■SWEET LIP 龍馬

※初々しいキス10題 03:念入りにリップクリームを (お題提供:TOYさま)

 異世界に飛ばされたゆきが困ったことのひとつが『肌のお手入れ』だった。
 元々、顔を洗った後や風呂上がりに化粧水をつけ、薬用のリップクリームを塗る程度のことしかしていなかったけれど、それができないとなれば肌の調子が気になってくるのが乙女心というものである。
 長く逗留することとなった辰巳屋の仲居に尋ねてみると、化粧品屋に『へちま水』というものがあると教えてくれた。
 店の場所を聞き、翌日さっそく都と一緒に出かけて買い求めて。 使ってみれば、現代の化粧水とほとんど変わらず肌がしっとりしたので嬉しくなった。

 使っているへちま水がなくなりそうになった頃、ゆきは都と共に化粧品屋へ向かった。
 すっかり馴染みになった店員が笑顔で迎えてくれて、すぐに品物を用意してくれる。
「── こんなこと言うんも失礼やけど」
 勘定を済ませて帰ろうとすると、眉を曇らせた店員が言いにくそうに切り出した。
「……あの、何か…?」
「ゆきさん、口元のお手入れもしはったほうがええんちゃいます?」
「あ……」
 言われてみれば、唇がかさついているような気がする。 愛用していたリップクリームはここにはないのだから仕方ない。
「いいもの、ありますよ」
 店員が取り出したのは、小さな容器。
 ゆきの荒れた唇を心配してくれたのもあるのだろうが、そこは商売人。 ここから始まったセールストークに徐々に心が傾いていく。
 勧められたのは蜜蝋でできた塗り薬のようなもの。 要するにこの時代のリップクリームだ。
「これ塗ってたら、殿方が吸い付きたくなるような、ぷるんぷるんの唇になること請け合いや。 蜂蜜も入ってるさかい、ほのかに甘いしなぁ」
 したり顔でそう言われても、ゆきには今ひとつピンと来ない。
 だが確かに唇が荒れたまま放っておいたら、笑ったり、口を大きく開けたりした時に切れてしまうこともある。 できればそれは避けたかった。
「どうしよう、都」
「うーん、私もあっちにいた頃は、リップくらいは塗ってたし。 ま、邪魔になるもんでもないから、買ってみる?」
「そうだね」
 結局、二人は蜜蝋のリップクリームをひとつずつ買うことにした。

 それ以降、ゆきの周囲は激動と呼ぶにふさわしい慌ただしさとなり。
 京から長州、そして再び京。 さらに異世界と現代を行ったり来たり。 日光まで来たかと思えば、辛いことや悲しいことがいろいろあって、異世界の過去にまで飛ばされてしまったのだ。
 今は最後の戦いの前、体調を気遣ってくれる仲間たちがくれた数日間の休養を取っている。
 ゆきは部屋の片隅に置かれた小さな鏡台の前に座った。
 京にいる頃、八葉のうちの二人の青龍── 瞬と龍馬から贈られたものだ。
 鏡に映った顔に、我ながらすっかりやつれたものだとがっかりする。
 小さな引き出しを開けると、最初からこの中に忍ばせてあった鈴蘭の香りの香水の入った小瓶と、別の小さな容器が入っていた。
「あ……蜜蝋のリップクリーム……」
 慌ただしさの中で存在をすっかり忘れてしまっていた。
 引き出しの中から取り出すと、蓋を開けて蜜蝋を指先に取り、ゆっくりと唇に塗り延ばす。
 指先に触れるちくちくとした感触。 随分と荒れていることに、さらに落胆した。
 ふと、これを買った時の化粧品屋の店員の言葉を思い出す。
 ── 殿方が吸い付きたくなるような、ぷるんぷるんの唇になること請け合いや。
 はっとしたゆきの顔が一気に赤く染まる。
 過去から戻ったその時、どうしてももう一度会いたいと願ったその人から与えられた情熱的な口付けが、感触と共に脳裏に蘇ったのだ。 今のゆきにとって『殿方』と言えば、龍馬の他にはいない。
「やだ……どうしよう……こんなガサガサの唇で……」
 悲しそうに鏡の中の自分を見つめていたゆきは、気を取り直して蜜蝋を何度も何度も丁寧に唇に塗った。

