■【旅路番外編】スウィートお江戸ライフ♪【5:看病】 龍馬

 稽古を終え、『今日はお嬢を誘って甘味屋にでも行ってみるか』と浮かれた気分で道場を出た龍馬が見たのは、ちょうど千葉家から人が出てくるところだった。
 江戸では有名な剣術師範の家なのだから、人の出入りも多いはず。 だが、出てきた人物は剣を扱うような風貌ではなく、さりとて剣を売りに来た商人には決して見えず。 強いて言えば── そう、医者。 手に提げた持ち手付きの木の箱は薬箱に違いない。
「── ありがとうございました」
「それでは、お大事に」
 千葉家の娘・さなが深々と頭を下げる。 医者── 『お大事に』と言ったからには、やはり思った通り医者なのだ── は軽く頷いて、立ち去っていった。
「さなお嬢さん!  どなたかご病気ですか !?」
 中へ入ろうとしたさなを慌てて呼び止め、駆け寄った。 千葉家に医者が来た、その事実が龍馬の血の気を奪い去っていた。 どうにも嫌な予感がする。
「あら、坂本さん……ええ、今朝からゆきさんが熱を出してしまって……」
 心配そうに眉根を寄せながら、さながそう答えた。
 予感が当たってしまった……龍馬はぶるりと身震いした。
 千葉家に縁もゆかりもないゆきがここで保護されることになったのは、怨霊に襲われ大怪我を負った彼女が道場の前に倒れていたのがきっかけである。 もしかすると、まだ傷が治りきっていなかったのだろうか。 毒にやられていたというから、まだ体力が戻りきっていなかったのかもしれない。
「あ、あのっ!  見舞わせていただいてもよろしいでしょうか!」
 このまま彼女の顔も見ずに藩邸になんて戻れるものか。
 少し困った顔をしたさなは少し考えてから、
「……眠っていると思うけれど……それでもよろしければ、どうぞ」
 しっかりと頷いた龍馬は、彼女が床に伏す部屋へと通されることになった。

*  *  *  *  *

「……お嬢」
 横たわる彼女は眉間に皺を寄せ、辛そうな顔で眠っていた。 頬が赤く染まっているのは熱があるせいか。 額に置かれた手拭いで冷やしているのだろう。 薄く開いた唇から漏れる呼吸は少し荒い。
「ん……」
 首を捻った彼女の額から手拭いがぱたりと落ちた。 乗せてやろうと拾い上げた手拭いは、お湯の中から取り出したかのように温もっていた。 水で冷そうと思ったが、さっきまで置かれていた桶はさなが水を替えてくると言って持ち去ってしまっている。
 さてどうしようか、と少し考えて、龍馬は彼女の額にそっと自分の手を置いた。 温もりきった手拭いよりは幾分ましだろう、と思ったのだ。
「ん……しゅ…に……」
 しまった、起こしてしまったか。 一瞬焦ったが、彼女が目覚めた様子はない。
「……そう、くん……」
 『そうくん』── 男の名か !?
 龍馬はギクリとして、額に置いていた手を引っ込めた。
 自分に出会う前、彼女と懇意にする男が一人や二人いてもおかしくない。 こんなにも可愛らしい彼女のことだ、周囲の男どもが放っておくはずもないだろう。
 なんだかもやもやして、胸を掻き毟りたい気分だった。
「……いや……しゅ…に……」
 彼女は一層眉間の皺を深くして、拒否するように微かに首を振る。 もしかして『そうくん』とやらは性質の悪い男で、夢でうなされるほど酷い目に遭っていたのか !?
「……そのおくすり、にがいの……あまいのが…いい……」
「……………………ハハッ」
 どうやら彼女は夢の中で苦い薬を飲まされそうになっているらしい。
「かわいそうに……お嬢は夢ん中でも病気になっちまってるんだな……」
 再びそっと額に手を乗せた。 手は多少温もってしまったはずだが、感じるのはまだまだ高い熱。
「今日はせっかく甘いもんご馳走しようと思ってたんだが……早く元気になってくれよ、お嬢」
「ん……りょうま…さん」
 ドキッとして弾かれたように手を引っ込めた。 何故かはわからないが、せわしなくキョロキョロと辺りを見回して。
 ── 今の、俺の名前、だよな?
 もう一度眠る彼女に視線を戻した時、さっきまで苦しそうだった彼女の顔にほんのりと笑みが広がった。
「── っ !?」
 彼女が自分の名を呼びながら笑ってくれた── ただそれだけで例えようもなく幸せな気分になった。
 さっき彼女の口から零れた男の名なんてどうでもいい。 できることなら彼女の夢の中に潜り込んで、病に苦しむ彼女を励ましてやりたい。 今現在夢の中で彼女に笑みをもたらした自分は、今ここにいる自分自身でないことが悔しかった。
 複雑な感情の中、ただ彼女への想いがとめどなく溢れてきて。 吸い寄せられるように彼女へと手を伸ばす。
 滑らかで柔らかそうな頬に、あと少しで指先が届くというその時──
「── 何か疚しいことをお考えではありませんよね?」
「いっ !?」
 多分何寸か飛び上がっていたかもしれない。 跳ねるように後ろに下がった龍馬が尻餅をついて見上げた戸口に、桶を抱えたさなが鬼の形相で立っていた。
「い、いや、それは誤解ですっ!  俺は疚しいことなどっ」
「さあ坂本さん、お引き取りください。 まったく、殿方というのは本当に油断も隙もないんですから!」
「や、本当に誤解で── っ」

*  *  *  *  *

 千葉家を追い出された意気消沈の龍馬は、土佐藩邸への道をとぼとぼと歩いていた。
 が、ふと口元にじんわりと笑みが浮かんでくる。
「あー、もうちょっと寝顔を見て── いやいや、看病していたかったなぁ」
 本当は苦しそうに寝込んでいる姿ではなく、元気に笑っている彼女に早く会いたいけれど。
「── 早く元気になってくれ、お嬢」
 空に向かって呟いて、一呼吸吐いて歩き出す。 元気になった暁には、苦い薬じゃなく甘いものをたらふく食べさせてやろうと心に誓いながら。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 今回のネタ提供神子様は、みやさま。
 『体調を崩し寝込んだゆき。龍馬が額を冷やす布を変えようとすると、
  男の名前(瞬?)を口にしてもやもやする龍馬』
 ゆきちゃんの「しゅ…に…」はもちろん「瞬兄」なのですが、
 「男の名前」として認識するのが難しいかな、と。

【2011/06/13 up/2011/06/22 拍手より移動】