■アシュ千で五十音【さ行/た行】
★このページは【さ行】【た行】です。
さ 【去る者は追わず】
「アシュヴィンの馬鹿っ!」
我ながらボキャブラリーに欠ける罵声だとはわかっていても、いきり立って思考停止した自分の口から飛び出すのはいつもこれだ。悔しいことに。
「………っ」
何か言いかけた彼はきゅっと口元を引き結び、鋭い眼差しで私を一瞥してから部屋を出て行った。
ふわりとたなびくマント。
視界が細く狭まった後、バタンッと大きな音にビクリと肩が震えた。力任せに扉が閉められたのだ。
「あっ……」
しんと静まり返った部屋の中で、私は閉ざした扉を見つめながら唇を噛む。
今すぐ追いかけて、ごめんなさい、と一言言えばいいのに。
けれど。
── 怒らせたのは向こうだ。私は悪くない!
自分を正当化しながら、血の上った頭を冷やすためにテラスに出た。
緑豊かな草原を吹き抜けてきた青い匂いのする風を肺いっぱいに吸い込んで。
すぐにカッとしてしまうのは、私の悪い癖。国を預かる者のひとりとして、直さなければいけないとは思っている。
深呼吸を繰り返しているうちに昂ぶった気持ちが落ち着いてくると、今度は一転、自分の進歩のなさに落ち込んできた。
「はぁ……」
思わず漏れる溜息。
がっくりと項垂れたその時、背中からやんわりと拘束された。
「── 俺が悪かった。頼むから機嫌を直してくれ」
耳元で囁かれる吐息混じりの謝罪の言葉に心が震えた。
なーんだ、と妙に納得した。
さっき追わなかったのは、こうされるのがわかっていたからかもしれない。
強くて自信家で、時に傲慢にも見える彼が、唯一私だけに見せる情けない姿を期待して。
「………うん」
笑い出しそうになるのを必死に堪えて、不機嫌の残る声を無理矢理作って。
彼の温もりと吐息を首筋に感じながら、心に決めた。
── 次も絶対に追いかけてなんかあげないんだから!
(え゛、使い方間違ってるって?)
し 【幸せに浸る】
「こんなにのんびりした日も久しぶりよね」
「せっかくの休みなのにいいのか? どこかの市を見に行きたいとか言っていただろう?」
「んー、行きたいけど、今からじゃあね。護衛の兵も動かさないといけなくなるし、急だと悪いじゃない?」
「ならばこっそり抜け出せばいい」
「ばれたらリブに怒られちゃうよ」
「構うものか」
「またそんなこと言って。でもいいの、こうしてなんにもしないでゴロゴロしてるのも悪くないわ」
「どこかの鬼道使いみたいなことを言うんだな」
「ふふっ、そりゃあ長いこと一緒に暮らしてましたから」
ほんの少し嫉妬めいた気持ちが湧いてきて、透きとおるように白い肌に手のひらを滑らせる。
くすぐったい、と身を捩る彼女を逃がさぬように捕まえて。
確かにこんな一日も悪くない。
(エロ皇子降臨/シチュエーションは各自妄想してお楽しみください)
す 【スタートライン】
どす黒く濁っていた空がみるみる青く澄み渡っていく。
身体に纏わりついていた冷たく湿った空気が、嘘のように温もりを取り戻した。
「── 終わったな」
高く掲げた弓をゆっくりと下ろす彼女に寄り添う。
「いいえ、これから始まるんだわ。国の復興も──」
ふぅ、と息を吐いた彼女の身体が徐々に傾ぐ。肩を支えてやると、そのまま倒れこんできた彼女はアシュヴィンの胸に額を擦り付けるようにして、もう一度細い息を吐いた。
「── 私たちも」
囁く声は、まるで寝言のようだ。
そう思った瞬間、カクンと彼女の膝が折れた。慌てて抱き止める。
この細い身体で世界を救ったのだ。大役を果たして緊張の糸がぷつんと途切れたらしい。
気を失うように眠ってしまった彼女を抱き上げて。
「……ああ、そうだな」
うっすら微笑みを浮かべている彼女の寝顔を覗き込みながら、彼もまた笑みの形に口の端を吊り上げた。
(嬉し恥ずかし新婚生活が待っている(笑))
せ 【正装する】
女王の装束に身を包んだ彼女を目にした瞬間、思わず言葉を失った。
重ね着したそれは華奢な彼女には少々重そうにも見えたが、ただ綺麗だという言葉しか頭に浮かんでこない。
いつもの戦装束も凛々しくて悪くないが、女というのは身に纏うものひとつでこんなにも印象が変わるものかと感嘆する。
文化の違う異国の衣ですらそう思うのだから、馴染み深い自国の衣装で身を飾ってやればどれほどのものだろうか。
戦略上の手段のひとつとしての結婚に彼女が納得していないことは一目瞭然だった。
だが、すべてを終えた暁には、この胸の内に宿る想いをぶちまけて、何が何でも純白の花嫁衣裳を着せてやろう。
そう決意しながら、今はまだ偽りの妻でしかない彼女の手を取った。
