは先に帰っているよ」
「んじゃ、オレは野暮用済ませてくるぜ」
 言うが早いか、政虎はひらりと手を振って踵を返し、雨を避けようと小走りで行き交う人々の中へと紛れていった。
「少し移動するよ、梓」
 ダリウスは苦笑しながら半身にかけた外套を外すと、梓の姿を隠すようにすっぽりと頭から被せた。
「あっ……でもダリウスが──」
「かまわないから被っておいで」
 外套ごと梓の身体を抱えるようにして、足早に人目のない路地裏を目指す。
 辺りを見回して、人の気配がないのを確認して、
「……梓、つかまって」
「うん」
 外套の合わせから出て来た手が、ダリウスの腕を控えめにきゅっと掴む。
 直後、二人の姿は一瞬にして忽然と消え失せた。

*  *  *  *  *

「あ……」
 目を瞑る間もなく梓の視界に現れたのは、木漏れ日が光の粒となって降り注ぐダリウスの邸の前だった。
「……晴れてる」
「こちらは降っていなかったようだね」
 外套の中から見上げてくる梓に、にこりと笑みを向ける。
 彼女の頬にさっと朱が差して、腕を掴んでいた手をぱっと離した。
 その仕草は初々しくて可愛らしい。
「梓、その外套を俺の部屋に掛けておいてくれるかい?」
「えっ、でも……いいの?」
「何が?」
「……勝手にダリウスの部屋に入っても」
 外套の前を掻き合わせるようにして口元を隠す。
 いつも自分が身につけている外套が、何か別の貴重なもののようにダリウスには見えた。
「おかしなことを言うね、梓は。 俺がお願いしているんだから『勝手』ではないよ」
「あ……うん、じゃあ掛けておくね」
 梓は外套を被ったまま、裾をふわりと翻して邸の中に入っていった。

*  *  *  *  *

 庭に寄った後で自室の前まで戻ってくると、扉が開け放たれたままになっていて、中から小さな声が漏れ聞こえてきた。
「── どうしてダリウスはマントを身体の半分にだけかけてるのかな?」
 思わず吹き出しそうになりつつ、息を殺してそっと部屋の中を覗いてみる。
 すると外套を羽織ったままの梓が、部屋の片隅の姿見の前で鏡の中の自分と会話をしていた。
「あ、ダリウスって変身ステッキみたいな武器を持ってるから、普通にマント着ると魔法使いみたいだもんね」
 くすくす笑いながら、外套の裾をつまんでゆらゆらと身体を揺らしている。
 それから外套の前を掻き合わせ、大きく息を吸って。
「── あ、やっぱりいい匂い。 空間移動する時にダリウスにくっつくと、ふわっといい香りがするんだよね」
 それから、外套をばっと広げて、勢いよくくるりと一回り── する途中で、ばちっと目が合った。
「!」
 驚きに口を開けたまま固まってしまった梓の元へ近づき、その肩からそっと外套を取って自分の腕に掛けた。
「……ありがとう、梓。 おかげですっかり乾いたようだ」
「ごごごごごごめんなさいっ!  あっああああのっ、いいいつから見てたのっ!?」
「そうだね……どうして外套を片方の肩だけにかけているのかは、梓のご想像にお任せするよ」
「……そ、そんな前から……っ」
 よほど恥ずかしかったのか、耳まで真っ赤に染め上げた梓は小さく消え入りそうな程に俯いて。
「ふふっ……梓、今日も怨霊退治、お疲れ様。 ご褒美だよ」
 そう労って、さっき庭で摘んできた一輪のダリアを差し出した。
「あ……ありがとう…」
 両手でそっと受け取って、赤い顔のままふわりと笑う。
「っ ── 夕食まで部屋で休むといい」
「う、うん……そうするね」
 恥ずかしさの極みだったからなのか、彼女はよろよろと覚束ない足取りで戸口まで進むと足を止めてわずかに振り返り、
「── あ、あの、ダリウス……」
「ん?  どうしたの?」
「あの……今日はマント貸してくれてありがとう。 おかげで濡れなくて済んだよ。 それから……お花もありがとう── ま、また後でね!」
 いつもより少し早口で一気に言うと、ばっと逃げるように駆け出した。
 しばらく足音が続いて、彼女に貸し与えた部屋の扉がバタンと閉まる音が響いた。

 音が消えてからしばらくの間、ダリウスは何故か動けないでいた。
 ゆっくりと腕を持ち上げ、仮面をつける時のように片手で顔を覆って。
 眩暈を起こしたような浮遊感に耐え切れず、身体がゆらりと傾いでいった。
 身体を支えようと咄嗟に傍の机に手をつくと、ダンッと思いのほか大きな音が鳴った。
「── ダリウス様?」
 聞き慣れた声── 今日は邸に残っていたルードの声だ。
「今の音は── どうなさったんですっ !?」
 駆け寄ってきたルードに支えられ、ソファにどさりと腰を下ろす。
「横になっていてください。 今、水を持ってまいります」
「……構わないでくれていいよ……原因はわかっているから」
「もしや、お疲れが…?」
 心配そうに眉をひそめるルードに、笑って首を振り、
「いや……………梓があんまり可愛いものだから」
「──── は?」
 怪訝な顔のルードは、きっと体調の悪さを冗談で隠していると思っているに違いない。
 けれど、なにひとつ隠してはいないのだ。
 ダリウスはもう一度片手で顔を覆った。
 このまま『無関心』という名の仮面を被ったほうがいいのかもしれない。
 これから成そうとすることを考えれば、その方がどんなに楽か──
 込み上げてくる可笑しさで、くくっ、と喉の奥が鳴った。
「ダリウス様…?」
「── ルード、今日の夕食のメニュウは?」
「え……あ、はい、いい肉を手に入れましたので。 ですがさっぱりしたものがよろしければ──」
「いや、予定通りでいいよ。 梓が楽しみにしてるから、腕によりをかけて作っておやり」
「……かしこまりました」
 納得できていないような顔だったが、ルードは頷いて部屋を後にした。
 ふぅ、と大きな息を吐いて、何気なく視線を落とした手元には、まだ腕にかけたままの外套があった。
 そのまましばらく眺めた後、ゆらりと立ち上がって外套を広げて肩に羽織った。
 それからさっき彼女が羽織って匂いを嗅いでいた時と同じように布地を顔に近づける。
 布地に触れた唇が、知らず苦笑の形に歪んでいた。

〜おしまい〜

第一章後半。
『梓ちゃん萌え』が溢れて止まらないダリウス様(笑)

【2015/04/24 up】