■幸福論
何かが作り出されていく光景は見ていて面白いものだ、と龍馬は思った。
形が変わり、色が変わり、匂いが変わっていく。
元の世界でこんな風にじっくりと目にすることなどなかったが、これはなかなか奥が深いものなのかもしれない。
「── あの、龍馬さん……危ないですよ?」
手を止めて肩越しに振り返ったゆきが、申し訳なさそうにたしなめた。
彼女の手元では半分まで刻まれた野菜がまな板の上に横たわっている。
そう、彼女は料理を作っている真っ最中だった。
最初のうちは、可愛らしい色合いのエプロンを翻し、くるくると楽しそうに動く彼女を眺めているのが楽しかっただけなのだ。
そのうち、彼女が作ってくれる珍しい料理がおいしくて、どんな風に作っているのか興味が湧いた。
そうなると自分の目で確かめなければ気が済まない龍馬のことである。
彼女がいる台所に入り浸るようになるまでに時間はそうかからなかった。
洗ったり刻んだりと下準備された食材が、焼かれ、炒められ、茹でられ、あるいは煮込まれる。
調味料といえば醤油か塩くらいしか知らない龍馬だが、彼女は小瓶に入った見知らぬ液体や、スパイスとかいうものも使って手際よく味を調えていく。
その過程は実に面白い。
今は包丁を使う彼女の背中に張り付き、覗き込むようにして手元を見物していたのである。
刃物を手にしているだけに、危険を感じたらしい。
「ハハッ、すまんすまん」
確かに、万が一包丁が彼女を傷つけてしまっては一大事だ。
とりあえず、名残惜しくも半歩後ろに下がる。
ゆきは少しほっとしたように微笑むと、残りの野菜を刻み終え、ぐらぐらと湯が沸いている小鍋の中に入れる。
菜箸でくるりと混ぜた後、包丁とまな板を洗って片づけた。
それから彼女はさっきからほかほかの湯気と食欲をそそる匂いを立てている鍋から煮汁をひと掬い小皿に取って、ふぅふぅと息を吹きかけ、そっと口をつけた。
「── うん、おいしい」
満足そうにふわりと笑う。
そんな光景を眺めていたら、自分は世界で一番の幸せ者だと思えてきた。
いや、事実幸せなのだ。
留まることを知らず湧き上がってくる幸福感に、龍馬の身体は操られているかのように勝手に動いた。
「きゃっ !?
……あ、あの……龍馬さん…?」
彼女の声が全身から伝わってくる。
それもそのはず、彼女の身体を背中から抱きしめているのだから。
惚れた女が自分のために食事の支度をしてくれている──
そんな光景が目の前にあれば、抱きしめたくなるのが男というもの。
こじつけのような持論を頭の中で展開しつつ、抱きしめる腕に力を込める。
「ん?」
「……離してくれないと、お料理できません」
「ちっとばかし遅くなるくらい構わんさ」
「構います!
私、お腹減ってますからっ」
一食二食抜いたところで命がどうこうというわけでもないのだが、彼女にひもじい思いをさせるのも申し訳ないし──
仕方ない、離れてやるかと思ったところで、ふと悪戯心がむくりと頭をもたげた。
彼女の首筋に鼻先を埋める。
周囲に漂ういい匂いとは別の、彼女の香りを胸一杯に吸い込んだ。
そのまま滑らかな肌に唇を寄せる。
その瞬間、腕の中の華奢な身体がふるりと震えた。
今更ながらの初心な反応に調子づいた悪戯心が、龍馬に二択を突き付けてくる──
味わうようにちろりと舐めてやろうか、それとも跡がつく程に吸いついてやろうか。
迷わず両者を選んで、舐めた後で吸いついた。
「っ !?
もうっ、龍馬さんっ!」
「おおっと、退散退散!」
慌てて戒めを解いてやり、台所を後にする。
「とびきり美味い飯頼んだぜ、お嬢!」
振り返るとどこか熱っぽい溜め息を吐く彼女の真っ赤に染まった顔が見えて、満ち足りた気分で龍馬はリビングのソファにどさりと寝転がった。
* * * * *
「── お待たせしました、龍馬さ……ん…?」
ようやくすべてのメニューを作り終えたゆきが見たのは、明かりも点けず薄暗い中、ソファに横たわる龍馬の姿。
胸元が穏やかに規則正しく上下しているところを見ると、すっかり眠ってしまったらしい。
「あ……ちょっと時間かかっちゃったから……」
つけていたお気に入りのエプロンを外しながら、ソファのそばへ。
「龍馬さん、起きてください」
そっと肩を揺すってみる。
しかし龍馬は熟睡してしまっているのか、ん、と唸っただけで目覚める気配はない。
明日からはもう少し手早く──
ううん、もう少し早く支度に取りかかろう。
そんなことを考えながら、ソファの傍らにぺたりと座り込んだ。
「龍馬さん?」
もう一度肩を揺らそうとして、はたと手を止めた。
目の前にある顔を思わず見つめてしまう。
「龍馬さん……」
精悍で男らしい、端整な顔立ち。
今は眠っているせいか、少し幼くも見える。
顔かたちで人の好き嫌いを判断することなど決してしないゆきだが、この顔は──
好きだ。
二つの世界を救うなどという大仕事を成し遂げられたのも、彼の励ましや支えがあってのこと。
いつしかとても大切な──
大好きな人になっていたのだから、嫌いなはずがない。
寝顔を目にするのが初めてなわけではないが、こんな風にまじまじと眺めるのは初めてかもしれない。
せっかく作った料理が冷めてしまうのを危うく忘れてしまいそうだった。
「……龍馬さん、起きてください」
せっかくの眠りを邪魔するのは忍びないけれど、心を鬼にして肩を揺する。
「龍馬さんっ!