(政略結婚時にすでにメロメロでメラメラな皇子)
そ 【相談する】
寄り添って腕を組み、やけに親密そうなふたりが天鳥船の通路の角を曲がったのが見えた。
その後を足音を殺してついていく。尾行というわけではなく、自分もふたりが向かった方向に用があったのだ。ならば足音を殺す必要性はないはずなのだが。
ふたりは無数にある小部屋のひとつに入っていった。
その部屋に用があるわけではないのだから入っていくわけにもいかず、気にはなったものの仕方なく通り過ぎた。
そんな光景を何度か目にしたのち。
通りかかった小部屋の扉が僅かに開いているのに気がついた。
なんとはなしに前を通り過ぎようとして、耳に飛び込んで来た声に足が止まる。
「── でもなぁ、千尋ちゃんがそんなんじゃあ、実るもんも実らんよ?」
「だって、戦いが終わったら政略結婚なんて意味がなくなるでしょう?」
「だったら戦の後で結婚は白紙にするって言い出さんように、今のうちから彼の気持ちをがっちり掴んどいたらええんとちゃう?」
「ええっ !? ど、どうやって?」
「そりゃ千尋ちゃんが女を磨く努力をするしかないやろ」
「うぅ……難しいけど、頑張ってみる……」
「おきばりやす〜♪」
扉が開く気配に、慌てて通路の影に身を隠す。
そっと様子を窺ってみると、哀愁を漂わせた丸めた背中がとぼとぼと向こうへ歩いていくのが見えた。
そんな心配などする必要はないのに。
笑いそうになるのを堪えていたら、もうひとりが部屋から出てくるのに気づくのが遅れてしまった。
ばちっと目が合った。
特に気にするふうもなくこちらに歩いてくる大柄な女が通り過ぎざまに、
「罪なお人どすなぁ」
真っ赤に塗られた唇をニィッと意味ありげな笑みの形に歪ませた。
(一応ガールズトーク?/いろんな矛盾はスルーでね♪)
た 【食べ物を粗末にしてはいけません】
ゆうべ遅くなったせいで朝寝坊を決め込んでいたアシュヴィンは、微かに鼻をヒクつかせながらゆっくりと目を開けた。
寝惚けた頭にもわかる、何かが焦げる臭い。
すわ火事かっ !?
慌てて飛び起き、夜着のまま廊下へ駆け出した。
「のわっ !?」
もうもうと立ち込める真っ黒な煙。
向こうからドタバタと慌てふためく音がする。
石造りの建物は燃え落ちることはないだろうが、保管してある竹簡はあっという間に灰と化す。
アシュヴィンは小さく舌打ちして、煙と騒ぎの元へと向かった。
袖で口と鼻を覆い、煙の沁みる目から涙を流しながら辿り着いたのは厨房。
濃さを増す煙の中、ジュッと焼いた鉄を水に入れたような音がした。
「一体何事だっ!」
声を張り上げた直後、まともに煙を吸ってゲホゲホとむせる。
「うぅ……ごめんなさい……」
「千尋…?」
「お昼ご飯作って、アシュヴィンに食べさせてあげたくて……」
ヒックヒックとしゃくりあげていた千尋が両手で顔を覆って、本格的に泣き始めた。
……やれやれ。
泣きじゃくる千尋を抱き寄せて、あやすように背中をさすってやる。
「……だから料理人に任せておけと言っただろう」
「だって……」
「わかったわかった、お前のその気持ちだけで十分だ」
はぁ、とこっそり溜息を吐いて。
ようやく煙が薄らいできた厨房のかまどの前で、鍋の中の炭化した何かを水で消し止めたのだろう、
水瓶を抱えた今にも泣き出しそうな料理人が必死で何かを目で訴えている姿が見えて、アシュヴィンは堪えきれない大きな溜息を吐き出した。
(まあ、努力は認めてあげようよ)
ち 【誓い】
突然近づいて頬に触れられたから、驚いて思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。
ふ、と笑う気配がしたと思ったら、眉間の少し上あたりにぺたっとひんやりした感覚。
ゆっくりと目を開けると、そこには少し意地悪そうに笑う彼の顔があった。
朱に染まった指先を見せて、ニッと笑みを深くする。額に生まれたひんやりしたものは、それをつけられた時のものらしい。
び……っくりした……キス、されるのかと思った。
心臓のドキドキが鼓膜を直接叩くみたいにやたらうるさくて。
今さら聞かなくても知ってるくせに、と思いながら、ただ問われるままに名前を告げた。
その時何を誓ったのか、頭がきちんと理解したのは本当にキスをされてから。
じわじわと嬉しさがこみ上げてきて、伸ばした腕を彼の首に回してしがみついた。
(大団円・妻問いイベントより)
つ 【疲れを癒す】
「── それではこれにて解散といたします」
議長役の文官長の一声で、集まっていた者たちがそれぞれ自分の持ち場へと帰っていく。