「── お嬢、入ってもいいかい?」
 かけられた声に、ゆきは慌てて蜜蝋を引き出しの中にしまい込んだ。
「あっ、はい、どうぞ」
 邪魔するぜ、と部屋に入ってきた龍馬は、ゆきの前にドサリと腰を下ろす。
 なんとなく気まずい思いがして、鏡台を背に隠すようにして座り直して俯いた。 たった今考えていた内容が内容だけに、彼の顔をまともに見ることができない。
「……あの、龍馬さん…?」
 いつまで経っても一向に彼が話し始める気配がないため、ゆきは勇気を振り絞って顔を上げて問いかけた。
 すると、龍馬はニコニコ── いや、ニヤニヤと形容した方がふさわしい笑みでゆきを見つめていたのだ。
「女が紅を引く姿ってのは、なんかこう、色っぽいというか── いいもんだなぁ、うん」
「──!」
 ギクリとしたのが伝わったのか、龍馬は慌ててぱたぱたと手を振りながら、
「いやいやいや、女なら誰でもいいって訳じゃないぜ。 惚れた女── お嬢だからそう思うんだ」
 そう言って、にっこりと晴れやかに笑う。 いつもなら安心をくれる彼の笑顔が、今だけは恥ずかしすぎて直視できなかった。
「あ……あの、今の……見て……?」
「ん?  紅引いてるところか?  あー、お嬢の顔を見に来たら、ちょっとだけ障子が開いてたもんだから見えちまったんだ」
「そう……ですか…」
「覗くつもりじゃなかったんだが……すまん、嫌だったよな?」
 ゆきは深く俯いたまま、ふるふると首を横に振った。
 本当は見られて嬉しい姿ではないけれど、障子をきちんと閉めていなかった自分の落ち度と、彼とのキスを思い出していた疾しさという自分の気持ちの問題なのだ。 彼を責めることなんてできるはずもない。
「あの……痛くありませんでしたか…?」
「痛い?  俺は別にお嬢から何もされてないぜ?」
「いえ……その、私……すごく唇が荒れてて……」
「くちび……る…っ !?」
 言いたいことは伝わったようだ。
 聞こえてくるせわしない衣擦れの音にそっと上目づかいに盗み見ると、彼は少し赤くなった顔をあさっての方向へ逸らしながら、がしがしと頭を掻いていた。
「あー、あん時はお嬢が戻って来てくれたのが嬉しすぎて夢中だったからなぁ」
 彼のあまりの照れっぷりが可愛く見えて、思わず微笑んでしまった。 おかげで幾分気持ちも落ち着いて楽になってきた。
 ゆきはさっきしまい込んだ容器を鏡台から取り出した。
「これ、京で買った蜜蝋なんです。 唇の荒れにいいって勧められて、都と一緒に買ったんですけど」
「ははーん、なるほどな。 紅にしちゃあ色がついてないからおかしいなと思ったんだ」
「蜂蜜も入ってて、ほのかに甘いんですよ」
「へぇ、舐めてみたのかい?」
「唇に塗った時、ちょっとだけ」
 ふふ、と笑い合う。
 よかった、緊張せずにいつも通りに話せる── そう安心してしまったのがよくなかった。
「よかったら、試してみますか?」
「おっ、いいのか?」
「はい」
 使ってもらおうと蜜蝋を差し出した手のすぐそばをすり抜けた龍馬の手が、ゆきの頬にそっと添えられる。
「そんじゃ、お言葉に甘えて」
「え…?」
 彼の顔がぐいっと近づいてきて、ゆきは反射的に目を瞑ってしまった。
 どうしたんですか、と問いたくても、口元は柔らかく塞がれている。
 ── もしかして、これって…?
 考えようにもだんだん酸欠状態になってきて、クラクラして頭が働かない。
 しばらくすると、ふっと息が楽になった。
 恐る恐る目を開けると、間近に少し頬の赤い彼の顔。 いつの間にか、ゆきは彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。
 ぼんやりと見つめていると、彼が自分の唇をぺろりと舐めた。
「── うん、確かに甘いな」
「……っ !?」
 混乱してきた頭で必死に考える。
 男の人がリップクリームを使うのは普通のことだと思っていたけれど、この時代にはまだそんな習慣がないとしたら? 今はリップ── 蜜蝋をつけているのは自分だけだ。 そこに『試してみますか?』と提案したということは?
 ── もしかして、キスをせがんだと思われた !?
「あ、あのっ!」
「いやぁ、お嬢にこんなに気を遣ってもらえるとは、男冥利に尽きるってもんだぜ」
 誤解です!── とは言わせてはもらえなかった。
 再びの酸欠状態の中で考える。
 はしたない女だと思われたくはないけれど、よく考えてみれば唇の荒れを気にしたのは、彼とこうしてキスすることが前提にあるからで──
 そこから先は手から蜜蝋が転がり落ちてしまったのにも気づかないほど何も考えられなくなって、彼に身を委ねるより他なくなってしまったのだった。

〜おしまい〜

 やりたい放題・その3
 シリアスかと思いきや、別の話かと思うくらいイチャコラする二人(笑)
 ゆきちゃんが過去から戻ってから最後の戦いまでの間のこの時期の妄想するのが好きです。

【2012/05/29 up】