…………もう」
どうすれば彼は起きてくれる?
「── あ、そうだ」
いい考えがひらめいた。
ひらめいたはいいが、実行に移すには少し恥ずかしくて躊躇ってしまう。
どうしよう、とぶつぶつ呟きながらしばし思案し、決意した。
「龍馬さん、起きて────
えいっ!」
ゆきは思い切って、龍馬の幸せそうな寝顔の上に屈み込んだ。
* * * * *
船の上にいるのかと思った。
心地よく身体が揺れる。
遠くから呼ばれたような気がした。
徐々に近くなっていく柔らかな声が彼女のものだと気づいて嬉しくなった。
「── 龍馬さん、起きてください」
ああそうか、うっかり眠ってしまったのか。
「龍馬さん!」
彼女に呼ばれるのと、ゆらゆら揺れる心地よさで目を開けられない。
だがいつまでもこのままでいるわけにもいかないから、もう一度名前を呼ばれたらどうにか目を開けようと決めて。
するとぶつぶつと何かを唱えるような呟きが聞こえてきて、
「龍馬さん、起きて────
えいっ!」
さすがは元・龍神の神子、本当に何か呪文でも唱えたか?
そう思った直後、頬にむにゅっと柔らかいものが押し当てられた。
「!」
思わずぱちりと目を開けた。
目を開けて最初に見えるものが彼女の愛らしい顔とは、なんと幸せなことだろう。
「あっ」
声を上げた彼女の顔が薄暗がりの中でも赤く染め上がっていくのがわかった。
さっき頬に触れたものが何なのか、その顔を見れば一目瞭然だ。
「お嬢〜、なんちゅう可愛いことをしてくれるんだ」
慌てて逃げようとする彼女に腕を伸ばして囲い込み、ぐいっと引き寄せる。
きゃっ、と小さな悲鳴を上げてドサリと胸の上に落ちてきた重みをぎゅうぎゅうと締めつけた。
「っ、龍馬さん、何度呼んでも起きてくれないから…っ」
耳元で聞こえる声が少し拗ねている。
知らず緩んできた頬を、すぐそばにあった彼女の柔らかい頬にぺとりとくっつけた。
「あー、悪かったな。
すっかり眠っちまった」
「お待たせしてごめんなさい。
ご飯、できましたよ?」
「ああ、ありがとな。
けど、もうちっとこうしてようぜ」
「……ダメです、ご飯冷めちゃいます」
「お嬢が作ってくれるもんは、少しくらい冷めてもおいしいと思うがなぁ」
「あ……ありがとう…ございます……でも、やっぱり温かいうちに食べてほしいです」
龍馬としては、こんな風にただ身を寄せ合って他愛ない話をするのもいいものだと思うのだが、彼女はなかなか頑固だった。
それは以前一緒に旅をしていた頃から知ってはいたが、今の平穏の中にあっても遺憾なく発揮されているらしい。
どうやら彼女は退いてくれそうにないから、妥協案を提案してみることにした。
「なぁ、お嬢、もう一回……な?
そしたら起きる」
「……本当ですか…?」
「おう、もちろんだ。
ただし、ほっぺたは駄目だぜ?」
「っ!」
龍馬の腕の中で、ゆきは身を捩る。
どうにか逃げようとしているらしい。
「し、しませんっ!
ご飯を食べるのが先ですっ!」
「ん、わかった」
龍馬は自分でも驚くほどあっさり彼女を解放した。
彼女のほうも余程意外だったのか、少し身体を起こして、きょとんとした顔をしている。
「あの……」
「お嬢が自分で言ったんだぜ──
『飯が先』ってな」
「え」
たぶん意地の悪い笑いを浮かべているのだろう、という自覚はある。
彼女の顔がひくりと引きつったのがその証拠だ。
「よーし、飯だ飯!」
彼女の肩をそっと起こしてやり、ソファから立ち上がるのと一緒に彼女も立たせてやる。
それからくるりと身体を回して向きを変えてやった。
「あ、あの、龍馬さんっ」
「さあ、俺も皿を運んでやるぜ。
うーん、うまそうないい匂いだ」
彼女の背中を押して台所へ向かう龍馬の腹の虫が、料理のいい匂いにつられて、くぅ、と鳴いた。
〜おしまい〜
ツイッター診断メーカー妄想お題をだしたー にて、
『エプロン姿で首筋にキスされている龍ゆきを妄想してみよう。』
というのが出たものですから。
エロは書かない主義ですが、この話の中の龍馬さんの脳内はエロエロです(笑)
【2012/04/07 up】