「お疲れさま。アシュヴィン、肩もんであげよっか?」
千尋は椅子から立ち上がり、隣の席の後ろへと立った。彼女の夫が大きく息を吐き、首を回し始めたからだ。
じゃあ頼む、とアシュヴィンはリラックスした様子で椅子に深く身体を沈めた。
「あ、やっぱり凝ってる。頭痛くなったりしない?」
「いや、そこまでではないな。あー、もう少し首の方」
「ここ?」
「ああ……気持ちいいな」
「そう? よかった」
言葉通りによほど気持ちが良いのか、彼の顔は一国の皇とはとても言いがたいほどに緩みきっている。
しばらくして、何を思ったのかアシュヴィンは肩に置かれた妻の手を掴んで引っ張った。
同時に彼は立ち上がり、引っ張られてよろける千尋を導いて、入れ替わりに椅子に座らせた。
今まで彼女が立っていた場所に立ち、ぽん、と肩に両手を乗せる。
「えっ、な、何っ?」
「今度はお前」
そう言って、手に力を入れる。
「いったたたたたっ!」
「悪い悪い」
たいして申し訳なくもなさそうに言って、やわやわと手を動かす。
「きゃははっ、く、くすぐったいってばぁ!」
足をじたばたさせて千尋は身悶える。
アシュヴィンはそんな彼女の様子を楽しんでいるようだ。
すっかり見慣れた光景ではあるけれど。
残って議事録の整理をしていた書記係の文官が、げっそりと疲れた顔でそっと会議室を出て行った。
(何かと理由をつけて千尋に触れていたいだけ)
て 【手紙】
「はい、とぉさま♪」
最近読み書きに興味を持ち始めた愛娘・ラクシュミが差し出した一巻きの竹簡。時折こうして執務室に届けに来るようになった。
ありがとう、と受け取って中を読む。
と言ってもそこには判読不能な文字もどき。
何と書いてあるのか聞くわけにもいかず、読む振りをして、ああわかった、と答えておく。
「ほんと !? やくそくよ、とぉさま!」
「ああ、もちろんだ」
跳ねるように部屋を出て行く娘の後ろ姿を眺めながら、はて約束とはなんだろう、と首をひねりつつ、中断していた仕事へと戻った。
翌朝。
「とぉさまのうそつきっ!」
起きるなりぶつけられた娘の悲痛な声。ばたばたと部屋を飛び出して行った。
訳がわからなくてぽかんとしていると、苦笑しながら千尋がやってきた。
「あの子、ゆうべアシュヴィンが戻ってくるのを待ってたの。眠いの必死で我慢して」
彼が自室に戻った時、妻も娘も先に休んでいた。仕事が終わらず、真夜中を過ぎてしまったのだ。
「はぁ? それがどういう──」
「昼間、竹簡持っていったでしょ?」
「ああ」
「それにね、『おしごとがおわったら、いっしょにあそぼうね』って書いてあったのよ」
約束とはそれか!
時すでに遅し、である。
それにしても──
「お前、あれが読めるのか?」
「ううん、読めないけど」
「ならどうして書いてあることがわかるんだ?」
「ああ、あの子、書きながら口に出してるから」
千尋はくすくすと笑いながら、
「読めないなら何て書いてあるのか聞けばいいのに」
「そんなことできるか。せっかく懸命に書いたんだろうに」
「うっわ、親バカ……」
否定はしないが、指摘されればカチンとくる。
ムッとしたのに気づいたのか、千尋が慌ててひとつの提案を持ちかけた。
「……なるほどな」
次はしくじるまい、と拳を握り締め、妻の提案を頭にしっかりと叩き込むように心の中で反芻する。
『せっかくだから、ここで読んで聞かせてくれないか?』
目を輝かせて竹簡を読み上げる娘の姿を思い浮かべ、アシュヴィンはほわりと頬を緩ませた。
(もう何も言うまい……)
と 【遠回り】
「アシュヴィン?」
黒麒麟が進路を逸れたのに気づいて、千尋は後ろから包み込むようにして手綱を握る夫の腕をそっと掴んだ。
「うん?」
「どこへ行くの?」
よくわかったな、と笑う声が背中に直接響いてくる。
「この先の山の紅葉が見事だと聞いたのでな」
「でも、早く戻らないといけないんじゃないの?」
「ゆっくりはできんが、少しなら構わんだろう。不満か?」
「ううん、嬉しいんだけど──」
嬉しいんだけど、いいのかな?
とある村での仕事を終え、隣国の使者との謁見のため、同行していた臣下たちより一足先に根宮へ戻る途中なのである。
「多少の息抜きくらいせねば、身が持たんぞ」
「でも、怒られちゃうかもよ?」
「好きに言わせておけ」
首を捻って振り返れば、悪巧みを思いついた子供のように笑っているアシュヴィン。
「じゃあ、帰ったら一緒に怒られようね」
悪巧みを共有して、ふたりニヤリと笑い合って。
なんだか楽しくなってきた千尋は目指す紅葉の山の方角へと目を向けて、彼の胸に背中を預けた。
(たまにはちょっと遠回りするのも悪くない)